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2018年12月 9日 (日)

昭和42年/1967年・いさかいにも構わず、日本翻訳家協会の新会長を引き受けた木々高太郎。

出版ブームにともなって脚光を浴びだした翻訳家の集団「日本翻訳家協会」(引用者中略)に“お家騒動”が起こり、二人の会長が出現した。

(引用者中略)

同協会はさる二日、役員改選のための定期総会を渋谷区の青山学院大学で開いたがまとまらず、十八日継続総会を開き、会長に慶大名誉教授林髞(推理作家、木々高太郎)を選出、副会長には慶大教授平松幹夫氏が留任。(引用者中略)

ところが総会前まで平松氏とともに副会長だった児童文学者村岡花子女史、理事の上智大教授刈田元司氏らは、それまで十一年間会長をつづけてきた青山学院大教授(英語学)豊田実氏(八一)が、二日の総会でまた会長に留任したと主張、文部省や協会員に訴え出た。

――『読売新聞』昭和42年/1967年6月23日「翻訳家協会“お家騒動” 保守、革新二人の会長」より

 別に江戸に限りません。喧嘩というのは、たいていの地域、たいていの時代において、ひとつの華です。自分から仕掛けたり、望まないところで巻き込まれたり、その形態はさまざまあると思いますが、下手にこじれると犯罪事件に発展することもある、なかなか油断のできない、面白い華です。

 犯罪としての要件を満たしていない百花繚乱の喧嘩や事件。こういうものまで取り上げていくと、ブログのテーマからは外れる一方なんですが、何といっても木々高太郎さんにまつわるいざこざを知ってしまっては、とても心穏やかではいられません。ということで今週は、推理文壇の嫌われ隊長こと木々さんが参加していた日本翻訳家協会の内紛を取り上げることにします。犯罪一歩手前、のようなお話です。

 木々さんは昭和41年/1966年、以前も触れた小島政二郎さんと合わせて、「三田」の仲間同士、同じタイミングで直木賞の選考委員を退任、もしくはクビになりましたが、これが年齢でいうと68歳のとき。二度目の結婚生活も充実して、選考委員を辞めたあとも多忙な日々を送った、と伝えられています。じっさい、昭和42年/1967年には外国に出かけて日本を不在にしましたが、そんな留守中に勃発したのが日本翻訳家協会の騒ぎです。

 この協会は昭和29年/1954年、日本ペンクラブのなかにあった「日本翻訳委員会」と、鈴木信太郎さんが議長を務める「外国文学者協会」とが合体し、辰野隆さんを初代会長として創設されたもので、昭和39年/1964年には創立10周年を機に、翻訳者を顕彰する「日本翻訳文化賞」を、翌年からは出版社を顕彰する「日本翻訳出版文化賞」を設定。国際翻訳家連盟(FIT)に加盟する日本代表の団体と位置づけられ、基本的に文学専門というよりは、もっと幅広く学術全般の研究者や翻訳家を数多く擁して、地道に活動を続けていました。いわば由緒正しい団体です。

 ところが、会費の未払いや運営の遅滞などでグダグダになってきたこの組織を、何とかして改革しようと事務局長の座についた森川宗興さんが、どうやら盛んに入会を勧誘した結果、収入基盤を安定させたらしく、それはそれでよかったのですが、森川某ってやつはロクな翻訳の業績もないくせに、ひとりで勝手にやりすぎだ、と苦々しく思う会員を、一部で生んでしまったといいます。昭和42年/1967年6月、役員改選の総会がひらかれると森川さんの留任が拒否される風向きに。

 火ダネは他にもありました。長期政権だった高齢の豊田実さんを会長職から降ろし、新しい体制でやっていきたいと考える平松幹夫さんの仲間たちと、いやいや豊田会長のままでいいじゃないか、だいたい平松という人間が偉そうにのさばっているのが気に食わん、と敵愾心むきだしの勢力と、両者の折り合いがつかず、豊田体制の続行派とは別に、後日正規の手続きを踏んで新しい体制を決定したのだと主張する平松グループとが正面から対立。どちらも正統な「日本翻訳家協会」だと名乗ることになって、この状態は平松さんたちの協会が平成9年/1997年に解散するまで、30年にわたって続きました。

 ここで、あわや告訴か裁判か、というところまで話がこじれたのは、ひとつには金銭問題が絡んでいたからだ、と言われます。豊田派の中心にいた佐藤亮一さんに言わせれば、森川某という人間が何よりのクセモノで、協会の出納簿を見せろといってもゴマかして公開しない、あんなやつ信用できるか、と猛烈に個人批判を展開。対する平松グループの旗頭、森川さんも黙ったままではありません。前任の事務局長だった佐藤氏のほうが経理的な仕事のできない無能な役員だったじゃないか。しかも事務局長の引き継ぎのときに印刷代と称して5万円を持っていったが、あとで印刷会社から協会に5万円の請求書が来た。こんなの立派な背任横領だ。などと暴露する有り様です。

 佐藤亮一は背任横領の罪がある、と森川さんが糾弾する。逆に佐藤さんは、帳簿を隠している森川こそ横領罪に問われるべきだと言い返す。……両者、あるいは両グループによる罵倒の投げつけ合いは、『週刊読売』昭和42年/1967年9月8日号「有名大学教授たちのオソマツ騒動記 金と肩書きで分裂した日本翻訳家協会」にみっちりと記録されていて、どちらも言いたい放題のヒートアップが止まりません。こういう派手な公開喧嘩を「華」と呼ばずして、いったい何を華というのでしょうか。

          ○

 どちらが正統でどちらが異端か。お互いに言い分のある話なので、片方の肩をもつのは控えますが、正統を名乗る道を着々と固めていったのは、豊田グループのほうです。

 昭和42年/1967年7月、パリにある国際翻訳家連盟の本部から、豊田会長の協会の他はいかなる団体も日本の代表として認めない、という通知を受け取ると、「日本翻訳家協会」という名称で商標登録を出願し、これが認められて昭和44年/1969年1月9日から法的に発効。われわれ以外の類似組織は、私的な団体にすぎない、と繰り返し宣言します。

 となると、平松グループの協会は、商標権侵害の訴えを起こされるリスクを抱えることになり、国際的にも法律的にもかなり厳しい立場に追い込まれます。そんな状況で延々と協会運営を続けたのは、もうほとんど平松さんを中心とする、当時の悶着を知る人たちの意地、という面が多分にあったのでしょう。平松・森川両氏が90歳を超えた平成7年/1995年になってようやく、分裂後はじめて二つの協会による統一に向けた会合がもたれ、平成8年/1996年の2月に森川さんが、同年5月に平松さんが相次いで亡くなると、もはや意地を張るような頑迷な老人はいなくなり、翌平成9年/1997年の総会でさらっと解散が決まってしまった、ということです。

 と、二つの協会並存のなりゆきを見るかぎり、こじれが解消されなかったのは、平松幹夫さんの個性に負うところが大きかった気がしますが、その分岐の出発点にいた木々高太郎=林髞という人の個性もまた、分裂騒ぎには欠かせない因子だったのは間違いありません。

 昭和42年/1967年の外遊中に、自分の預かり知らぬところで新しい会長に推挙され、大喧嘩に巻き込まれたかっこうの木々さんでしたが、そこでいったいどんな反応を示したのでしょうか。先に触れた『週刊読売』の記事のなかで、こう答えています。

「外国へいっている間に会長に推されてしまっていた。そして、英米文学を主体とした諸君が出ていって、もう一つ協会をつくったそうだが、二つあってもいいさ。本家争いなんて日本の悪いクセで、要はりっぱな仕事をすることだと、ぼくは単純に考えている。九月からぼくは会長としてバリバリ活躍するよ。その成果をみてください」(『週刊読売』昭和42年/1967年9月8日号「有名大学教授たちのオソマツ騒動記 金と肩書きで分裂した日本翻訳家協会」より)

 たとえば、知らない仲ではない者同士、目の前で意見が割れている。それを見て、ここはいったん冷静に話し合って、もう一度組織をまとめていこう、と調整に動く選択肢もあったと思います。しかし、木々さんはおおよそ「和」のために努めるわけでもなく、かたちなんかどうでもいい、と言う。単に自分が会長に推されて気分がよかったからそんな発言ができたんじゃないか、と思わないでもないんですが、しかし、自由な発想、まわりの雑音を平気で受け流す芯の強さ、そして名誉欲、こういう木々さんに備わった特徴的な要素が、日本翻訳家協会さわぎでも発揮されたのは、まぎれもない事実でしょう。

 自由な発想。まわりの雑音を平気で受け流す芯の強さ。名誉欲。……もちろん、これは直木賞選考委員としての木々さんの、明らかな特徴でもありました。戦後のある時代の直木賞を彩った華でもあった、と言っておきたいと思います。

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