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2018年11月11日 (日)

平成23年/2011年・犯罪者扱いの記事を書かれたとして講談社を訴えた黒川博行。

グリコ・森永事件を題材にした「週刊現代」の連載で犯人扱いされたとして、小説家の黒川博行氏らが発行元の講談社側に損害賠償を求めた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷(木内道祥裁判長)は11日の決定で講談社側の上告を退けた。名誉毀損などを認めて同社側に計583万円の支払いを命じた1、2審判決が確定した。

――『読売新聞』平成26年/2014年11月14日「週刊現代で犯人視 講談社の敗訴確定」より

 高校の美術教師だった黒川博行さんが、第1回サントリーミステリー大賞に「二度のお別れ」を応募、最終候補に残りながら落選したのは昭和58年/1983年春のことです。翌年もまた同じように最終選考会で「雨に殺せば」が落選、しかし前年の作品を単行本化するという話が進み、昭和59年/1984年の夏すぎに、堂々と作家デビューを果たします。

 そのデビュー作『二度のお別れ』は、ちょうど世間を騒がせていた、のちに「グリコ・森永事件」と呼ばれることになる一連の事件のなかの、犯行手口の一部と酷似した描写があったものですから、俄然一般的にも興味を引かれ、8刷まで部数が伸びたと言われます。しかし、あまりにも現実の事件と似すぎているということで、10月のある日、兵庫県警本部捜査一課の警部補と、西宮署刑事二課知能犯係の巡査部長が、黒川さんのもとへ来訪。そのときの2人の刑事というのが、まるで生意気で礼儀を知らず、出版前に誰が読んだのかとか、トリックは自分で考えたのかとか、質問するだけしておいて、「先生が犯人やったら、ことは簡単に収まるのにねえ」と捨て台詞を残して去っていったらしく、嫌な思い出しかない、と黒川さんは回想しています。

 それから時が流れて12年後。平成8年/1996年下半期対象の第116回、黒川さんは『カウント・プラン』で、はじめて直木賞の候補に挙がりました。

 と、そういうデビューにまつわるあれこれだけでも、黒川さんは「犯罪でたどる直木賞史」のテーマにふさわしい作家だ、と言いたくなるところなんですが、もちろん話の中心はそこではありません。以降、『疫病神』『文福茶釜』『国境』と候補歴を重ね、いい線まで評価されながら落とされていって、『悪果』が候補になったのが第138回(平成19年/2007年・下半期)。デビューから数えて23年、しかしこの5度目のチャンスのときも、選考会は黒川さんに賞を与えませんでした。

 もはや次の機会があるとは思えなかったこのベテラン作家が、まさかの6度目の候補入りを果たすことになるのが、さらに6年半もたった第151回(平成26年/2014年・上半期)なんですが、6年も7年も経てば、人や状況はさまざまに移り変わります。黒川さんも例外ではなく、候補5度目と6度目のあいだの平成23年/2011年、「じつはグリ森事件の真犯人だった」と、かなり本気で取り上げられると、かなり本気で激怒して、その取り上げた相手の岩瀬達哉さんと講談社を向こうにまわし、名誉毀損とプライバシー侵害の訴訟を起こす、という大騒動がありました。

 ノンフィクション作家の岩瀬さんが『週刊現代』で連載した「かい人21面相は生きている」には、黒川さんも取材対象のひとりとして協力し、平成22年/2010年末ごろから都合3度、インタビューを受けたそうです。そのとき、岩瀬さんは「今度の記事を読まれると、不快な思いをされるかも」とか、「黒川さんを真犯人として書くと、うまく辻褄が合うんです」とか、そんなことを言っていたらしく、たしかに連載の結末、「スクープ ついにたどり着いた この男が「21面相」ではないのか」(平成23年/2011年10月8日号)と最終回の「スクープ直撃! あなたが『21面相』だ」(10月15日号)という記事を読んで、黒川さんは驚愕します。グリコ・森永事件の犯人のひとりだという〈浜口啓之〉なる仮名の人物が、自分がインタビューで答えたようなことを、都合よく編集されて語っていただけでなく、黒川さんの妻の妹の勤め先や、実妹の息子のことなどにも触れられ、またそれが事実とは異なっていたからです。

 あくまで仮名です。黒川博行が犯人だ!とは一言も書かれていません。なので黒川さんの名誉を毀損したわけではない、という考え方もありますが、黒川さんのほうはそうは受け取らず、講談社に乗り込んでいって説明を求めます。しかしラチが明かずに、『週刊文春』(10月27日号と11月3日号)や『週刊朝日』(10月28日号)に、岩瀬さんと講談社の対応を非難する手記を発表して反撃。すると講談社側は、連載はいずれ単行本にするつもりです、手記は書かないでください、提訴も勘弁してください、などと穏便なかたちで逃げようとしたものですから、黒川さんも軟化することはなく、けっきょく法廷で争うことを選択します。さらには連載中に、講談社の編集者の判断で、不正に黒川さんの住民票を取得していたことも発覚。怒りの火に油がそそがれます。

 平成23年/2011年11月10日、講談社、『週刊現代』編集長、岩瀬さんに対し、計3300万円の損害賠償などを求めて東京地裁に提訴し、合わせて講談社には、プライバシー侵害の件で550万円の賠償を求めます。それから法廷で争うこと約2年、平成25年/2013年8月30日に、被告側に583万円の支払いを命ずる一審判決が出ますが、被告側はただちに控訴して、争いは継続することに。

 その年の12月25日、東京高裁も一審判決を支持して、控訴は棄却されるのですが、引くに引けなくなったか、被告側はさらに上告。そんな折りの平成26年/2014年7月、黒川さんは『破門』で第151回直木賞を受賞すると、受賞第一作の『後妻業』での著者インタビューでは、

(引用者注:作中で描いた)弁護士の戦術については、自分がグリコ・森永(引用者中略)で裁判をしましたから、参考になりました」(『産経新聞』平成26年/2014年9月29日)

 と語るなど、もはや法廷闘争は終わった感をにじませていたところで、やはり11月11日、上告をしりぞける最高裁の判断が決定。黒川さんの勝訴が確定することになります。

 名誉の毀損にもいろいろなかたちがあるのでしょうが、なかでも「犯罪事件の犯人だ」と類推できる記事を書かれることは、そのことで社会的な評価が低下した、と見られるそうです。直木賞の場合は、それとは逆で、たとえば公式に最終候補に残っていないのに「○○氏は直木賞の候補にあがったことがある」という、たとえば荒木一郎さんや早乙女勝元さん、曽我得二さんなどに関する記述を見かけることがありますが、やはりそういう文章の裏には、この作家や作品の社会的な評価をなるべく上げたい、という思いが垣間見えるのは否定できません。

 その意味だけで言うと、名誉毀損の裁判の途中に、直木賞を受賞した黒川さんは、「社会的評価」と呼ばれる実体のとらえづらい風聞のなかの、プラスとマイナス、両者ごった煮の状況を経験したという、稀有な人だ、と言えるのかもしれません。

          ○

 それはともかく、被告の岩瀬さんと講談社は、どうして最高裁まで争いをつづけたのでしょうか。

 たとえば、世紀の大犯罪に関わっていた人間が、それを隠してミステリー小説を発表、暗い過去を封印しながらメキメキと売れていく。……いかにもどこかの小説で書かれていそうな面白おかしいストーリーです。だけど、岩瀬さんの連載記事はそういう類いのものではありません。

 〈キツネ目の男〉の身長や年齢に符合し、犯行に使われたのと近いクルマに乗っていたことがあり、おそらく青酸ソーダを入手できそうな親類と、脅迫テープに吹き込まれていたような言語障害のある児童が親戚にいて、犯行現場に土地勘がある……。という、よく考えれば、真犯人像と断言するには薄すぎはしないかと思えるような根拠を提示したうえで、〈浜口啓之〉が犯人ではないのかと疑っています。

 いくら何でもそれで犯人扱いはあんまりだ、と黒川さんが反応するのも、うなずけるところでしょう。黒川さんは連載終了後すぐさま、平成23年/2011年10月6日に、講談社の出樋一親・第一編集局長と鈴木章一『週刊現代』編集長に面会して抗議、11日には、連載担当の編集者が大阪までやってきて、黒川さんに頭を下げます。しかしそこで黒川さんに明かされたのは、一歩も引かないという講談社と岩瀬さんの固い決意でした。

「取材の経緯を知っているはずのAに問い質しました。「なぜあんな杜撰な記事を掲載したのか」

すると、Aは「岩瀬さんの信念です」と言う。「なに、信念て?」思わず聞き返すと、「黒川さんが真犯人だという信念です」と答えたのです。」(『週刊文春』平成23年/2011年11月3日号「「かい人21面相」にされた作家・黒川博行の手記第2弾 謝罪に来た後も逃げ回る「週刊現代」を提訴します」より)

 ほんとに人の信念というのは、だいたい怖いです。「盲信」や「思い込み」と紙一重……というか、ほとんどイコールと言っていい場合が大半を占めています。

 岩瀬さんや講談社に、幾度となく謝罪する機会があったのに、どうして態度を変えなかったのか。自分たちの考え方のほうが正しい、というゆるがぬ信念があったかもしれません。信念というのは、時代によって、立場によって、とんでもないパワーをもつことがあれば、犯罪や悪だと扱われることもありますが、そのバランスのほころびがさまざまな形態で表に現われるのが、犯罪事件の面白さ……いや、怖さのひとつなんだろうと思います。

 まったく、ほんの少し、どこかで何かが違っていたら、こういう裁判もなかったかもしれない。と思わされるのは、黒川さんが直木賞で落選した5度のうち、最も受賞に近づいた第126回候補の『国境』の版元が、裁判で争うことになった講談社だったからです。そのときに、選考委員のなかのあと少しのだれかが、黒川さんのほうに票を入れていたら。……平成14年/2002年の段階で、講談社の本で黒川さんが直木賞をとり、のちのお互いの関係性も変わっていたでしょう。

 直木賞の選考委員の判断も、それぞれ「信念」だとは思いますが、そこから発生した直木賞の落選が、妙なところで影響を及ぼしたものだと思います。

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