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2018年10月28日 (日)

昭和5年/1930年・共産党シンパ事件で検挙され、転向を表明した立野信之。

田中清玄一派の再建共産黨資金局員曾木克彦に黨資金を提供したプロ作家同盟委員長藤森成吉、プロ文士林房雄こと後藤壽夫ら五名にかかる治安維持法違反事件はかねて東京地方裁判所潮裁判長、丸検事係で審理中であつたが八日午前十一時左の通り判決言渡しがあつた

▲懲役六年 曾木克彦(二九)

▲同三年 大村英之助(二九)

▲同二年 立野信之(三一)

▲同一年 後藤壽夫(三一)

▲同二年 藤森成吉(四二)

――『読売新聞』昭和8年/1933年7月9日夕刊「藤森成吉氏に懲役二年言渡し 林房雄氏は一年=シンパ事件」より

 早くに亡くなった作家が、もっと長生きしていたら直木賞を受賞していたのではないか。と、そんな妄想を楽しんだことが、直木賞のファンなら一度や二度はあると思います。いや、他の人のことはわかりませんが、ワタクシはあります。

 なかでも受賞の姿が濃厚に目に浮かぶのが、太宰治さんです。作品の内容、発表媒体の広がり方、作家的な履歴。昭和23年/1948年の段階ですでに、直木賞ど真ん中だった、と言っていいんですが、何よりも、受賞すれば確実に、純文学偏愛者たちから「何で太宰が直木賞なんだ!」と多くの異論が上がる。絶対に上がる。そこのところが何とも、直木賞ど真ん中です。だいたい檀一雄さんを候補に選び、受賞させるような賞が、太宰さんのことを無視できたとは思えません。

 小林多喜二さんはどうでしょうか。さすがにこれは無理筋でしょうか。しかし、案外、可能性がゼロだとあきらめるわけにはいかないのは、ひとえに第28回(昭和27年/1952年下半期)の受賞者に立野信之さんがいるからです。

 大正後半から昭和のはじめ、うなりを上げて文壇を席巻したプロレタリア文学の作家のうち、その多くは官警に捕らえられ、取り調べを受け、裁判を争ううちに、無産派文学からの離脱を表明、いわゆる「転向」することになりますが、いったいどうして、そこから直木賞の受賞者が生まれたりするのか。展開のなりゆきが難解すぎて、にわかには付いていけません。

 とりあえず立野さんの場合の、経歴的な事項から追うと、関東中学に在学中あるいは中退したあと、『文章世界』(博文館)や『秀才文壇』(文光堂)などに小説や詩を投稿、いくたびか入選したり、選外佳作で名前だけ載ったりしていましたが、その後、短歌の同人誌『曠野』をつくるとき、投書雑誌の通信欄に「同人募集」のお知らせを出したところ、申し込んできたのが山田清三郎さんです。この山田さんが、とにかく文芸編集、雑誌づくり、もしくは創作活動に積極的に突き進む人だったものですから、立野さんもつられて熱を上げることになります。

 すると、まもなく大正11年/1922年11月には、立野さんにとってはじめてとなる留置所入りを経験。自分も創刊に関わった、無産者文学に特化した商業文芸誌『新興文学』の主催で、ロシア革命五周年記念の文芸講演会「新興芸術講演会」を開くにあたり、牛込駅付近でビラ配りをしていたところ、いきなり神楽坂署に連行されたといいます。23歳のときでした。

 立野さんの『青春物語・その時代と人間像』(昭和37年/1962年1月・河出書房新社刊)や、山田さんの残したプロレタリア文学勢に関する歴史と回想などを混ぜ合わせると、常にそこには警察に引っ張られる危険と隣り合わせ、それでいて、いったい何のきっかけで誰が検挙されるのかよくわからない混沌とした状況のなか、懸命に文学活動に励む立野さん、あるいはさまざまな作家たちの生きざまを目にすることができます。懸命だから何なんだ、それと文学とは何の関係もないじゃないか、と思わないでもないですが、自分の信じる方向性で小説を書き、評論をまとめ、雑誌をつくったりすると、違法判断に直結することがけっこうあった土壌のなかから、立野さんという作家が出てきたのはたしかなことです。

 昭和3年/1928年、山田さんに誘われるままに書いた「標的になった彼奴」が『前衛』に、「赤い空」と「軍隊病」が『戦旗』に採用され、小説家としての出発を切った立野さんは、隣人で友人だった橋本英吉さんの見るところ、呆気にとられるほどの外交的手腕の持ち主だった(『民主文学』昭和47年/1972年2月号「立野信之の憶い出」)……ということらしく、組織のなかに生きることでさらに頭角を表わしながら、いっぽうでは共産党の党員になって活動することには消極的な姿勢をとり、外郭的な文学組織に籍を置いたところから、作家生活をつづけることを模索します。

 しかし、共産党に対する時の政府権力の取り締まりは、スキがあればいくらでも解釈を拡大して共産運動の殲滅をめざすもので、人道的かどうかと言えば、非人道的なやり口には違いありません。昭和5年/1930年5月から6月にかけて、共産党に資金提供をしたという嫌疑で文化人や文学者がぞくぞくと検挙された「共産党シンパ事件」で、ついに立野さんの自宅にも特高警察がやってきます。立野さんやその仲間たちは、資金難にあった党の活動のために、蔵原惟人さん、永田一脩さんを通じて微額ながら援助しており、それがバレた。ということなんですが、たまたま立野さんの家に仮寓していた小林多喜二さんもいっしょに、杉並署に連行されてしまいます。以来2か月ほど各署の留置所を転々とさせられたのち、7月下旬に起訴。送られたのが、中野の豊多摩刑務所です。

 そこで立野さんは検事にすすめられて、天皇制を認め、これからは合法面で共産主義運動をやる、といった内容の調書に拇印を捺すことになり、翌昭和6年/1931年2月に保釈。昭和8年/1933年7月に懲役2年の判決を受けますが、控訴審でも共産運動からの転向を訴えた結果、同年12月26日、東京控訴院で、懲役2年ただし執行猶予4年、という判決がくだされます(執行猶予5年とする文献もあり)。その後の立野さんは、当局の弾圧とともに、プロレタリア文学運動全体が下火になっていくなかで、日本とは何なのか、そのなかで培ってきた日本人の特性とは何なのか、という方向に作家としての関心を向け、戦中、戦後とかなり地道な執筆活動に終始しました。

          ○

 どんな用語・事件もそうだと思いますが、たとえば「転向」と一言でいっても、転向を宣言したいっときの出来事や、転向を表明した直後の小説など、それだけが独立して存在するものではありません。少なくとも、いったい立野さんは転向のなかから、どのような小説を指向し、積み上げていくことになったのか。そちらに目を向けないわけにはいきません。

 というのも、立野さんが戦後にいたってたどり着いた、あえて歴史としての「現代史」を描く、という創作作法は、明らかに本人が共産主義から転向ないしは脱落したことと、深く関係しているからです。

 自分が青春時代を過ごし、びくびくしながら、しかしひとつの使命感にかられて命を賭けた共産・無産派文学の展開は、その後まもなく勃発する満州事変や、戦線の拡大、太平洋戦争、そして敗戦と、一連の日本の動向のなかにあった。という当事者としての意識が、直木賞候補になった「公爵近衛文麿」や、受賞した「叛乱」を生み出すもとになったのだと、立野さんは語っています。何といっても二・二六事件というのは、立野さんが転向を表明してからわずか5~6年しか経っていない時期に起きた、生なましい実体験と言ってもいい事件です。

「私が(引用者注:昭和11年/1936年に)二・二六事件の勃発を知って、これで軍政府が成るかと暗澹(あんたん)たる気持ちになった。その気持ちの底には、当時、私自身が共産主義運動からの脱落者であるという、ぬぐってもぬぐいきれない意識が介在していたのである。

(引用者中略)

満州事変は、昭和三年の三・一五事件、翌四年の四・一六事件と二年つづいた共産党に対する大弾圧と「転向」のあらしの中で日本軍部によって計画され、引き起こされたもので、国内の階級闘争に対する国民大衆の眼を国外に向けさせたもの、といわれている。そういう意味では、私などは階級闘争の中では取るに足らない存在ではあったが、当時「転向」した、ということで「国民の階級闘争に対する国民大衆の眼を国外に向けさせ」る一役をになったことにはなる。そしてその意識は、その後もずっと私を苦しめつづけた。いまもどうかするとその古い創口(きずぐち)の疼(いた)みを感じる。」(『読売新聞』昭和46年/1971年2月26日夕刊 立野信之「二・二六と私 “転向”の意識に悩み戦争責任と取り組む」より)

 たしかに「叛乱」が発表された昭和27年/1952年当時、多くの人が「私の二・二六事件」といった態の小説は書けただろうと思います。しかし、思い入れ過多になるのを避け、自分の経験談から広げていくのではなく、少し引いた視線から、この事件のことを書けてしまったところが、何より立野さんに不思議な才能のあったゆえんでしょう。俯瞰的な視点と、当事者としての視点を、巧みに切り分ける力です。

 あるいはそういう能力が、立野さんの卓抜した外交的手腕につながっているのかもしれませんが、そちらはよくわからないので措いておくとしても、昭和5年/1930年の検挙とそこで意に沿わないかたちで表明することになった「転向」がなければ、二・二六事件に対する現代史のとらえ方も違っていたことでしょう。そういう意味では、「叛乱」もまた、転向から派生した小説、と言って間違いありません。

 考えてみると、作家歴20数年を数える立野さんのそういった作品を、一度ならず二度も候補に残し、ここで賞を与えようと思った直木賞もまた、目のつけどころが秀逸すぎて、つい惚れ直したくなるところですが、そうは思わない人もいるでしょう。ひとりで黙って惚れ直しておきたいと思います。

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