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2018年12月 2日 (日)

昭和48年/1973年・「四畳半襖の下張」掲載での告訴と裁判を受けて立った野坂昭如。

永井荷風作と伝えられる戯作春本「四畳半襖(ふすま)の下張」を雑誌「面白半分」に掲載して、わいせつ文書販売罪に問われた作家の野坂昭如(五〇)と、元面白半分社社長の佐藤嘉尚(三七)両被告に対する上告審で、最高裁第二小法廷(栗本一夫裁判長)は二十八日午前、わいせつ文書の処罰は憲法違反に当たらないとした上で「この文書は主として読者の好色的興味に訴えるものと認められ、一、二審の判断は正当」として一、二審の有罪判決を支持し、被告・弁護側の上告を棄却する判決を言い渡した。

(引用者中略)

(引用者注:判決理由のなかで)わいせつ性を判断する際に「芸術性・思想性」も考慮に入れるべきだ、とした点は、これまでわいせつ性と芸術性・思想性などを「別」としてきた最高裁判例を実質的に手直ししたものといえる。

――『朝日新聞』昭和55年/1980年11月28日夕刊「「わいせつ」判断に新基準 最高裁「四畳半」などの上告は棄却」より

 文学というのは、それ自体がすでに犯罪だ。……と高らかに宣言したのは誰だったでしょうか。ほとんど詭弁か修辞の類いという感じもしますが、けっきょく文学は何モノにだって置き換えられる、その実体性のなさを表現したかったのかもしれません。

 実体性のなさ、というか、正解のなさ、と言ってもよさそうですけど、そういう文学の自由すぎる風合いが、無理やりにでも決まりや定義をつくりたがる法曹の体質と、派手にぶつかって大きな騒ぎをもたらすことがあります。たとえば、昭和48年/1973年~昭和55年/1980年の7年にわたる、野坂昭如さんを中心とした「四畳半襖の下張」裁判です。

 野坂さんたちが問われた罪状は、さほど複雑なものではありません。

 大正13年/1924年に永井荷風さんが書き上げたと伝えられる「四畳半襖の下張」という題名の戯作があります。昭和22年/1947年、一般流通に出まわらないかたちで松川健文(夏川文章)さんの手によって秘密出版され、たちまち警察当局に猥褻文書扱いされて、裁判に持ち込まれた結果、発行者に懲役三か月執行猶予二年の有罪判決がくだされた作品です。

 じっさい、これが秘密に出版されるまで、あるいは警察に目をつけられるまでの経緯そのものに、永井さんをはじめ、平井呈一さん、猪場毅さんなどなどの、幾人もの思惑、迷惑、私情、激憤といった感情がからみ合っていて、一つの叙事詩を形成するぐらいの物語が介在しているらしく、そこがもう最高にエキサイティングなんですが、それは脇におくとしましょう。この作品に高い文学的価値があると考えたひとりが、昭和43年/1968年1月に第58回直木賞を受賞、いっそう目立った活躍をしていた野坂昭如さんで、昭和47年/1972年、自分が編集長を務める『面白半分』7月号に、その全文を再録。すると、やっぱり取り締まり当局に摘発されて、昭和48年/1973年2月、野坂さんと『面白半分』発行人の佐藤嘉尚さん、両者合わせて東京地検に起訴されます。刑法175条、猥褻文書販売の罪ということだったんですが、罰則は大して重いものではありません。

 しかし、そこでよーし、裁判で争ってやろうじゃないかと、腕まくりするところが、野坂さんの面目躍如たるところでしょう。興行的なパフォーマンスを文学的な話題と結びつける野坂さんの稀有な才能がここでも開花、名前の知られた作家や評論家、メディアなどを味方につけて、ぞくぞくと裁判に動員し、大したことがなかったはずの単なるポルノ小説摘発事件を、一大文学ニュースに仕立て上げてしまいます。

 もちろん野坂さんは、裁判に勝つ気満々だったはずですが、と同時に、いまの時代における「猥褻な表現」とは、いったい何なのか。警察官や検察官、裁判官といった人たちが、猥褻かそうでないかを決定することの不条理性。そういった一種の問題提起を、とくに出版に携わる立場ではない、一般の人たちに関心を持てる話題として投げかけて、広げていくことも、野坂さんの目的のなかには確実にあったと思われます。

 ふだんは意識しないで生活している環境のなかに、マスコミをも活用することでニュース性をもたせ、社会の関心事のなかに文学(もしくは出版)を位置づける。……その考えかたは、ほどんど直木賞と同じです。直木賞、いやその他の多くの文学賞は、すでに名をなした客の呼べる作家を、選考委員に据えることで、注目されやすい姿を構成している一面がありますが、それと同様、「四畳半襖の下張」裁判の被告側も、弁護人や弁護側の証人として、次つぎに人気の作家、いっぱしの評論家を裁判所に連れ出し、そのことでニュースの重みと重要性を、世間に知らしめようとはかります。

 ということで、被告の野坂さんおよび『面白半分』側を援助するために立ち上がったのが、特別弁護人の丸谷才一さん、そして第一審で証人席に立った14名。五木寛之井上ひさし吉行淳之介開高健石川淳有吉佐和子金井美恵子、田村隆一、吉田精一、榊原美文、中村光夫、寺田博、奥平康弘、水沢和子といった人たちです。水沢さんは主婦なので別として、ほかは作家、詩人、研究家、評論家、編集者、学者といった面々を揃えました。

 「法廷は“文学講演会”さながらの異色の証人調べが続けられて来た。」「さしずめ、「現代日本文学全集」(丸谷氏の話)」(『朝日新聞』昭和50年/1975年11月28日)といった表現も飛び出す有り様で、とりまく記者たちも巻き込んで、真剣に文学のことで楽しんでいた様子がよくわかります。

 「四畳半襖の下張」がいかに文学性のある作品か。表現の自由と猥褻との線引きはどこまで可能か。昭和48年/1973年9月10日の初公判以来、2年近くかけて文学関係者がそれぞれ熱い主張を繰り広げます。その結果、昭和51年/1976年4月27日に東京地裁で出された判決が、野坂さん罰金10万円、佐藤さん罰金15万円の有罪判決。昭和54年/1979年3月20日、東京高裁の控訴審判決も、一審を支持して有罪。昭和55年/1980年11月28日、最高裁上告審また同様。……何年もかけていろいろ騒いだわりには、何かチッポケな話だよな、と不満げにつぶやいた記者が、いたとかいなかったとか。

          ○

 判決の結果や刑罰の軽重などは、この際どうでもいいのかもしれません。裁判中の盛り上がりは、一部の人にとっては相当にインパクトを持つものだった、と伝えられています。

 野坂さんがはじめて法廷に姿を現わすとなれば、記者やファンが詰めかけて、大きく新聞にも取り上げられましたし、五木寛之さんと井上ひさしさんがそろって証言台に立つ、という日もまた、当然のように注目されました。

「被告の野坂氏も直木賞作家なら、五木、井上両氏も直木賞受賞者。人気作家の法廷登場だけに、この日、東京地裁の正面玄関前には、早朝から若者が押し寄せた。

一番乗りは男子学生で午前五時半着。傍聴券は二十六枚で、八時半でもう定員をオーバーした。抽選にはずれた百人を超す若者たちは、あきらめ切れず法廷前の廊下に陣取って、休憩時間に両氏の姿をひと目見ようという騒ぎだった。」(『朝日新聞』昭和49年/1974年3月16日「「わいせつ尺度、おカミになし」 “四畳半裁判”五木、井上両氏が証言」より)

 井上さんが直木賞を受賞したのが昭和47年/1972年7月に決まった第67回のときです。この時期、昭和40年代におそらく10代~20代の若者たちにワーキャーだった五木・野坂・井上の3人が、一気に直木賞に対する世間的なイメージに変革をもたらしたのは間違いありません。いまとなっては、おじさんおばさんのものという印象の染みついてしまった直木賞の姿を見るにつけ、いったいどこで道を誤ったのかと、思わず胸が痛くなってきます。

 それはともかく、「四畳半襖の下張」については最高裁に至っても、総合的な判断の結果、販売するのは違法、という判断が下されたわけですが、その作品が文芸的かどうか、ということの他に種々の背景を考慮に入れて「総合的に」判断をくだすのは、直木賞でも同じです。法に触れるのか触れないのか、もしくは受賞とするか落選とするか、どちらも一定した線があるわけではありません。

 そう考えると、直木賞というのは、定期的に文芸をめぐる裁判が行われているようなものだ、と喩えるのはあながち的外れではなく、そこには人間による意見の主張、解釈と判断がありながら、有罪判決にしろ受賞決定にしろ、まったく絶対的なものなどあり得ない。その点に、犯罪事件の裁判と同種の面白さが直木賞に備わっているのだ、と改めて思わされるところです。略式命令に応じて罰金を払えばそれで済む、という検事局からの申し出を跳ね除けて、最後まで裁判をやり遂げた野坂さんのおかげです。

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