昭和20年/1945年・立川の米軍捕虜虐殺事件を、巡査として目撃したもりたなるお。
起訴理由概要 昭和20、8、9一俘虜軍曹を棒に縛りつけ一般民衆に依り竹竿を以て二時間に亘り打擲を加えしめ失神せしめ或は之を蘇生せしめ且軍刀を以て斬首せしめたる等の行為に依り戦争法規慣習違反せり
所属 立川憲兵分隊長
階級 憲少佐
氏名 ●島●郎
判決 年月日 22、6、24 刑 無罪(引用者注:「無期」の誤記)
(引用者中略)
起訴理由概要 立川憲兵分隊に勤務中立川市に於いて米軍俘虜を虐待酷遇死に至らしめ又完全なる看護保護を加へず部下の行為を取り締ることを怠れり(20、8、9)
所属 立川憲兵隊
階級 准尉
氏名 ●昇
判決 年月日 22、8、22 刑 20年
――昭和60年/1985年8月・不二出版刊 茶園義男・編・解説『BC級戦犯横浜裁判資料』「横浜裁判一覧表」より(原典は表組み)
人は生まれながらにして罪人だ、という表現がありますが、そういう宗教的な考えは抜きにしても、人が常に犯罪に囲まれて生きていることは明らかです。本人が自覚的に罪を犯すケース、法律にのっとっていないと突然指摘されるケース、違法だか何だか誰にもわからないところで裁判に持ち込まれるケース、などなど当事者として関わる場面もあるでしょうが、それ以外にもさまざまな立場から、ほぼすべての人間が、なにがしかの犯罪に接しています。
直木賞の候補者のうち、かつて警官だったもりたなるおさんは、単に警官だったという経歴的な事実を超えて、犯罪事象と縁の深い作家だった、と言っていいでしょう。警察官もまた、他の人と変わらずにそれぞれが一個の人間であり、小市民である、という思いのもと、何作も警察官の側に視点を据えた小説を書き、そのうち『無名の盾 警察官の二・二六事件』(第97回 昭和62年/1987年・上半期)、『大空襲 昭和二十年三月十日の洲崎警察署』(第100回 昭和63年/1988年・下半期)の二つが直木賞の候補になりました。二・二六事件で数名の警備警察官が犠牲になった、というところから、この事件のことを調べるうちにズブズブとはまり、〈二・二六作家〉としても名をなします。
じっさいには、もりたさんが警官だったのは約3年ほどで、それほどの長期間ではありません。18歳のとき、警察官の多くが兵役にとられて人員不足となったために、その補助的な位置づけにあった少年警察官として雇われたのち、警視庁警察練習所に学んで、昭和19年/1944年に、巡査となって立川警察署に配属されます。しかしまもなく、昭和20年/1945年春には徴兵検査を受けて第一乙種となり、現役兵として浜名海兵団に入団したのが、終戦まぎわの8月10日。
やがて日本の無条件降伏によって、もりたさんもすぐに復員し、立川警察に戻るのですが、戦時中、腰にサーベルを差し、さんざんイバり散らして偉そうだった警察が、戻ってみるとガラリと様相が変わっていて、民主警察に再生したという態で丸腰になり、やることといえば、通称〈MP〉と呼ばれるアメリカ軍人たちの護衛というか使いっ走り。日本の治安をわれわれが守るのだ、という燃え盛る気概が、もろくも消え失せるような大転換のこの時期に、若い警官として日々を過ごすなか、わずか3年の勤務、とはいえ、そうとう精神的に揺り動かされる経験をしたのでしょう。
闇米の取り締まりのために立川駅に派遣されたある日、買い出しにきて風呂敷包みを抱えていた女性を発見。逃げる彼女を、職務に忠実に追っていったところ、便所の中に逃げ込まれ、いくら説得しても出てこようとしない。しまいにはすすり泣く声で、うちには腹を空かせた子供たちが待っているんだ、と訴えられ、いよいよ森田巡査は自分のしていることがわからなくなってきます。取り締まろうとする自分も貧乏、取り締まられる人たちも貧乏。ああ、もうヤダヤダ、と辞職の覚悟を決め、宿直明けに制服姿のまま電車に乗り、以前から「大衆のための芸術」だと思って興味のあった漫画を描こうと、近藤日出造さんの家をいきなり訪ねていき、それからは師匠ゆずりに、画も描きながら文章も書く、新進の漫画家として、戦後の再出発をはかりました。
その後も、昭和27年/1952年5月のメーデー事件の行進に参加したり、昭和31年/1956年には米軍の基地拡張に伴う農地接収などの問題が起きていた砂川闘争を取材したり、いくつか〈元・警官〉の立場で接した社会事件もありますが、ここで触れたいのは、もりたさんが現役巡査だった頃に発生した事件のことです。
後年、もりたさん自身、小説の題材にもしています。立川市錦町の米軍捕虜虐殺事件です。戦後の横浜軍事裁判では、日本側文書で見ると事件番号134および158、米文書ではケースNo.217という番号が付けられています。
もりたさんがこの事件にどう関わったのか……と、その前に事件の概要を紹介しておかないと話は進みません。
昭和20年/1945年8月8日昼すぎ、立川上空に現われた米軍のB29編隊に対して、日野台にあった高射砲が火を噴いた結果、撃ち落とされた機体が一機。墜落死する搭乗員たちのなかで、落下傘での降下に成功した2人の米兵は、すぐに日本の警備隊に捕えられ、立川憲兵分隊に収容されますが、住民たちが分隊の施設に押し寄せ、殺気立った状況のつづく有り様を見て、このままでは収まらないと判断したらしい憲兵分隊では、翌9日、捕虜のうち1人を錦国民学校の校庭に連れ出すと、十字架のように組んだ棒に括りつけ、住民たちのなかで希望する者に、一人一回ずつ竹槍で打たせる、という対応をとります。
希望者は長蛇の列をなし、約2時間たっても終わらなかったところ、警戒警報が発令されたために一般市民たちは即座に解散。憲兵隊は傷ついた捕虜を、正薬院のなかにあった市営墓地に担ぎ込み、どういう経緯だったかは不明ながら、一人の航空技術将校と思われる中尉が軍刀を一振りし、米兵を斬首します。ところが一転、まもなく無条件降伏が決まったものですから、米軍に事実が発覚するのを恐れた憲兵たちは、墓地を掘り返して腐乱した遺体を取り出すと、改めて火葬して埋め直すなどの隠蔽をはかった、ということです。
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