昭和61年/1986年・現実の犯罪にしか興味がない、空想の小説を書くのはアホらしいと語る西村望。
【高知】警察庁から凶悪犯総合手配で全国に指名手配中の殺人容疑者、(引用者中略)元鉱夫、西村楠義(五一)=写真=は十九日夜同県幡多郡佐賀町川内国鉄土讃線工事飯場で同県警に逮捕された。第三次手配七人目である。
西村は昭和二十四年一月愛媛県新居浜市角野町の前住所で妻キヨさん(三八)と長女の文香ちゃん(四つ)を殺し床下に埋めた。その後、長男の明君(一〇)二男の博君(六つ)をつれて坑夫生活をしていたが、博君が足手まといになるので同年二月高知県佐川町中山の谷間で絞殺して捨てた。さらに二十五年には自宅近くの斎藤アサ子さんをダイナマイトで爆殺した。
――『毎日新聞』昭和35年/1960年9月20日「「西村」逮捕 総合手配 妻子殺し」より
10数年ブログ記事を書いていると、何度も取り上げることになる作家がおのずと出てきます。直木賞候補3回、西村望さんもそのひとりです。しかし、「犯罪でたどる直木賞史」というテーマに絶対外せない作家なのはたしかなので、いつもどおり芸がないですが、今回もまた西村さんの話です。
直木賞で、犯罪そのものを題材にした小説が候補に挙がることは珍しくありません。第2回(昭和10年/1935年下半期)獅子文六さんの『遊覧列車』に収録されたいくつかの短篇をはじめとして、「推理小説」のジャンルに入るものは、ことごとくそうですし、いまの直木賞で犯罪にまつわる小説が主流を占めているのは間違いないところでしょう。はっきり言って「犯罪を描いた直木賞候補者」を取り上げていくだけでもネタは尽きないはずですが、なかでも西村さんは別格だと思います。
ライター・文筆業の肩書をもちながら、物書きだけでは食べていけず、借金ばかりが増えていった西村さんの人生を変えたのが、犯罪です。犯罪事件との出会いです。
ちなみに西村さん自身は犯罪者ではありません。本人いわく、小心者なので犯罪を起こすほどの度胸がないから、だそうです。ただひとつ思い出せる犯罪らしきものは、香川県高松からほど近くに浮かぶ故郷、男木島に暮らしていた昭和20年代後半ごろ、飲み屋の女と協力して前借詐欺を働き逃げてきた知人とその女を、小型の漁船に乗せて四国から逃がしてやったこと(『虫の記』所収「ぼくの唯一の犯罪」)だと言います。
しかし何ごともなく平穏に過ごそうと思っても、どうしても人は犯罪にぶち当たってしまいます。かつて西村さんも警察の取り締まりにひっかかったことがありました。
というのも西村さんは昭和32年/1957年、当時松本清張さんの「点と線」が連載されていた『旅』誌にルポ記事を投稿してみたところ、編集長の戸塚文子さんに評価され、いきなり1年間の連載を依頼されます。それがきっかけで連載終了後も、同誌の執筆陣のひとりとして文筆に励みますが、昭和36年/1961年、戸塚さんが退社してフリーとなると、西村さんは後任の編集長と喧嘩を起こして出入り禁止。お決まりの貧乏ライター生活に陥りますが、そんな西村さんのお得意先のひとつとなったのが、『笑の泉』別冊号です。泣く子も黙るエロの殿堂。そこに少し性的なエピソードを盛った読み物から、ノンフィクションから、あるいは小説から、いろいろ載せたそうなんですが、雑誌そのものが何度も猥褻文書扱いで警察の摘発を受け、発禁処分に。西村さんの記事も3回、処分対象となり、警察に出頭を命じられ、調書をとられたことがあった、ということです。
そのころエロ雑誌の社長から、君ならいずれ直木賞ぐらいとれる、うちのようなエロ雑誌にばかり書いてちゃ駄目だ、と諭されますが(「子を捨てる」)、そこですぐに文芸路線に走る、という軽薄さがないのが、西村さんのいいところです。とうてい物書きでは生活できないからと故郷に帰り、土建業、野鳥園の経営、その他いったいどうやって妻と子供を養っていたのか、どうにかなっていたんでしょうけど、地元瀬戸内海放送のテレビ番組「土曜プラザ」の事件レポーターをやってみないかと声をかけられたのが昭和46年/1971年のこと。視聴者受けなどまるで眼中におかず、ズケズケとものを言い、気に入らないことはしない徹底したスタンスが味となって、長いこと起用されつづけました。
しかしその間、昭和21年/1946年に結婚して以来、苦楽をともにした妻と昭和47年/1972年に死別。がっくり落ち込んで、酒を飲んでは吉村昭さんの小説ばかり読む生活を送ります。そんな折り、作家としてデビューした弟の西村寿行さんが、あれよあれよという間に出版界でのし上がり、人気作家、流行作家と華ひらくのを傍で見て、あんな下手くそな小説が売れるんなら俺もやってやろうかと思い立つと、少なくとも昭和50年/1975年ごろには、四国の鬼熊事件と言われた連続殺人事件の犯人のことを調べ、構想を練っていたと思われます。というのも、この年、佐木隆三さんが『復讐するは我にあり』を発表、新しい犯罪ドキュメント小説だと持て囃されるのを見て、まったく自分が考えていたのと同じ方向性の作品だったものですから、先を越されたと悔しがった、と回想しているからです。
二番煎じだ、佐木隆三の真似ゴトだ、と言われるぐらいなら、いっそまた別の題材、別の内容を試してみる道もあったとは思うんですが、鬼畜と言っていいほどの所業をおかした人間に対する興味は膨らむばかり。もはや他人にどう思われようと構わない、という境地にあったことが功を奏したものでしょう。原稿用紙に向かいつづけ、一気呵成に書き上げた500枚ほどの作品が完成します。
いったんは、伝手を通じて大手出版社の編集者に読んでもらったものの、酷評とともに返されるという不遇の目に遭いますが、それでもあきらめがつかない西村さんは、弟に頼る気はなく、本棚にあった長部日出雄さんの『死刑台への逃走』(昭和44年/1969年)という犯罪小説に目をとめると、奥付にあった版元の立風書房に、いきなり原稿を送ってみます。すると1週間ほどで同社社長の下野博さんから速達で返信が届き、そこにあったのは絶賛の文章。「これは直木賞ものの大変な作品だ」との表現もあったそうです。再婚した若い妻と二人で、泣きました。
西村望さん52歳。『鬼畜 阿弥陀仏よや、おいおい』(昭和53年/1978年5月・立風書房刊)が刊行され、救いも何もない犯罪と人間の行動を冷徹に見つめる、暗黒犯罪事件専門の小説家がいよいよ世に姿を現します。
○
後年は完全に歴史時代物に移行してしまった感はありますが、西村さんが80年代・90年代の、地道で容赦ない犯罪小説の雄だったことはたしかでしょう。
どうしてそんなに犯罪のことばかり書くのか。何百回と質問されたと思います。たいてい西村さんは、そういう犯罪事件から見える「人間」というものに興味があるから、と答えています。頭のなかでこねくり回してつくったフィクションには何の興味も沸かない、とすら断言しました。
「一億以上の人間が、この日本にひしめいていれば、人間どうしがぶつかりあって火花が散り、当然、そこに犯罪も生まれる。その犯罪の中でも、特に人間の悲しさ、おぞましさが出ているものには惹かれるね。だから、たった一人の人間が頭の中で空想したものを小説に書くなんて、アホらしいという思いがあるね。」(『週刊現代』昭和61年/1986年4月26日号「にんげんファイル'86 題材は一貫して“現実の犯罪”「空想したものを書くなんてアホらしい」」より)
立風書房から出した5冊目の小説『薄化粧』(昭和55年/1980年8月)も、もちろんその路線に則った一作で、細かいことは以前も触れた気がするので省きますが、昭和24年/1949年から翌年にかけて愛媛県別子鉱山近くで起きた妻子殺害およびダイナマイト爆殺事件で松山刑務所西条支所に拘置された一人の男が、昭和27年/1952年10月に脱走。各地を転々としながら逃げ回り、昭和35年/1960年9月19日に高知県でようやく捕縛された一連の事件を題材にしたものです。これではじめて西村さんは直木賞(第84回 昭和55年/1980年・下半期)の候補になり、かなり受賞を期待したらしいのですが、受賞は中村正䡄さんの『元首の謀叛』に持っていかれます。
その後も西村さんは、第86回(昭和56年/1981年・下半期)、第99回(昭和63年/1988年・上半期)と直木賞の候補に挙げられて、けっきょく受賞圏内には達せず、他にいくつかあった文学賞のほうでも、まったくいずれにも引っかからず、孤高の犯罪小説家の風合いに拍車がかかることになるのですが、そのなかで弟の寿行さんと同様、「もう直木賞なんていらないよ」と公言するようになるのは、奇遇と言いますか、ひとつの信念をもって犯罪事件に向き合っている、という自負のある人間にとっては、自然な反応かもしれません。
たしかに、そんな殺人鬼の話をえんえんと書いて、いったい何が楽しんだ、と思った選考委員はいたでしょう。直木賞の選評でもいくつか批判が見られました。もはやそれは価値観や小説観の違いと言うしかなく、西村さんの候補入りと直木賞の動向、そのひとつを見るだけでも、べつに直木賞の受賞作がエラくて、落ちたものは駄目、なんてことはないのだな、と思わされます。直木賞の歴史を追う作業は、結局その事実を繰りかえし繰りかえし確認させられる、ということでもあります。
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