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2018年11月の4件の記事

2018年11月25日 (日)

昭和28年/1953年・松川事件に関心を寄せ、裁判の傍聴に出かけた池田みち子。

控訴審は昭和二六年一〇月二三日から仙台高裁鈴木禎次郎裁判長の法廷で始まった。弁護団は自由法曹団を中心に約一三〇人で編成、このころ作家の広津和郎、宇野浩二らも裁判の成行きに関心を示し、のち広津は「松川裁判」という著作を発表する。また、二人が世話人となり川端康成、武者小路実篤、吉川英治らの作家も「裁判の公正をのぞむ」むねの要請文を裁判所に出し、チェコや中国からも被告たちに激励のカンパが送られてきたりした。

――昭和55年/1980年10月・第一法規出版刊、田中二郎、佐藤功、野村二郎・編『戦後政治裁判史録(1)』「14 松川事件」より

 長く続いた昭和の時代、しぶとく作家として生き残った池田みち子さんが、70歳を過ぎて刊行した作品集に『カインとその仲間たち』(昭和58年/1983年11月・福武書店刊)があります。一読、うわあ池田さんってこんなに面白い作家だったんだと、正直驚いたんですが、何といってもその魅力の詰まっているのが、収録作のひとつ「市ヶ谷富久町」(初出『海』昭和50年/1975年4月号)です。

 語り手は〈西田千世子〉という名前の老年作家。自分がまだ若かったころ、上京したばかりの身で参加した赤色救援会の、かつて事務所があったと思われる市ヶ谷の街を歩くうちに、当時のことを回想する、というのが大枠の流れです。救援会というのは、左翼関係で収監された人たちを刑務所の外から支援する活動もしていた団体で、語り手の〈西田〉もまた、幾度となく検挙されては、留置所暮らしを経験。しかし収入や生活を考えたときに、どうしても続かなくなって活動から離れ、そのことをずっと負い目に感じながら、やがて物書きの道に入っていくという、その過程についても触れられています。モデルは当然、池田さん自身です。

 戦後には、食べていかなければならないという事情もあって、少しエロティックな方向から現代風俗に取材した小説を次々と書き飛ばし、世相とそこに生きる人間を切り取った、文芸色の強い中間小説の世界で活躍。第30回(昭和28年/1953年・下半期)に直木賞の候補になった「汚された思春期」なども、いま読むといったい何のことやら、と目が点になるくらいの、巷の男女の惚れた腫れたを描いた埋もれるべくして埋もれる一短篇なんですが、その後、池田さんが関心をもって書くようになるのが、売春婦や、ドヤ街山谷に暮らす人びと、ということで、常に社会構造的に弱い立場にある人たちに目を向けてきた作家であることは間違いありません。

 ちなみに「汚された思春期」は、『小説公園』昭和28年/1953年10月号に発表されたものですが、その次に同誌に書いたのが、昭和29年/1954年3月号掲載の「松川事件(私は何を信じればよいか)」になります。

 池田さんがいっとき熱心に現地に足を運び、被告やその家族などから話を聞いて、裁判の行方を見守った松川事件。そこでは、昭和28年/1953年12月、大原富枝さんとともに仙台で行われた控訴審の公判を傍聴しに訪れたときの見聞と、池田さんの考えるこの裁判の問題点などが綴られています。

 松川事件というのは、もうあまりに有名で、説明の必要はなさそうですけど、便宜上概略だけ記しておけば、昭和24年/1949年8月17日未明、東北本線の上野行き旅客列車が福島県金谷川駅と松川駅の間を走行中に脱線転覆、3人の乗務員が死亡します。現場検証の結果、レールの継ぎ目板や犬釘が何者かによって外されていた形跡があり、人為的に脱線を狙った者がいるとされて、国鉄労組と東芝松川工場労組の組合員が共同して犯行に及んだ、という線で捜査が進み、まもなく9月から10月にかけて汽車顛覆致死容疑で計20名が検挙。同年12月から公判がひらかれて以降、途中、何人かに死刑判決や無期懲役の判決がくだされたりもしましたが、昭和38年/1963年9月、二度目の上告審で最終的に全員の無罪が確定したという、その経緯から、警察・検察などの権力が無辜の労働者たちに罪をかぶせようとした、戦後の代表的な大規模冤罪事件として知られています。

 いっぽう文壇史の側面から言っても、広津和郎さんという当時60代に差しかかった著名な大物作家が、第一審の有罪判決に対してこの裁判はおかしいのではないかと批判を始め、他の文学者たちのあいだにも関心が広がっていき、批評、随筆、記録、小説、戯曲などなど、これに関する文章が数多く発表された犯罪事件として、歴史にその名を刻んでいます。

 昭和28年/1953年10月26日、控訴審の仙台高裁鈴木禎次郎裁判長に宛てて提出された、ぜひとも公正な裁判を望むという内容の要請書は、広津さんや宇野浩二さんが先頭になってつくられたものだそうですが、そこに志賀直哉、川端康成、武者小路実篤、河盛好蔵、尾崎士郎といったメンツの他に、井伏鱒二さんや吉川英治さんも名を連ねていた、ということからも、直木賞という文学賞と、いくぶんかの縁がなかったわけではありません。

 そういったなかで、まったく個人的な興味によって、この事件および裁判の記事を外から眺めていた池田さんが、ほんとうのところはどうなんだろう、と身軽に腰を上げて、実地検証に参加したり、裁判を傍聴するために出かけていき、それに関する文章をいくつか発表。マスコミなどでは、松田解子さんや佐多稲子さん、大原富枝さんなどとともに、女性作家によって結集した松川裁判弁護一派のひとり、みたいに扱われました。

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2018年11月18日 (日)

昭和42年/1967年・名誉毀損だとしてデヴィ夫人に告訴された梶山季之。

インドネシアのスカルノ氏のデビ夫人(二七)=日本名、根本七保子=は弁護士、平井博也氏を通じて九日、小説『生贄(いけにえ)』を執筆した作家・梶山季之氏と出版元の徳間書店(徳間康快代表取締役)を名誉棄損で東京地検に告訴するとともに、二人を相手どって毎日、朝日、読売新聞に謝罪広告の掲載を求める訴訟を起こした。

――『毎日新聞』昭和42年/1967年9月9日夕刊より

 ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノさん――ここでは当然〈デヴィ夫人〉という表記で統一しますけど、彼女の個性そのものが、単なるお騒がせの域を超えて、事件性をはらんだ存在であり、文化をゆるがす現象でもあることは、一介の直木賞オタクでしかないワタクシにも、何となくわかります。

 昭和36年/1961年、一国の国家元首の夫人となる前後には、富と権力というものに象徴されるエスタブリッシュメントの住人と見なされ、そういう立場の人がおおむね背負わされる一般大衆からの反感ややっかみにさらされた時代もありました。しかしその頃からいまにいたるまで、お高く止まりきらない俗っ気のせいか、多くの人に面白がられてイジられるぐらいの、ユルい魅力も兼ねそなえながら、その履歴のなかに国際問題、社会経済、女性の生き方、芸能、出版、犯罪などなど、あらゆる要素が混ざり込んでいるという、ともかく稀有な人物です。

 と、デヴィ夫人の生涯を追うだけで、直木賞(に関連したあれこれ)との接触や接近の話題をいくつも挙げることができそうですけど、今日のエントリーでは、もう一方の主人公の座に梶山季之さんを据えたいと思います。いまから55年前、第49回(昭和38年/1963年・上半期)直木賞に落ちたところから、終生直木賞のようなものを痛烈に批判する側にまわった大作家のひとりです。

 ところで、梶山さんの作家的な特徴とは何でしょう。そんな難しいことは、ワタクシもよくわかりませんが、ひとつには市井に生きる有象無象の人間たちの視点を常に意識し、そのなかで悪戦苦闘、新たな物語表現を模索したことが挙げられます。

 新しいことに挑戦しようとすれば、旧弊とのぶつかり合いが起こるのは自然の流れです。しかも梶山さんはその売れっ子ぶりも破格でしたから、余計に揉めごとやいざこざに巻き込まれやすくなる。とくに国家権力に目をつけられて、何度も問題視されたのが、「ポルノ小説で荒稼ぎした」と自称・自嘲する梶山さんの、小説における猥褻表現でした。

 梶山作品がはじめて猥褻文書販売・所持の嫌疑をうけて摘発されたのが、昭和41年/1966年『週刊新潮』に連載中の「女の警察」5月14日号分の描写です。そのころ梶山さんは政財界の暗部をえぐる類いの取材も精力的におこない、その成果を広く発表していたため、それに対する権力側の制裁と警告の意味合いもあったんじゃないか、などとまことしやかに囁かれた、といいます。もしそうだとしたら、権力としてあまりにやることがショボくてセコすぎるとは思うんですが、たしかにそう考えたほうが話は面白いでしょう。けっきょくこの件は、翌昭和42年/1967年8月22日付で罰金5万円の略式命令を受けて、落着します(平成10年/1998年8月・季節社刊『積乱雲 梶山季之――その軌跡と周辺』所収「仕事の年譜・年譜の行間」)。

 以来、昭和43年/1968年には『週刊現代』4月25日号の連載小説「かんぷらちんき」、『週刊新潮』5月4日号の読切小説「スリラーの街」とたてつづけに2度、昭和49年/1974年には『問題小説』7月号に掲載された「銀座ナミダ通り」シリーズの一作が、それぞれ同じように猥褻表現を含んでいると見られて、押収、回収の対象になっています。

 4度にわたって同じ罪状で摘発されるというのは、警察側が懲りなかったのか、梶山さんのほうが懲りなかったのか、もはやよくわからないイタチごっこですが、そのたびに新聞で報道されるところが人気の作家の証し、ということかもしれません。少なくとも、これで梶山さんが委縮したとか、御上の意向に従順になったとか、そんなことはまったくなく、男一匹、雑草ダマシイを失わずに、権威や権力に対峙するかたちで作家活動をつづけました。

 ということで、いつの間にかアンチ直木賞もさまになる、直木賞があげそこねた作家の代表的な存在となった梶山さんが、政財界のゴシップを大胆に取り入れて、たくましく生きる悪女の姿を描き出そうという気概で筆をとったのが、『週刊アサヒ芸能』に昭和41年/1966年5月29日号~昭和42年/1967年1月22日号まで連載された「生贄」です。

 中学の国語教師〈外岡秀哉〉が、新宿の喫茶店でウェイトレスをしていた昔の教え子〈笹倉佐保子〉と偶然再会するところから話が始まります。結婚相手の伯父である怪しげな実業者〈中内栃造〉の仕事を手伝うことになった〈外岡〉は、その関係からアルネシア連邦と日本との戦後賠償の交渉に関わることに。来日したアルメニアの大統領〈エルランガ〉は、無類の女好きで、ファッションモデルの〈伊東さき子〉を見初め、さっそく肉体関係をもち、自国に連れ帰りますが、そこがエルランガの弱点だと知った〈外岡〉は、何が何でも有名になりたい、お金持ちになりたいという〈佐保子〉に知恵を授け、エルランガのもとに送り込むことを計画。同じく第三夫人の座を狙う〈さき子〉を蹴落とし、自らの野望を実現しようとする〈佐保子〉の立身出世の夢は、果たして成功するのでしょうか……。

 昭和41年/1966年11月、妊娠中に日本に一時戻ってきていたデヴィ夫人に対して、批判を前提としたような中傷、興味本位にプライバシーをほじくり返す記事が氾濫するなか、やはり『生贄』もその一種として発表された、というのは誰も否定できません。梶山さんや徳間書店は、これは特定の人物を描いたものではない、とさんざん強弁したんですが、多くの読者にデヴィ夫人をモデルにした小説だと思われたのは当然のことでしょう。そして、打たれても泣き寝入りせず、可能なかぎり反撃するというのが、デヴィ夫人の流儀だったようです。

 『生贄』が単行本化されて、しばらくたった昭和42年/1967年9月9日、デヴィ夫人は外人記者クラブで会見を開き、梶山さんと徳間書店、および「がんばれ、デビ夫人」の記事を掲載した『F6セブン』発行元の恒文社に対し、東京地検に告訴したことを発表しました。

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2018年11月11日 (日)

平成23年/2011年・犯罪者扱いの記事を書かれたとして講談社を訴えた黒川博行。

グリコ・森永事件を題材にした「週刊現代」の連載で犯人扱いされたとして、小説家の黒川博行氏らが発行元の講談社側に損害賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷(木内道祥裁判長)は11日の決定で講談社側の上告を退けた。名誉毀損などを認めて同社側に計583万円の支払いを命じた1、2審判決が確定した。

――『読売新聞』平成26年/2014年11月14日「週刊現代で犯人視 講談社の敗訴確定」より

 高校の美術教師だった黒川博行さんが、第1回サントリーミステリー大賞に「二度のお別れ」を応募、最終候補に残りながら落選したのは昭和58年/1983年春のことです。翌年もまた同じように最終選考会で「雨に殺せば」が落選、しかし前年の作品を単行本化するという話が進み、昭和59年/1984年の夏すぎに、堂々と作家デビューを果たします。

 そのデビュー作『二度のお別れ』は、ちょうど世間を騒がせていた、のちに「グリコ・森永事件」と呼ばれることになる一連の事件のなかの、犯行手口の一部と酷似した描写があったものですから、俄然一般的にも興味を引かれ、8刷まで部数が伸びたと言われます。しかし、あまりにも現実の事件と似すぎているということで、10月のある日、兵庫県警本部捜査一課の警部補と、西宮署刑事二課知能犯係の巡査部長が、黒川さんのもとへ来訪。そのときの2人の刑事というのが、まるで生意気で礼儀を知らず、出版前に誰が読んだのかとか、トリックは自分で考えたのかとか、質問するだけしておいて、「先生が犯人やったら、ことは簡単に収まるのにねえ」と捨て台詞を残して去っていったらしく、嫌な思い出しかない、と黒川さんは回想しています。

 それから時が流れて12年後。平成8年/1996年下半期対象の第116回、黒川さんは『カウント・プラン』で、はじめて直木賞の候補に挙がりました。

 と、そういうデビューにまつわるあれこれだけでも、黒川さんは「犯罪でたどる直木賞史」のテーマにふさわしい作家だ、と言いたくなるところなんですが、もちろん話の中心はそこではありません。以降、『疫病神』『文福茶釜』『国境』と候補歴を重ね、いい線まで評価されながら落とされていって、『悪果』が候補になったのが第138回(平成19年/2007年・下半期)。デビューから数えて23年、しかしこの5度目のチャンスのときも、選考会は黒川さんに賞を与えませんでした。

 もはや次の機会があるとは思えなかったこのベテラン作家が、まさかの6度目の候補入りを果たすことになるのが、さらに6年半もたった第151回(平成26年/2014年・上半期)なんですが、6年も7年も経てば、人や状況はさまざまに移り変わります。黒川さんも例外ではなく、候補5度目と6度目のあいだの平成23年/2011年、「じつはグリ森事件の真犯人だった」と、かなり本気で取り上げられると、かなり本気で激怒して、その取り上げた相手の岩瀬達哉さんと講談社を向こうにまわし、名誉毀損とプライバシー侵害の訴訟を起こす、という大騒動がありました。

 ノンフィクション作家の岩瀬さんが『週刊現代』で連載した「かい人21面相は生きている」には、黒川さんも取材対象のひとりとして協力し、平成22年/2010年末ごろから都合3度、インタビューを受けたそうです。そのとき、岩瀬さんは「今度の記事を読まれると、不快な思いをされるかも」とか、「黒川さんを真犯人として書くと、うまく辻褄が合うんです」とか、そんなことを言っていたらしく、たしかに連載の結末、「スクープ ついにたどり着いた この男が「21面相」ではないのか」(平成23年/2011年10月8日号)と最終回の「スクープ直撃! あなたが『21面相』だ」(10月15日号)という記事を読んで、黒川さんは驚愕します。グリコ・森永事件の犯人のひとりだという〈浜口啓之〉なる仮名の人物が、自分がインタビューで答えたようなことを、都合よく編集されて語っていただけでなく、黒川さんの妻の妹の勤め先や、実妹の息子のことなどにも触れられ、またそれが事実とは異なっていたからです。

 あくまで仮名です。黒川博行が犯人だ!とは一言も書かれていません。なので黒川さんの名誉を毀損したわけではない、という考え方もありますが、黒川さんのほうはそうは受け取らず、講談社に乗り込んでいって説明を求めます。しかしラチが明かずに、『週刊文春』(10月27日号と11月3日号)や『週刊朝日』(10月28日号)に、岩瀬さんと講談社の対応を非難する手記を発表して反撃。すると講談社側は、連載はいずれ単行本にするつもりです、手記は書かないでください、提訴も勘弁してください、などと穏便なかたちで逃げようとしたものですから、黒川さんも軟化することはなく、けっきょく法廷で争うことを選択します。さらには連載中に、講談社の編集者の判断で、不正に黒川さんの住民票を取得していたことも発覚。怒りの火に油がそそがれます。

 平成23年/2011年11月10日、講談社、『週刊現代』編集長、岩瀬さんに対し、計3300万円の損害賠償などを求めて東京地裁に提訴し、合わせて講談社には、プライバシー侵害の件で550万円の賠償を求めます。それから法廷で争うこと約2年、平成25年/2013年8月30日に、被告側に583万円の支払いを命ずる一審判決が出ますが、被告側はただちに控訴して、争いは継続することに。

 その年の12月25日、東京高裁も一審判決を支持して、控訴は棄却されるのですが、引くに引けなくなったか、被告側はさらに上告。そんな折りの平成26年/2014年7月、黒川さんは『破門』で第151回直木賞を受賞すると、受賞第一作の『後妻業』での著者インタビューでは、

(引用者注:作中で描いた)弁護士の戦術については、自分がグリコ・森永(引用者中略)で裁判をしましたから、参考になりました」(『産経新聞』平成26年/2014年9月29日)

 と語るなど、もはや法廷闘争は終わった感をにじませていたところで、やはり11月11日、上告をしりぞける最高裁の判断が決定。黒川さんの勝訴が確定することになります。

 名誉の毀損にもいろいろなかたちがあるのでしょうが、なかでも「犯罪事件の犯人だ」と類推できる記事を書かれることは、そのことで社会的な評価が低下した、と見られるそうです。直木賞の場合は、それとは逆で、たとえば公式に最終候補に残っていないのに「○○氏は直木賞の候補にあがったことがある」という、たとえば荒木一郎さんや早乙女勝元さん、曽我得二さんなどに関する記述を見かけることがありますが、やはりそういう文章の裏には、この作家や作品の社会的な評価をなるべく上げたい、という思いが垣間見えるのは否定できません。

 その意味だけで言うと、名誉毀損の裁判の途中に、直木賞を受賞した黒川さんは、「社会的評価」と呼ばれる実体のとらえづらい風聞のなかの、プラスとマイナス、両者ごった煮の状況を経験したという、稀有な人だ、と言えるのかもしれません。

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2018年11月 4日 (日)

昭和53年/1978年・子供たちの麻薬所持事件を、やがて戯曲に仕立てた川口松太郎。

作家川口松太郎、女優三益愛子さん夫妻の次男、元新派俳優川口恒(三三)、三男の芸能マネジャー厚(二六)ら川口兄弟の麻薬不法所持事件を調べている警視庁保安二課と赤坂署は二十九日夜、同家の長女で新派俳優の川口晶(二八)(引用者中略)に任意出頭を求め、麻薬取締法、大麻取締法違反の疑いで取り調べた。調べに対し晶は、容疑事実を全面的に認めたため、同署は近く東京地検へ書類を送る。これで川口家では兄妹四人中三人までが麻薬類に手を染めていたことが明らかになった。

――『朝日新聞』昭和53年/1978年6月30日夕刊「川口晶も麻薬汚染 容疑、全面的に認める」より

 昭和10年/1935年、第1回直木賞を受賞した35歳当時から、川口松太郎さんの快活でざっくばらんな性格は、一部の人たちから慕われるいっぽうで、一部では強烈に嫌われていた、と伝えられています。そこがまた直木賞の、栄光一辺倒ではない歴史を象徴しているようでもあり、まさしく直木賞そのもの、と言っていい作家のひとりです。

 かくいうワタクシは、川口さんがいかに現役時代、老害と言われるほどに屹立していたのか、生きた時代が違うのでよくわかりません。筒井康隆さんの『大いなる助走』(昭和54年/1979年3月・文藝春秋刊)に醜悪なかたちで登場する〈直廾賞〉選考委員のひとり〈鰊口冗太郎〉のモデルとして、はじめて知った口なんですが、〈鰊口〉の娘は〈鰊口早厭〉といい、離婚歴があり、交通事故を何度も起こし、麻薬中毒者の、まるで手がつけられないお騒がせタレント、というふうに描かれています。ちなみに、この作品の初出は『別冊文藝春秋』昭和52年/1977年9月~昭和53年/1978年12月です。

 ということで、昭和53年/1978年といえば、年齢でいうと78歳、晩年を迎える川口さんの身に思わぬ犯罪事件がふりかかってきた年に当たります。息子二人による麻薬取締法・大麻取締法違反と、そこから派生した一連の出来事です。

 川口さんは、いったい何人の女性と関係をもち、何人の子供を設けたのでしょう。正確な数字はよくわかりませんが、女優だった妻、三益愛子さんとのあいだには4人の子供がいました。そのうち、昭和41年/1966年に芸能界デビューした次男の恒さんが、LSD、大麻、コカインを自宅に隠し持っていたところを捕えられ、暴力団住吉連合の元幹部たちとともに赤坂署に逮捕された、と報道されたのが昭和53年/1978年5月22日のこと。追って6月6日には三男で、昭和46年/1971年にデビュー、しかし昭和51年/1976年に俳優を引退したのち、三浦友和さんのマネージャーをしていたという厚さんも、兄と同じ法律に触れて警察に連行されます。

 さらに、前年には酒と睡眠薬を飲んだ状態で、子供を乗せた車を運転し、ガードレールに突っ込んだ〈じゃじゃ馬娘〉こと、長女の晶さんもまた、麻薬なんか多くの芸能人がやっていることでしょ、でもだいたい興味本位の軽い遊び心よ、などとケロッとしながら、やはりLSDや大麻を所持。6月29日に東京地検に書類送致されることが決まり、川口一家にそそがれる世間の視線も、一気に熱がこもることになりました。

 芸能人の犯罪事件のなかには、いわゆる「二世もの」と呼ばれるカテゴリーがあります。著名な親のもとに生まれ、厳しく育てられたか甘やかされたか、どちらにしても飢えることなく成長するなかで、親と同じ芸能の世界で仕事をしはじめた子供の一部が、違法行為で逮捕されて、ゴシップジャーナリズム大騒ぎ。川口家の場合は、長男の俳優、浩さんまでもが、若いころはずいぶんひどい所業をやらかしていたのだ、両親の金品を黙って持ち出しては遊興費に変えていたし、無免許運転、スピード違反、酔っ払い運転、婦女暴行など、「ひととおりの悪業は経験した」(『週刊新潮』昭和58年/1983年8月31日号「愛人が「愛人の物」を持ち出したらどういう事になるか「川口恒」の場合」)などと書かれて、昔のことを掘り返されたりします。

 もちろん有名人である親のほうも、無傷では済まされません。芸能一家だとか調子こいて、一般社会の通念からかけ離れた生活を送るうち、善悪の判断ができなくなったんだろう、親の教育が悪い、親も同罪なのだから反省して償え……などなど、単純なバッシングが盛り上がっては、すぐに覚めていく、という伝統的な展開です。いまでもよく見かけます。

 その後まもなく、恒さんと厚さんについては東京地裁で公判がひらかれ、恒さん懲役一年・執行猶予三年、厚さん懲役十か月・執行猶予三年の判決がくだされます。もはや俳優を続けていく道の閉ざされた恒さんは、都内で喫茶店兼スナックを開店し、厚さんのほうは明治座の営業部に引き取られ、そこで更生を目指すことに。晶さんは、起訴猶予処分となって裁判はありませんでしたが、芸能界に未練はなかったらしく、ほぼ引退状態のまま、翌年には再婚。川口家薬物汚染の嵐のような騒ぎは、ほんの数か月で終わり、またたく間に過ぎ去っていきました。

 その間、川口さん自身はどうだったかというと、作家活動はやむことなく、昭和53年/1978年7月14日に行われた第79回(昭和53年/1978年・上半期)直木賞の選考会にも3期ぶりに出席しています。直接の面識があり、ある意味面倒をみていた若い劇作家のひとり、若城希伊子さんの候補作に対して「全員否決なのに驚いた。そんなに悪い作品とも思わない」(『オール讀物』昭和53年/1978年10月号)と、かなり甘い見方をしながら、谷恒生さんの大冒険小説に対しては「文学に昇華していないのが大欠点だ」(同)などと偉そうな評を書くという、いつもどおりの口さがない老作家を気取ったりしています。

 たしかに川口さんに関する文献を読んでいると、口は悪いかもしれないし、情実で選考しているかもしれない、それは間違いのないところでしょう。ただ、その反面、本人はいたって謙虚な人だという感を強くするのも事実です。「文学の流れが変って私なぞはもう過去の人間になっていた。」(『小説新潮』昭和54年/1979年12月号「すぎこしかた」)という言葉などは、ずいぶん正確な自己評価だと思います。主観的なものの見方を、いかにも客観視しているように表現できるところが、晩年まで保った川口さんの信条です。

 子供たちの麻薬に関する有罪判決についても、やはりそうです。嵐の渦中にいるときは、どうせ週刊誌や新聞が好き勝手に書くだけだから、とそのことに触れるのを避けていた川口さんでしたが、ゴシップ乞食がよそに移ったと見るや、これを題材にひとつの作品を仕立ててしまいます。『すばる』昭和55年/1980年3月号に載った戯曲「魔薬」。事件からわずか2年後のことです。

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