« 昭和5年/1930年・共産党シンパ事件で検挙され、転向を表明した立野信之。 | トップページ | 平成23年/2011年・犯罪者扱いの記事を書かれたとして講談社を訴えた黒川博行。 »

2018年11月 4日 (日)

昭和53年/1978年・子供たちの麻薬所持事件を、やがて戯曲に仕立てた川口松太郎。

作家川口松太郎、女優三益愛子さん夫妻の次男、元新派俳優川口恒(三三)、三男の芸能マネジャー厚(二六)ら川口兄弟の麻薬不法所持事件を調べている警視庁保安二課と赤坂署は二十九日夜、同家の長女で新派俳優の川口晶(二八)(引用者中略)に任意出頭を求め、麻薬取締法、大麻取締法違反の疑いで取り調べた。調べに対し晶は、容疑事実を全面的に認めたため、同署は近く東京地検へ書類を送る。これで川口家では兄妹四人中三人までが麻薬類に手を染めていたことが明らかになった。

――『朝日新聞』昭和53年/1978年6月30日夕刊「川口晶も麻薬汚染 容疑、全面的に認める」より

 昭和10年/1935年、第1回直木賞を受賞した35歳当時から、川口松太郎さんの快活でざっくばらんな性格は、一部の人たちから慕われるいっぽうで、一部では強烈に嫌われていた、と伝えられています。そこがまた直木賞の、栄光一辺倒ではない歴史を象徴しているようでもあり、まさしく直木賞そのもの、と言っていい作家のひとりです。

 かくいうワタクシは、川口さんがいかに現役時代、老害と言われるほどに屹立していたのか、生きた時代が違うのでよくわかりません。筒井康隆さんの『大いなる助走』(昭和54年/1979年3月・文藝春秋刊)に醜悪なかたちで登場する〈直廾賞〉選考委員のひとり〈鰊口冗太郎〉のモデルとして、はじめて知った口なんですが、〈鰊口〉の娘は〈鰊口早厭〉といい、離婚歴があり、交通事故を何度も起こし、麻薬中毒者の、まるで手がつけられないお騒がせタレント、というふうに描かれています。ちなみに、この作品の初出は『別冊文藝春秋』昭和52年/1977年9月~昭和53年/1978年12月です。

 ということで、昭和53年/1978年といえば、年齢でいうと78歳、晩年を迎える川口さんの身に思わぬ犯罪事件がふりかかってきた年に当たります。息子二人による麻薬取締法・大麻取締法違反と、そこから派生した一連の出来事です。

 川口さんは、いったい何人の女性と関係をもち、何人の子供を設けたのでしょう。正確な数字はよくわかりませんが、女優だった妻、三益愛子さんとのあいだには4人の子供がいました。そのうち、昭和41年/1966年に芸能界デビューした次男の恒さんが、LSD、大麻、コカインを自宅に隠し持っていたところを捕えられ、暴力団住吉連合の元幹部たちとともに赤坂署に逮捕された、と報道されたのが昭和53年/1978年5月22日のこと。追って6月6日には三男で、昭和46年/1971年にデビュー、しかし昭和51年/1976年に俳優を引退したのち、三浦友和さんのマネージャーをしていたという厚さんも、兄と同じ法律に触れて警察に連行されます。

 さらに、前年には酒と睡眠薬を飲んだ状態で、子供を乗せた車を運転し、ガードレールに突っ込んだ〈じゃじゃ馬娘〉こと、長女の晶さんもまた、麻薬なんか多くの芸能人がやっていることでしょ、でもだいたい興味本位の軽い遊び心よ、などとケロッとしながら、やはりLSDや大麻を所持。6月29日に東京地検に書類送致されることが決まり、川口一家にそそがれる世間の視線も、一気に熱がこもることになりました。

 芸能人の犯罪事件のなかには、いわゆる「二世もの」と呼ばれるカテゴリーがあります。著名な親のもとに生まれ、厳しく育てられたか甘やかされたか、どちらにしても飢えることなく成長するなかで、親と同じ芸能の世界で仕事をしはじめた子供の一部が、違法行為で逮捕されて、ゴシップジャーナリズム大騒ぎ。川口家の場合は、長男の俳優、浩さんまでもが、若いころはずいぶんひどい所業をやらかしていたのだ、両親の金品を黙って持ち出しては遊興費に変えていたし、無免許運転、スピード違反、酔っ払い運転、婦女暴行など、「ひととおりの悪業は経験した」(『週刊新潮』昭和58年/1983年8月31日号「愛人が「愛人の物」を持ち出したらどういう事になるか「川口恒」の場合」)などと書かれて、昔のことを掘り返されたりします。

 もちろん有名人である親のほうも、無傷では済まされません。芸能一家だとか調子こいて、一般社会の通念からかけ離れた生活を送るうち、善悪の判断ができなくなったんだろう、親の教育が悪い、親も同罪なのだから反省して償え……などなど、単純なバッシングが盛り上がっては、すぐに覚めていく、という伝統的な展開です。いまでもよく見かけます。

 その後まもなく、恒さんと厚さんについては東京地裁で公判がひらかれ、恒さん懲役一年・執行猶予三年、厚さん懲役十か月・執行猶予三年の判決がくだされます。もはや俳優を続けていく道の閉ざされた恒さんは、都内で喫茶店兼スナックを開店し、厚さんのほうは明治座の営業部に引き取られ、そこで更生を目指すことに。晶さんは、起訴猶予処分となって裁判はありませんでしたが、芸能界に未練はなかったらしく、ほぼ引退状態のまま、翌年には再婚。川口家薬物汚染の嵐のような騒ぎは、ほんの数か月で終わり、またたく間に過ぎ去っていきました。

 その間、川口さん自身はどうだったかというと、作家活動はやむことなく、昭和53年/1978年7月14日に行われた第79回(昭和53年/1978年・上半期)直木賞の選考会にも3期ぶりに出席しています。直接の面識があり、ある意味面倒をみていた若い劇作家のひとり、若城希伊子さんの候補作に対して「全員否決なのに驚いた。そんなに悪い作品とも思わない」(『オール讀物』昭和53年/1978年10月号)と、かなり甘い見方をしながら、谷恒生さんの大冒険小説に対しては「文学に昇華していないのが大欠点だ」(同)などと偉そうな評を書くという、いつもどおりの口さがない老作家を気取ったりしています。

 たしかに川口さんに関する文献を読んでいると、口は悪いかもしれないし、情実で選考しているかもしれない、それは間違いのないところでしょう。ただ、その反面、本人はいたって謙虚な人だという感を強くするのも事実です。「文学の流れが変って私なぞはもう過去の人間になっていた。」(『小説新潮』昭和54年/1979年12月号「すぎこしかた」)という言葉などは、ずいぶん正確な自己評価だと思います。主観的なものの見方を、いかにも客観視しているように表現できるところが、晩年まで保った川口さんの信条です。

 子供たちの麻薬に関する有罪判決についても、やはりそうです。嵐の渦中にいるときは、どうせ週刊誌や新聞が好き勝手に書くだけだから、とそのことに触れるのを避けていた川口さんでしたが、ゴシップ乞食がよそに移ったと見るや、これを題材にひとつの作品を仕立ててしまいます。『すばる』昭和55年/1980年3月号に載った戯曲「魔薬」。事件からわずか2年後のことです。

          ○

 「魔薬」の登場人物は、川口さんの自伝的な作品ではおなじみの〈結城信吉〉を筆頭に、妻の女優〈秋子〉、長男〈孝〉、次男〈清〉、長女〈茜〉、三男〈保〉という結城ファミリー勢揃い。〈清〉が魔薬をやって捕まった、という警視庁からの電話が、結城家にかかってくるところから始まります。

 いい大人になっても親のスネをかじるという甘えきった生活のすえ、警察沙汰まで起こした子供たちに対し、憤然・決然としてきつく対応しようとする老作家と、それをなだめ、子供の側に寄り添おうとする妻。というのが基本的な構図ですが、娘の〈茜〉が隠し持っていたマリファナを親の前に持ってくるところから、最後には〈信吉〉と〈秋子〉がいったいどんなものなのかと興味を起こしてマリファナを吸いはじめる場面で終わる、というなかなか挑戦的な内容を含んでいます。実際読んでみると、ふふっと笑ってしまうところまである。ブラックなユーモアに頼らなくても、不謹慎をネタにして存分に楽しめる作品を書けてしまう、さすがの川口さんです。

 最後の場面はともかくとして、子供の逮捕をマスコミが騒ぎ立てていたさなか、世間に名前も顔も知られた父と母が家でどんなふうに過ごしていたのか、その一端をのちに川口さんが明かした文章があります。『愛子いとしや』(昭和57年/1982年6月・講談社刊)の「おしゃべり夫婦の口喧嘩」「最後の軽井沢」あたりの章です。

 保釈された二人の息子が、家に帰ってきても、どことなく反省の色が薄いと感じた川口さんは、晶さんを含めて三人を前に、親をもう頼るな、もうそんな年でもないだろう、親を離れて生きてみろ、となかば絶縁宣告。以下はその後の、川口さんと三益さんのやりとりです。

「「つまらんなア親って奴は、いい事何もないじゃないか」

「悪縁みたいなものだけれど、いなかったら淋しいにきまってるんだし、あんまり怒らないで下さい」

(引用者中略)

愛子の涙は子供の外には出て来ない。子供たちに問題が起ると泣く。泣かれるとこっちが弱くなる。

「警察でひどい目に会わされて帰って来てパパに縁を切られたら、あの子たち、路頭に迷います。将来の事も考えてやらずに突っ放したら何うしていいか判らないじゃありませんか」

わあわあ声を上げて泣き出してまるで子供のようだ。結局は私が折れざるを得ない。縁を切るなぞと大見得を切ったものの、愛子に泣かれると万事終り、子煩悩の母親にはだらしのない父親だ。」(川口松太郎・著『愛子いとしや』より)

 どうしようもない親馬鹿。ないしは馬鹿親。ということかもしれません。

 しかし、このどうしようもなさに着目し、作家と女優と芸能一家という枠組みから逃げることなく、描いてしまう川口松太郎という作家の、懐の広さ。犯罪事件というマイナスな出来事すら取り込んで「魔薬」を発表し、栄光の座から引き下ろされようとしている著名作家、という我が身の状況までイジってしまうという茶目っ気。……叩かれたり、馬鹿にされたりしながら、いまでもいくばくかの光を放っている直木賞のしたたかさを見ると、やはり川口さんと直木賞、両者は重なる部分の多い存在です。

|

« 昭和5年/1930年・共産党シンパ事件で検挙され、転向を表明した立野信之。 | トップページ | 平成23年/2011年・犯罪者扱いの記事を書かれたとして講談社を訴えた黒川博行。 »

犯罪でたどる直木賞史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 昭和53年/1978年・子供たちの麻薬所持事件を、やがて戯曲に仕立てた川口松太郎。:

« 昭和5年/1930年・共産党シンパ事件で検挙され、転向を表明した立野信之。 | トップページ | 平成23年/2011年・犯罪者扱いの記事を書かれたとして講談社を訴えた黒川博行。 »