平成18年/2006年・子猫を捨てていたことでフランス刑法下での告発が検討された坂東眞砂子。
直木賞作家の坂東眞砂子さん(48)=フランス領タヒチ在住=が、日本経済新聞に寄稿したエッセーで告白した「子猫殺し」。その内容をめぐって余波が続いている。タヒチを管轄するポリネシア政府は、坂東さんの行為を動物虐待にあたると、裁判所に告発する構えを見せている。
――『毎日新聞』平成18年/2006年9月22日夕刊「子猫殺し 告白の坂東眞砂子さんを告発の動き――タヒチ管轄政府「虐待にあたる」」より
新しいものが生まれては、すぐに廃れていく、その代表的な現象に、ネットの炎上案件があります。いや。マスメディア経由だろうが直接の伝播だろうが、「ニュース」と呼ばれるものは、たいてい似たようなものかもしれません。直木賞の受賞決定報道なども、半年前に誰が受賞したのか思い出せない、という感想をたびたび目にしますが、それは直木賞のせいでも、現代の出版界のせいでもなく、ニュースというものがもつ普遍的な特徴に由来しています。次々と出てきては次々と忘れ去られていく。ニュースとはそういうものなんでしょう。
さて、直木賞と炎上、ということで思い出されるのは、いまから12年前の平成18年/2006年8月18日、直木賞を受賞して9年を経過した坂東眞砂子さんが、『日本経済新聞』夕刊の「プロムナード」という連載エッセイ枠に「子猫殺し」と題する原稿を発表した一件です。直後から、ほぼ批判的意見を中心とした大反響が沸き起こり、いまなおネット上にたくさんの痕跡が残っているほど、荒れに荒れました。
そういうものを改めてたどっていると、激怒した猫好きというのは、時に凶暴化するものなのだな、という恐怖心ばかりが思い返されますが、大半の人が「あらゆる物事に対して慈愛をもつ」世界を望んでいそうなのに、その考え方にくみしない人間に対してだけは慈愛をもたなくていい、というふうに感じさせるところが、最も恐ろしいのかもしれません。
話がズレそうなので炎上の恐怖はともかく忘れましょう。このとき、坂東さんの行動や、その行動を新聞に公表することで問題を提起しようとした姿勢に対して、さまざまな批判と反論が向けられたことはたしかですが、そのなかのひとつに「それって違法行為ではないか」というものがありました。おまえは犯罪者だ、ないしは、こいつは犯罪者だ、と糾弾する行為は意外に大勢の目を引きつけるのに役立ち、糾弾の火の手を焚きつけるのには効果的な手法のようです。
エッセイによると、当時フランス領ポリネシアのタヒチに住んでいた坂東さんは、よくよく熟慮したうえで飼い猫に去勢手術を施さないことを決意。交尾した猫が子猫を生んだら、自分では責任をもって飼うことはできないからと、心を傷めながら家の裏に投げ捨てていたのだといいます。
この内容と書きぶりに、ネットユーザーたちのボルテージ急沸騰。それを受けて、数日後には『日経』以外の各新聞がこの騒動を取り上げることになりますが、いくつかの記事は法律のことにも触れました。いわく、日本の動物愛護管理法では、猫などをみだりに殺すと1年以下の懲役または100万円以下の罰金が科せられる、タヒチに適用されるフランスの刑法でも、やはり違法と見なされる可能性がある、と。……おそらく、それを紹介することで、単なる感情論を超えた騒動であることを伝えようとしたわけです。
さらにネットの盛り上がりのなかから、タヒチにある動物愛護団体「フェヌア・アニマリア」に、わざわざこの件を通告する人まで出現。すると、これを問題視した同団体では、地元の『ラ・デペッシェ』紙などに情報を提供、現地でもこれは違法ではないか、という動きに発展していきます。ついには、タヒチを統治するポリネシア政府が、坂東さんに対する告訴状を共和国検事に提出することを決めた、と発表されたのが9月13日。何に違反しているかといえば、フランス刑法第6巻第5題R655-1にある、家畜やペットをみだりに殺したり虐待したりすると罰金によって処罰される、という規定に触れるのだそうです。
さあ大ゴトになってきた、政府まで動こうとしている、果たしてマサコ・バンドウはほんとうに法律に違反する行いをしているのか、と警察に呼び出されて、取り調べを受けて……といった顛末は、この年の『文藝春秋』12月号に坂東さん自身が寄稿した「「子猫殺し」でついに訴訟騒動に」で追うことができます。
そこにも書かれていることですが、法的な見解の分かれ目は、日本にしろフランス圏にしろ、「みだりに」という言葉をどう解釈するか、ということになるでしょう。坂東さん本人は当然、理由もなく不必要に猫を捨てている、とは考えていません。しかし、親の猫に不妊手術を施すという「必要な」処置をせず、生まれてきた子猫を捨てるのは、あえて「不必要な」行動をとっているのだ、と言えなくはありません。
日本でもタヒチでも、猫を捨てる人はたくさんいるのでしょうが、だれも自分がそういうことをしていると公言しないから違法と認定されないだけで、みずから発表してしまえば、取り締まりの対象になってもおかしくないでしょう。しかし、坂東さんが書くところでは、タヒチでは家で飼えない猫を捨ててしまったことで警察に逮捕される、というのはまず考えづらく、現に調書をつくったタラバオ警察署長のフィリップは、坂東さんの事情を聞いたうえで、エーテルを嗅がせてやるといいんだ、眠ったまま死ぬから、とアドバイスしてくれた、と言います。私だって捨てたくて捨てているんじゃない、という事情と心情は、「みだりに」殺しているわけではないものとして十分勘案される、ということです。
結局のところ、政府の発表はその後うやむやのうちに消え失せます。坂東さんのもとにも告訴の件で連絡が入ることはなく、おそらく起訴も何もされませんでした。
○
坂東さんはタヒチに居を構えるようになってから、人や動物の「生」とは何か、「死」とは何か、より多くの機会で考えるようになったそうです。そういう経験から紡いできた思考を、小説だけでなくエッセイというかたちで発表する、というのも作家が受ける仕事のなかには、たしかにあります。
ということで、広く一般の人たち(とくに日本人たち)に問題を提起したい、という思いでエッセイが書かれたのでしょうが、本人が意図しないぐらいに非難、中傷、脅迫、さまざまな声が飛び、実生活の場にも影響が現われます。ここで坂東さんに特徴的だったのは、騒動が過ぎ去るのを待ったり黙ったりせず、反論の機会があれば自分の考えを語りつづけたところです。実際そういう姿がまた、あまり好まれない理由の一端ではあったでしょう。しかし単純に尊敬できる姿勢だと思います。
法律で定められている、違法行為に当たる、という観点ひとつとっても、坂東さんは、はい、そうですね、すみません、と安易に引きさがったりはしません。いまの法律は愛護すべき動物かそうでない動物か、人間さまが決めたルールでしかない、それを絶対唯一のものと受け入れて終わりにしたくない、というスタンスを表明するのです。
「法律は、人がつくったものです。齟齬が生じて、多くの人が変えるべきだと合意すれば、変えられるものでしょう。それを、宗教のように「変えられない」と信じこんでいるのはおかしいですね。
(引用者中略)
日本には、動物愛護管理法という法律があります。(引用者中略)このような法律があること自体は、悪いことではないと思います。しかし、動物との向きあい方のすべてが、この法律にもとづいておこなわれる必要などないでしょう。法律があってもなくても、人と動物はどう向きあっていったらいいのかということを、動物に関係する個人がそれぞれ考えればいいことなんだと思います。」(平成21年/2009年3月・双風舎刊 坂東眞砂子・著『「子猫殺し」を語る』所収 東琢磨との対談「管理できないものは愛されない」より)
法律のことに限りません。人の感情、倫理観、とにかく何でも疑ってみる。そこから考えを深めたり、議論したりする。たぶん実際に接すれば「このひと、面倒くさいな」と思われがちなこの姿勢が、坂東さん自身が書いた文章からも、あるいは交流のあった人たちの回想からも、ひしひしと伝わってきます。
これはもう明らかに面倒くさくはあるんですが、犯罪かどうかだけが善悪の尺度にはなり得ない。たしかにそうかもしれない。考え出すとキリがありません。しかもそれを、空理空論の口先でなく、生活実感と生きざまを賭して我が身を生け贄にしながら、世論に向き合う覚悟を貫いてしまったところが、直木賞史に現われる並の「犯罪事件」とは違う、坂東さんの特異なところです。
| 固定リンク
« 昭和61年/1986年・現実の犯罪にしか興味がない、空想の小説を書くのはアホらしいと語る西村望。 | トップページ | 昭和5年/1930年・共産党シンパ事件で検挙され、転向を表明した立野信之。 »
「犯罪でたどる直木賞史」カテゴリの記事
- 平成27年/2015年・妻に対する傷害容疑で逮捕、不起訴となった冲方丁。(2019.06.02)
- 昭和58年/1983年・自分の小説の映画化をめぐって裁判所に訴えられた村松友視。(2019.05.26)
- 昭和33年/1958年・小説の内容が名誉棄損だと告訴されて笑い飛ばした邱永漢。(2019.05.19)
- 昭和43年/1968年・掏摸というのは芸術家だ、と言い張る犯罪者のことを小説にした藤本義一。(2019.05.12)
- 昭和46年/1971年・建物の所有権をめぐる契約書偽造が疑われて逮捕された加賀淳子。(2019.05.05)
コメント