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2018年11月25日 (日)

昭和28年/1953年・松川事件に関心を寄せ、裁判の傍聴に出かけた池田みち子。

控訴審は昭和二六年一〇月二三日から仙台高裁鈴木禎次郎裁判長の法廷で始まった。弁護団は自由法曹団を中心に約一三〇人で編成、このころ作家の広津和郎、宇野浩二らも裁判の成行きに関心を示し、のち広津は「松川裁判」という著作を発表する。また、二人が世話人となり川端康成、武者小路実篤、吉川英治らの作家も「裁判の公正をのぞむ」むねの要請文を裁判所に出し、チェコや中国からも被告たちに激励のカンパが送られてきたりした。

――昭和55年/1980年10月・第一法規出版刊、田中二郎、佐藤功、野村二郎・編『戦後政治裁判史録(1)』「14 松川事件」より

 長く続いた昭和の時代、しぶとく作家として生き残った池田みち子さんが、70歳を過ぎて刊行した作品集に『カインとその仲間たち』(昭和58年/1983年11月・福武書店刊)があります。一読、うわあ池田さんってこんなに面白い作家だったんだと、正直驚いたんですが、何といってもその魅力の詰まっているのが、収録作のひとつ「市ヶ谷富久町」(初出『海』昭和50年/1975年4月号)です。

 語り手は〈西田千世子〉という名前の老年作家。自分がまだ若かったころ、上京したばかりの身で参加した赤色救援会の、かつて事務所があったと思われる市ヶ谷の街を歩くうちに、当時のことを回想する、というのが大枠の流れです。救援会というのは、左翼関係で収監された人たちを刑務所の外から支援する活動もしていた団体で、語り手の〈西田〉もまた、幾度となく検挙されては、留置所暮らしを経験。しかし収入や生活を考えたときに、どうしても続かなくなって活動から離れ、そのことをずっと負い目に感じながら、やがて物書きの道に入っていくという、その過程についても触れられています。モデルは当然、池田さん自身です。

 戦後には、食べていかなければならないという事情もあって、少しエロティックな方向から現代風俗に取材した小説を次々と書き飛ばし、世相とそこに生きる人間を切り取った、文芸色の強い中間小説の世界で活躍。第30回(昭和28年/1953年・下半期)に直木賞の候補になった「汚された思春期」なども、いま読むといったい何のことやら、と目が点になるくらいの、巷の男女の惚れた腫れたを描いた埋もれるべくして埋もれる一短篇なんですが、その後、池田さんが関心をもって書くようになるのが、売春婦や、ドヤ街山谷に暮らす人びと、ということで、常に社会構造的に弱い立場にある人たちに目を向けてきた作家であることは間違いありません。

 ちなみに「汚された思春期」は、『小説公園』昭和28年/1953年10月号に発表されたものですが、その次に同誌に書いたのが、昭和29年/1954年3月号掲載の「松川事件(私は何を信じればよいか)」になります。

 池田さんがいっとき熱心に現地に足を運び、被告やその家族などから話を聞いて、裁判の行方を見守った松川事件。そこでは、昭和28年/1953年12月、大原富枝さんとともに仙台で行われた控訴審の公判を傍聴しに訪れたときの見聞と、池田さんの考えるこの裁判の問題点などが綴られています。

 松川事件というのは、もうあまりに有名で、説明の必要はなさそうですけど、便宜上概略だけ記しておけば、昭和24年/1949年8月17日未明、東北本線の上野行き旅客列車が福島県金谷川駅と松川駅の間を走行中に脱線転覆、3人の乗務員が死亡します。現場検証の結果、レールの継ぎ目板や犬釘が何者かによって外されていた形跡があり、人為的に脱線を狙った者がいるとされて、国鉄労組と東芝松川工場労組の組合員が共同して犯行に及んだ、という線で捜査が進み、まもなく9月から10月にかけて汽車顛覆致死容疑で計20名が検挙。同年12月から公判がひらかれて以降、途中、何人かに死刑判決や無期懲役の判決がくだされたりもしましたが、昭和38年/1963年9月、二度目の上告審で最終的に全員の無罪が確定したという、その経緯から、警察・検察などの権力が無辜の労働者たちに罪をかぶせようとした、戦後の代表的な大規模冤罪事件として知られています。

 いっぽう文壇史の側面から言っても、広津和郎さんという当時60代に差しかかった著名な大物作家が、第一審の有罪判決に対してこの裁判はおかしいのではないかと批判を始め、他の文学者たちのあいだにも関心が広がっていき、批評、随筆、記録、小説、戯曲などなど、これに関する文章が数多く発表された犯罪事件として、歴史にその名を刻んでいます。

 昭和28年/1953年10月26日、控訴審の仙台高裁鈴木禎次郎裁判長に宛てて提出された、ぜひとも公正な裁判を望むという内容の要請書は、広津さんや宇野浩二さんが先頭になってつくられたものだそうですが、そこに志賀直哉、川端康成、武者小路実篤、河盛好蔵、尾崎士郎といったメンツの他に、井伏鱒二さんや吉川英治さんも名を連ねていた、ということからも、直木賞という文学賞と、いくぶんかの縁がなかったわけではありません。

 そういったなかで、まったく個人的な興味によって、この事件および裁判の記事を外から眺めていた池田さんが、ほんとうのところはどうなんだろう、と身軽に腰を上げて、実地検証に参加したり、裁判を傍聴するために出かけていき、それに関する文章をいくつか発表。マスコミなどでは、松田解子さんや佐多稲子さん、大原富枝さんなどとともに、女性作家によって結集した松川裁判弁護一派のひとり、みたいに扱われました。

          ○

 世のなかには、資本家権力とそれに対抗する労働者、という図式があります。そこで労働者側の肩をもつと、即座に左翼だ共産主義だと見なされるのは、いったい何なんでしょうか、とりあえずいまにいたるまでその感覚が一般に根強く残っていることは否定できません。池田さんも心情としては左派、もしくは大衆寄りの人だったはずで、現に共産党への入党を勧められたこともあったそうですが、それを断って、あくまで個人的な関心のなかで、松川事件と向き合いました。

 冒頭にふれたように、池田さんは小説を書きはじめるまえ、赤色救援会で働き、階級闘争を側面から支えていた時代があります。時は流れて、文学の界隈からはほとんど尊敬されないような通俗小説を書き、周囲からは軽んじられ、また池田さん自身も通俗作家と自嘲するようになりますが、その間もずっと、心のなかにある「底辺」の人たちへの強い思い入れが消えなかったという一貫性に、ある意味、たまげるところです。

 とくに「私は、そういう弱い立場の人たちにも目を配れるのよ」と、誇ったり偉ぶったりしないところが、何より池田さんのイケている特質です。佐多稲子さんには「ふだんの態度が、かざりっけや衒いなどがみじんもなくて淡々としてみえる」(『波』昭和57年/1982年8月号「池田みち子さんのこと」)と評されましたが、自分のしていることの価値の有無など考えず、当り前のようにあっさりとしている。そんなところは、池田さんの文章にもよく表われていて、あるいは当時の直木賞が考える文学観からすると、そこら辺が物足りなかったのかもしれません。

 だけど池田さんからすれば、他人に物足りなく思われようが、それが何なんだ、という感じでしょう。物書き仕事のかたわらで、ただ興味があるからという理由で裁判を観察し、そこに生きる人たちの姿を淡々と筆に起こしていく。いま風に言えば「いったい何をしたいのかわからない」といったところでしょうが、やはり当時、池田さんの行動はまわりから謎めいて見られていたようです。

 先に紹介した「市ヶ谷富久町」の終盤あたりにも、このあたりのエピソードが、ほんの少し出てきます。

「松川裁判で動きまわっていた頃「西田千世子ってエロ作家でしょう、エロ作家がどうして松川に夢中になるのかね」と私は云われた。面と向ってではなく蔭で云われたのがまわりまわって私の耳に入った。その度に私はにがにがしい思いをした。」(『カインとその仲間たち』所収「市ヶ谷富久町」より)

 ひとりの作家を「エロ作家」としてくくる短絡的な陰口。それを受けて、脱力感を味わうひとりの物書き。……その後も、いくつもの犯罪事件を取材し、文章を書き、また別の事件に関心をもっては無償で出かけていく、ということを繰り返した池田さんを、象徴するような場面だと思います。

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