昭和46年/1971年・芸能界暴露記事への協力を強要された、と週刊誌を告訴したなかにし礼。
「取材に応じなければ、私生活をあばく」と作詞家なかにし礼さん(三二)(引用者中略)に“不本意な告白”をさせた疑い(強要罪容疑)で二十三日、週刊ポスト誌社外記者の新宿区百人町二丁目鈴木寿男(三二)中野区新井五丁目寺島義雄(三〇)の二人が警視庁に逮捕された。
調べによると、二人は七月九日号の同誌「衝撃の告白シリーズ・芸能界“相愛”図」について六月中―下旬、「以前お宅にいた内弟子のAさんから取材したあなたの私生活をのせる。いやなら“相愛図”の作成に協力しろ」という趣旨の強要をおこない、いかにもなかにしさんが自分から進んで告白したように発表した。なかにしさんは七月二十日「断ったのだが、石川県の出張先まで追いかけてこられて、無理やり話を聞かれたが、全体としてかなり違っている」と告訴していた。
――『朝日新聞』昭和46年/1971年8月24日「ウソの“告白”強要 週刊ポストの二記者を逮捕」より
20世紀に作詞家としてさんざん活躍したなかにし礼さんは、50代になってから本格的に小説家を目指し、平成12年/2000年1月、第122回直木賞を受賞したときには、すでに完全な有名人でした。有名人だから犯罪や事件を起こしやすい、とは一概には言えませんけど、多少のことをしても話題になり、結果としてオオゴトに広がっていきやすい、ということは言えると思います。
なかにしさんといえば、20代の若いころからヒットを飛ばし、なかなかの風貌も兼ね備えていたためか、各種メディアにも顔をさらしていましたが、そんななかにしさんが、うっかりなのか自業自得なのか、思わぬトラブルに巻き込まれたのは、32歳のころ、昭和46年/1971年のことです。
騒ぎの発端となったのは、小学館が発行する『週刊ポスト』の記事でした。この雑誌にはシリーズ企画として続いていた〈衝撃の告白〉という連載枠があり、そこを担当していた社外記者の鈴木寿男さんと寺島義雄さんが、芸能界のホレたハレたの内幕を暴露してくれそうな人として目をつけたのが、なかにしさんです。取材の結果、昭和46年/1971年7月9日号に「凄い芸能界“相愛”図=なかにし礼 「異常な特殊集団――ぼくは傍観者なのだが、あえて証言する」」というタイトルで、扇情的な記事を掲載。「最近、演奏家と結婚した女性歌手M・J」とか「最近婚約した清純派歌手I・Y」とか、基本的にはイニシャルを使いながらも、だいたい個人名が類推できるような表現で、誰と誰がくっついているとか、誰と誰が寝たとか、そういう話をずらずらと紹介します。
ところが、記事が出たことで慌てたのが、なかにしさんです。本人の証言によれば、そもそもは週刊誌の記者が、この秋に石田ゆりさんとの結婚式を控えていたなかにしさんの、かつての内弟子から聞いたという、じつは弟子の作詞を盗作しているとか、ホモの疑いもあるとかいったゴシップ記事を、もしも載せてほしくないならこの企画に協力しろ、と脅迫めいたことを言ってきたのだ、といいます。コメント・談話程度の扱いにする、ということでしぶしぶ取材に応じたのに、刷り上がってみれば、完全になかにしさんが自分の言葉で暴露したっぽく書かれている。何だこれは訂正してくれ、と編集部に掛け合ったけど折り合いがつかず、7月10日に告訴へと踏み切ります。
警視庁ではこれは強要罪の疑いがあると見て、捜査四課が事情を調査、すると8月23日、社外記者二人が突如逮捕される、というなかなか強行な展開に。一気に犯罪沙汰へと盛り上がりを見せたところで、しかし両者の話を突き合わせてみると、強要と言えるかどうかは微妙だし、告訴通りとは受け取れない事実も浮かび上がってくる。まもなく民事上では和解が成立して、10月9日になかにしさんが告訴を取り下げたところで、10月11日、東京地検はこれを不起訴処分にすることを発表します。
無理やり取材に協力させられた、事前の話と違っていたので告訴した、でも仲直りしたので取り下げた、という話題だけなら、さほどの騒ぎとは言えないかもしれません。しかしこの一連の動きは、単なるタレント同士の男女関係を詮索する、しがない覗き見趣味を超えて、さまざまな方面に影を落とすことになります。
なにしろ、あまりに早すぎたこの収束ぶり。何か裏があるんじゃないかと思われたからです。
少なくとも、ここで芸能プロダクションを中心とした業界団体が色をなしたことは間違いありません。なかにしさんの記事は、渡辺晋さんが理事長を務める日本音楽事業者協会(以下「協会」)の逆鱗に触れ、この問題が片付くまではなかにしに新しい仕事はさせない、などと息巻く関係者も現れる有りさま。われわれの商品であるタレントの価値をおとしめるような奴は、きつく懲らしめてやる……というかたちでの実力行為が現実にあったのかどうか、よくわかりませんが、なかにしさんを干す動きに発展したのだ、という噂ばなしが、あちこちの記事に躍ります。
協会の抗議の矛先は、なかにしさんだけではなく、当然週刊誌のほうにも向けられました。小学館に対して、謝罪の姿勢がないようであれば、今後、取材を拒否する、写真使用も禁止すると通告したのです。こうなってしまっては小学館としても妥協点を探すしかなく、けっきょく同社は協会側の要請を受け入れ、相賀徹夫社長の名で「日本音楽事業者協会、日本歌手協会ならびに関係各位に、多大のご迷惑をおかけ致しましたことを深くおわび」(『読売新聞』昭和46年/1971年10月1日「謹告」)という9月28日付の広告を全国紙に掲載。逮捕された記者二人はすぐに証拠不十分で不起訴、要するに冤罪に近い状態だったので、逆になかにしさんを誣告罪で告訴してやろうかと検討していたらしいですが、これ以上、協会との対立の溝を深めたくない小学館が、二人の記者をなだめ、会社から慰謝料を払って事を収めた、などとも伝えられています。
じっさい、このあたりを契機として、大手芸能プロが、メディアに対する圧力団体の性質を持ち出したのだ、ととらえる向きもあるそうです。こうなるともはや日本の芸能史に一大痕跡を残す事件だった、と言ってもいいんでしょうが、業界を揺るがす騒動の当事者として、それでもつぶされずに顔を出しながら稼げる作詞家の道を、その後も続けたなかにしさんの強さが、よけいにまぶしく見えるところです。
○
タレントがどうしたこうしたなんて、くだらなすぎて興味も沸かない。……と、せせら笑うことができないのは、この騒動はもっと根の深い日本社会が置かれた危機的な状況に関わっている、と指摘する記事がいくつか見受けられるからです。
ほんとうにそんな根深い背景があったのか、事実かどうかはあまり関係ありません。これはチッポケな芸能ゴシップでは済まされない、と主張した人たちがいる。そのことが重要です。
たとえば、『中央公論』昭和46年/1971年11月号の無署名子は、こんなふうに事件を紹介しています。
「「警視庁内に“言論暴力取締本部”が設置された。“極秘”にされているが……」
初夏のころからしきりにささやかれていた噂である。むろん、根拠のない、デマに近い噂だった。が、何となくあの“暗い時代”への逆行を予感させる、いやな噂でもあった。そして、噂とは別に、その“暗い時代”に向って一歩、踏み出したのではないかと思える“事件”が起った。
八月二十三日の午後、警視庁組織暴力取締本部員が『週刊ポスト』(小学館発行)の社外記者二人を、同誌の社屋近くの路上で突然、逮捕した。理由は“強要罪”の疑いだった。」(『中央公論』昭和46年/1971年11月号「東風西風 狙われる週刊誌ジャーナリズム」より)
体制による言論弾圧を無抵抗に許してしまっては、またあの第二次大戦のころの悲惨な轍を踏むだけだ……というのは、反体制派が何十年にもわたって得意げに使い回してきたおなじみの論理ですが、ともかく昭和40年代は、週刊誌によるスキャンダル記事が横行を極めたせいで、これに対する批判やバッシングが盛り上がった時代に当たります。ひとのプライバシーを踏みにじってまでも売れればいい、という低俗で下衆な週刊誌ジャーナリズムのやり口はいかがなものか、といった主張がわいわいと飛び交っていたそうです。そしてこの風潮に乗じた警察が、言論暴力を取り締まるという名目で、本気でメディア統制に乗り出してきたのだ、と危機感を抱く声もちらほら現れていました。
有名人の私生活の一端をバラそうとするゴシップメディアと、国家権力が潜在的にもっている情報統制しようとする姿勢とのあいだに、何らかの関係性を見出そうとする考え方です。前に取り上げた梶山季之さんの『生贄』事件(昭和42年/1967年)にも通ずるものがあります。
週刊誌業界のなかで食っていたと言っていい大物ライター竹中労さんも、警察が問答無用でいきなり編集者を逮捕した、という点に敏感に反応。というか、上で触れた『中央公論』の記事も、竹中さんかその近くの人が書いたものかもしれませんが、『展望』昭和46年/1971年11月号に竹中さんが署名入りで書いた「言論暴力とは何か――ゴースト・ライターの立場から――」では、より熱く、この問題の背景を臆測し、熱弁がふるわれていて、なかにし礼さんなどはそこに登場する一つのコマにすぎなかった、という感を催させます。
そんなふうに、暗い時代に向かって一歩、踏み出したんじゃないか、と言われた昭和46年/1971年。そこから47年もの月日が流れたところで、平成30年/2018年が終わります。
あれから何歩ぐらい暗い時代になったんでしょうか。よくわかりませんけど、芸能界に関する話題は決してそこだけでの関心事でなく、広くメディア全般を巻き込む力がある、という状況が、そんなに変わっていないことだけはたしかです。いまの直木賞(いや芥川賞)でも、芸能の話が介在すると、とたんに荒れた空気が醸し出されますが、こういうメディアや一般の反応なども、明らかに昭和40年代にも見られた伝統を受け継いでいるひとつでしょう。
| 固定リンク
« 昭和50年/1975年・『落日燃ゆ』が死者の名誉を毀損していると訴えられた城山三郎。 | トップページ | 平成5年/1993年・角川書店の社長だったときに麻薬取締法違反で逮捕された角川春樹。 »
「犯罪でたどる直木賞史」カテゴリの記事
- 平成27年/2015年・妻に対する傷害容疑で逮捕、不起訴となった冲方丁。(2019.06.02)
- 昭和58年/1983年・自分の小説の映画化をめぐって裁判所に訴えられた村松友視。(2019.05.26)
- 昭和33年/1958年・小説の内容が名誉棄損だと告訴されて笑い飛ばした邱永漢。(2019.05.19)
- 昭和43年/1968年・掏摸というのは芸術家だ、と言い張る犯罪者のことを小説にした藤本義一。(2019.05.12)
- 昭和46年/1971年・建物の所有権をめぐる契約書偽造が疑われて逮捕された加賀淳子。(2019.05.05)
コメント