« 2018年8月 | トップページ | 2018年10月 »

2018年9月の5件の記事

2018年9月30日 (日)

昭和20年/1945年・立川の米軍捕虜虐殺事件を、巡査として目撃したもりたなるお。

起訴理由概要 昭和20、8、9一俘虜軍曹を棒に縛りつけ一般民衆に依り竹竿を以て二時間に亘り打擲を加えしめ失神せしめ或は之を蘇生せしめ且軍刀を以て斬首せしめたる等の行為に依り戦争法規慣習違反せり

所属 立川憲兵分隊長

階級 憲少佐

氏名 ●島●郎

判決 年月日 22、6、24 刑 無罪(引用者注:「無期」の誤記)

(引用者中略)

起訴理由概要 立川憲兵分隊に勤務中立川市に於いて米軍俘虜を虐待酷遇死に至らしめ又完全なる看護保護を加へず部下の行為を取り締ることを怠れり(20、8、9)

所属 立川憲兵隊

階級 准尉

氏名 ●昇

判決 年月日 22、8、22 刑 20年

――昭和60年/1985年8月・不二出版刊 茶園義男・編・解説『BC級戦犯横浜裁判資料』「横浜裁判一覧表」より(原典は表組み)

 人は生まれながらにして罪人だ、という表現がありますが、そういう宗教的な考えは抜きにしても、人が常に犯罪に囲まれて生きていることは明らかです。本人が自覚的に罪を犯すケース、法律にのっとっていないと突然指摘されるケース、違法だか何だか誰にもわからないところで裁判に持ち込まれるケース、などなど当事者として関わる場面もあるでしょうが、それ以外にもさまざまな立場から、ほぼすべての人間が、なにがしかの犯罪に接しています。

 直木賞の候補者のうち、かつて警官だったもりたなるおさんは、単に警官だったという経歴的な事実を超えて、犯罪事象と縁の深い作家だった、と言っていいでしょう。警察官もまた、他の人と変わらずにそれぞれが一個の人間であり、小市民である、という思いのもと、何作も警察官の側に視点を据えた小説を書き、そのうち『無名の盾 警察官の二・二六事件』(第97回 昭和62年/1987年・上半期)、『大空襲 昭和二十年三月十日の洲崎警察署』(第100回 昭和63年/1988年・下半期)の二つが直木賞の候補になりました。二・二六事件で数名の警備警察官が犠牲になった、というところから、この事件のことを調べるうちにズブズブとはまり、〈二・二六作家〉としても名をなします。

 じっさいには、もりたさんが警官だったのは約3年ほどで、それほどの長期間ではありません。18歳のとき、警察官の多くが兵役にとられて人員不足となったために、その補助的な位置づけにあった少年警察官として雇われたのち、警視庁警察練習所に学んで、昭和19年/1944年に、巡査となって立川警察署に配属されます。しかしまもなく、昭和20年/1945年春には徴兵検査を受けて第一乙種となり、現役兵として浜名海兵団に入団したのが、終戦まぎわの8月10日。

 やがて日本の無条件降伏によって、もりたさんもすぐに復員し、立川警察に戻るのですが、戦時中、腰にサーベルを差し、さんざんイバり散らして偉そうだった警察が、戻ってみるとガラリと様相が変わっていて、民主警察に再生したという態で丸腰になり、やることといえば、通称〈MP〉と呼ばれるアメリカ軍人たちの護衛というか使いっ走り。日本の治安をわれわれが守るのだ、という燃え盛る気概が、もろくも消え失せるような大転換のこの時期に、若い警官として日々を過ごすなか、わずか3年の勤務、とはいえ、そうとう精神的に揺り動かされる経験をしたのでしょう。

 闇米の取り締まりのために立川駅に派遣されたある日、買い出しにきて風呂敷包みを抱えていた女性を発見。逃げる彼女を、職務に忠実に追っていったところ、便所の中に逃げ込まれ、いくら説得しても出てこようとしない。しまいにはすすり泣く声で、うちには腹を空かせた子供たちが待っているんだ、と訴えられ、いよいよ森田巡査は自分のしていることがわからなくなってきます。取り締まろうとする自分も貧乏、取り締まられる人たちも貧乏。ああ、もうヤダヤダ、と辞職の覚悟を決め、宿直明けに制服姿のまま電車に乗り、以前から「大衆のための芸術」だと思って興味のあった漫画を描こうと、近藤日出造さんの家をいきなり訪ねていき、それからは師匠ゆずりに、画も描きながら文章も書く、新進の漫画家として、戦後の再出発をはかりました。

 その後も、昭和27年/1952年5月のメーデー事件の行進に参加したり、昭和31年/1956年には米軍の基地拡張に伴う農地接収などの問題が起きていた砂川闘争を取材したり、いくつか〈元・警官〉の立場で接した社会事件もありますが、ここで触れたいのは、もりたさんが現役巡査だった頃に発生した事件のことです。

 後年、もりたさん自身、小説の題材にもしています。立川市錦町の米軍捕虜虐殺事件です。戦後の横浜軍事裁判では、日本側文書で見ると事件番号134および158、米文書ではケースNo.217という番号が付けられています。

 もりたさんがこの事件にどう関わったのか……と、その前に事件の概要を紹介しておかないと話は進みません。

 昭和20年/1945年8月8日昼すぎ、立川上空に現われた米軍のB29編隊に対して、日野台にあった高射砲が火を噴いた結果、撃ち落とされた機体が一機。墜落死する搭乗員たちのなかで、落下傘での降下に成功した2人の米兵は、すぐに日本の警備隊に捕えられ、立川憲兵分隊に収容されますが、住民たちが分隊の施設に押し寄せ、殺気立った状況のつづく有り様を見て、このままでは収まらないと判断したらしい憲兵分隊では、翌9日、捕虜のうち1人を錦国民学校の校庭に連れ出すと、十字架のように組んだ棒に括りつけ、住民たちのなかで希望する者に、一人一回ずつ竹槍で打たせる、という対応をとります。

 希望者は長蛇の列をなし、約2時間たっても終わらなかったところ、警戒警報が発令されたために一般市民たちは即座に解散。憲兵隊は傷ついた捕虜を、正薬院のなかにあった市営墓地に担ぎ込み、どういう経緯だったかは不明ながら、一人の航空技術将校と思われる中尉が軍刀を一振りし、米兵を斬首します。ところが一転、まもなく無条件降伏が決まったものですから、米軍に事実が発覚するのを恐れた憲兵たちは、墓地を掘り返して腐乱した遺体を取り出すと、改めて火葬して埋め直すなどの隠蔽をはかった、ということです。

続きを読む "昭和20年/1945年・立川の米軍捕虜虐殺事件を、巡査として目撃したもりたなるお。"

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2018年9月23日 (日)

昭和10年/1935年・日本無政府共産党事件で、何度目かの留置所入りとなった菊岡久利。

目白の高田農商銀行ギヤング事件が神戸で逮捕されたアナ系の相澤尚夫(二八)の指導下に行はれ、しかも一味の間に重大な陰謀計畫が進められてゐることがわかつたので警視廳特高課では十一夜來俄然緊張、全課員及び各署特高係をそれぞれ待機せしめたうへ十二日拂曉を期しアナ系分子の大檢擧を開始(引用者中略)このアナ系大檢擧によつて大杉榮の死後漸次沒落の過程をたどりつゝあつた無政府主義者がフアツシヨ非常時下にもぐつて從來の理想的觀念論を揚棄して極左及び極右の組織的行動の長所を取入れ一切の權力を否定する建設的テロリズムによる暴力革命を決行するためにすでに昨年六月「日本無政府共産黨」を結成して暗躍してゐた怖るべき全貌が暴露された

――『読売新聞』昭和10年/1935年11月13日夕刊「暴力革命を企らむ “無政府共産黨”の全貌 五十三名打盡さる」より

 直木賞の特徴のひとつに「歴史の長さ」が挙げられます。そのため、しょうもない作品が受賞作に選ばれても、伝統ある賞、というイメージのおかげで、何かエラいもののように感じる人が後を絶たないという、得がたい効果が発生するわけですが、昭和10年/1935年から80余年も続いているので、候補に挙がった人数も優に500人以上。当然それぞれに違った人生があり、彼らの小説を読むという行為とはまた別に、さまざまな候補者の来歴を知ろうとする楽しみも、直木賞を見るときの面白さにつながっています。

 なにしろ直木賞が始まったのは、昭和の初期です。ということで、ある程度の時代まで、候補者のなかには政治思想を理由に警察に検挙されたことのある作家が、何人か見受けられます。いまとなっては、とうてい犯罪者の枠には入りませんけど、国家権力や社会の仕組みに反旗をひるがえすことで辛酸をなめた人が、候補者として重要な歴史を刻んでいるのも、長く続けられている直木賞の一側面でしょう。

 第21回(戦後~昭和24年/1949年・上半期)、混乱とゴタゴタのなかで行われた戦後復活1回目の直木賞に、候補として名前の挙がったひとりが、菊岡久利さんです。候補作は「怖るべき子供たち」。これのどこが大衆文芸なのか、さっぱりわかりませんが、とりあえず直木賞を運営する日比谷出版社の『文藝讀物』に掲載された作品だから候補になったんだろうとしか思えない、この図式からして伝統的な直木賞の姿を垣間見せる、なかなか唐突で面白い候補選出だったと思います。

 たどってみると菊岡さんの履歴は、もし彼が女性だったらいまごろ桐野夏生さんあたりが小説化していてもおかしくないぐらいに波乱に富んでいる、と言ってもいいものですが、昭和20年/1945年に日本の政治情勢がガラリと変わるまでは、年がら年じゅう留置所に入れられていたそうです。

 平成21年/2009年に青森県近代文学館の館長として「生誕一〇〇年 菊岡久利の世界」展を企画した黒岩恭介さんの『綺想の風土あおもり』(平成27年/2015年5月・水声社刊)によると、菊岡さんは大正15年/1926年、17歳のときに秋田県で小坂鉱山煙害賠償労働争議に参加。このころからすでに、社会的に弱い立場にある人たちへの思い入れがすさまじく、社会問題への関心を深めるとともに、思索的のみならず行動的でもあった菊岡さんは、この年、『小樽毎日新聞』に古田大次郎さんの原稿を載せた科でしょっぴかれ、留置されてしまいます。

 翌年、上京すると、石川三四郎さんのもとに拠り、鷹樹寿之介と名乗ってアナキズム運動に本格的に邁進。歯止めの効かない危ない奴、というか、誰の前に出ても決してひるまずに自分をさらす無鉄砲さが、あるいは通じたものか、文壇の作家たちにもけっこう可愛がられました。なかでも横光利一さんとはかなり相性がよかったらしく、菊岡さんは長く横光さんを敬愛し、また横光さんのほうも、ゆくゆくは小説を書いていきたいという菊岡さんに、それならと「菊岡久利」のペンネームを与えます。これは、菊池寛、岡鬼太郎、久米正雄、横光利一の4人の名前から一字ずつ取ったものだそうです。

 ともかく10代の少年だった頃から40代に至るまで、本人によれば、留置所入りは30回、監獄入り3回を経験した(『新潮 別巻第一号 人生読本』昭和26年/1951年1月「文士ゆすり顛末記」)というのですから、ツワモノには違いありません。そのひとつひとつの詳細は、なかなか追いきれませんが、なかで最もマスコミを賑わせた事件というと、昭和10年/1935年秋、「黒色ギャング」と書き立てられた銀行襲撃からの、日本無政府共産党一斉検挙事件になるでしょう。

 さかのぼること2年前、昭和8年/1933年12月はじめごろに、アナキストによる革命団体をつくる目的で集結した植村諦聞、相沢尚夫、入江汎、二見敏雄、寺尾実の5人が〈日本無政府共産主義者連盟〉を結成、翌昭和9年/1934年1月に〈日本無政府共産党〉と改称したこの組織の、大きな問題の一つは資金をどうやって調達するかだった、ということが、のちに相沢さんが回想した『日本無政府共産党』(昭和49年/1974年6月・海燕書房刊)で詳細に触れられています。しばらくは知り合いからの寄付金で、どうにか賄っていたものの、すぐに底をつく有り様。もうこれは、どこか金融機関を襲って奪い取るより他はない、という結論に達し、馬橋郵便局にするか、いや駒場郵便局にするかと物色するうちに、最終的に標的となったのが、目白に住む二見さんに土地勘のあった高田農商銀行です。昭和10年/1935年11月6日朝、二見さんと小林一信さんの二人で同銀行に赴き、脅迫のうえ金を奪取しようとしますが、結果は大失敗。これをきっかけに同党および、無政府共産主義者たちの一大検挙へと拡大していきます。

 その後、官憲の目をかいくぐって逃げ回っていた二見さんも、12月24日、クリスマスイブの夜に銀座の街頭で特高に捕えられ、昭和14年/1939年5月8日の一審では死刑判決が下され、昭和15年/1940年2月8日東京控訴院の二審で無期懲役の判決を受けます。ただし、まもなく2月11日に、紀元2600年の恩赦によって懲役20年となり、刑務所暮らし。5年ほど経って、日本が降伏した直後の昭和20年/1945年10月4日、マッカーサーの政治犯釈放命令によって出獄したのが39歳のときで、すぐに政治運動に戻りますが、日本自治同盟が数年で解散したあとは主だった活動はなかったらしく、昭和42年/1967年に没しました。

 その二見さんとかつて共同生活を営んでいたのが、友人の菊岡さんです。銀行襲撃の失敗で、警察の手から逃れようとする二見さんの、逃亡期間中の生活費の一部を、菊岡さんが出してあげていたとも言います。数百人に及んだと伝えられるこの一斉検挙の対象のひとりとして代々木署に留置され、一週間ぐらいで帰されたそうですが(『思想の科学』昭和40年/1965年11月号 秋山清「無政府共産党事件」)、しかし菊岡さんの履歴を見ると、処女詩集『貧時交』(第一書房刊)の出た昭和11年/1936年1月には、まだ勾留中の身だったとも言われていて、いつ入って、いつ出てきたのか、よくわかりません。

続きを読む "昭和10年/1935年・日本無政府共産党事件で、何度目かの留置所入りとなった菊岡久利。"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月16日 (日)

昭和43年/1968年・公職選挙法違反に問われ、起訴猶予になった今東光。

【大阪】去年四月に行われた大阪市議選に同市此花区から自民党公認で立候補して落選した大谷保一(三五)派(引用者中略)の選挙違反を捜査していた大阪地検特捜部は、作家の今東光(六九)(引用者中略)と、今の秘書の千葉たみ子(三七)(引用者中略)が、大谷から現金をもらった事実をつかみ、公選法違反(被買収)の疑いで調べていたが、三日午後「犯罪は構成するが、反省の色が濃い」として、二人を起訴猶予処分にした。今は佐藤首相から要請され、ことしの参院選全国区に自民党公認候補として立候補する予定で、その処分が注目されていた。

――『朝日新聞』昭和43年/1968年2月4日「今東光を起訴猶予 大阪地検市議選応援で違反」より

 第36回(昭和31年/1956年・下半期)の直木賞は、今東光さんと穂積驚さんの二人に贈られました。穂積さん44歳に対して、今さん58歳。……いまとなっては、とくに珍しくない受賞年齢ですが、それまで50代で受賞した人すらひとりもいなかったのに、いきなり最年長記録を60歳近くまで伸ばしたのですから、とくに今さんの受賞は、一部に大きな驚きを与えた、と伝えられています。

 いや、年齢など些末な話題にすぎません。今さんが直木賞史のなかに残した爪痕といえば、受賞した後の圧倒的なマスコミ露出。これに尽きるでしょう。

 芥川賞に石原慎太郎(第34回 昭和30年/1955年・下半期)あれば、直木賞に今東光(第36回)あり。……と表現したのは、誰だったでしょうか。スター性の面では、たしかに石原さんには勝てないでしょうけど、「かしこまって偉ぶるのではなく、少し崩した口調・文体で、場所柄わきまえず放言する」というスタイルが多くの人にウケたおかげで、小説の出来うんぬんはさておき、作家であり僧侶であり毒舌家、という方向で世間に知れ渡るようになります。直木賞では珍しいことです。

 そういうなかで実施されたのが昭和43年/1968年の参議院選挙です。著名人やタレントが続々と候補者に名乗りを挙げたことから、政治もここまで落ちぶれたかと言われ、いつもいつも、ついに落ちぶれたかと言われている文学賞の姿を、どことなく思い起こさせる様相がありましたが、石原さんと並んで自民党公認で出馬した今さんも、事前から「タレント候補者」の有力者だ、と見られていたといいます。そのことでもわかるとおり、直木賞・芥川賞の受賞者のなかではタレントに分類して違和感のないくらい、とくに顔も名前も売れていたひとりです。

 と、ここで今さんがぶち当たった法律があります。公職選挙法です。

 以前より今さんは、公選法に対して文句があったらしく、ずいぶん悪口を叩いていました。たとえば昭和42年/1967年には、現行の公選法は結局ダメな政治家しか選べないダメ法律だと、お得意の鋭い舌鋒を披露。なぜ戸別訪問やビラに禁止条項があるんだ、そんなどうでもいいことをいちいち条文に示しているから、おれはこの法律が嫌いなんだ、と言い張っています。

 そしてこう書きます。

「買収や供応が悪いことは言うまでもなく、それをする奴や、それに応ずる奴は下等至極な奴で、そんな者を罰するために吾々まで罰則の適応を受ける理由はないのだ。いかなる罰則を制定しても、罪人はこの世の中から無くなるものではないのだ。買収や供応をする候補者には投票しないことが即ち罰則なのだ。

何もそれを法律で規正する必要はあるまい。」(『週刊サンケイ』昭和42年/1967年5月22日号 今東光「東光毒舌説法(21) 選挙法という悪法」より)

 何でも罰則で縛ろうとする法の存在と、今さんの考え方もしくは生きざまは、しょせん相容れないもの同士、ということかもしれません。買収・供応をする奴、応ずる奴、どちらも下等だとかました今さん自身が、実際そのルールにひっかかり、選挙前から後まで、とにかく「今東光といえば選挙違反」という妙な展開へと転がっていってしまうのです。

 この年の春、大阪市議選に応援演説に狩り出された今さんは、候補者だった大谷保一さん派の運動員から10万円を受け取ります。日頃から講演を依頼されること数限りなく、しかも今さんは、たいてい相場より高い講演料を要求することで知られていたそうで、人前に立ってしゃべる、お金が発生する、これ当然、という世界で生きていたものですから、深い考えもなく謝礼を受け取ったところ、法的にはアウト。7月末から2回にわたって取り調べを受け、事実関係を全面的に認めたうえで、「自民党の公認を受けながら、自分が違反をおかしたことをはずかしく思う」(『朝日新聞』昭和43年/1968年2月4日「今東光を起訴猶予 大阪地検市議選応援で違反」より)と反省の姿勢を見せたことが効いて、法律違反ではあるが起訴猶予、という結果に落ち着きました。

 何が選挙法違反だ。何の悪気もなくやったことなんだから、いいじゃないか。と、いつものように開き直ればよかったと思うんですけど、ここで反省してみせるところが、今さんの正直さかもしれません。あるいは、なんだかんだ言っても法の下にある社会集団の一員として、多少は折り合いをつけないと生きてはいけない俗世のつらさを垣間見せ、何だこのクソ坊主は、と批判する人たちを生んでなお、自身の参議院選挙に影響するところは、ほとんどなかったようです。

 天台宗務庁からは昭和43年/1968年4月、大僧正の呼称が贈られ、選挙戦が始まれば、若いころからの友人、川端康成さんが応援演説に立ったと言っては話題となり、自分でも行く先々で、何が佐藤内閣だ、これをぶっ壊せるのはおれだ、と自民党公認でありながら自民党を批判して喝采を浴びる、いまでもよく見かける戦法をとって有権者の心をつかみ、きっちりとこの戦いを乗り切って、100万票以上を獲得して全国区4位当選。直木賞受賞者にして国会議員、という前代未聞の道をきりひらきます。……いやいや、芥川賞のほうはその3倍近い票が石原慎太郎に入ったじゃないか、やっぱり芥と比べたら直っていつもパッとしないんだな、というボヤキは、このさい封印しておきましょう。

続きを読む "昭和43年/1968年・公職選挙法違反に問われ、起訴猶予になった今東光。"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月 9日 (日)

昭和38年/1963年・盗用だと言われたことに怒って、名誉棄損だと訴えた三好徹。

黒沢プロの映画「天国と地獄」のシナリオのトリック部分を作家三好徹氏が推理小説「乾いた季節」のなかで盗用している―と同プロと東宝が十九日発表したことについて同氏は二十一日午後「誤解もはなはだしい。盗作をいわれることは作家としての生命が奪われることにひとしい」と東京地検に同プロ側を名誉棄損で告訴した。

――『読売新聞』昭和38年/1963年2月22日「三好氏、名誉棄損で告訴」より

 人はさまざまな理由によって怒りを感じます。たとえば、自分が考え出したストーリーなりアイデアなりが、知らないところで他人に使われていたとしたら……自分の大事なものが盗まれた気分になる。そんなときに発生する怒りもあります。

 当事者だけにかぎりません。アイデア盗用が疑われる案件を目にしたアカの他人が、パクリだ何だと声高に騒ぎ立てて面白がる光景は、いまも日常的に展開されています。どうやらそういう種類の怒りは、多くの人間に通用する感情のようです。

 怒りを持つぐらいであれば、実害は少ないですし、周囲をまきこんだ炎上、という程度で済むかもしれません。済まないかもしれません。事情は案件ごとに違うでしょうけど、怒りと怒りがぶつかり合って法廷に訴えを持ち込み、持ち込まれた結果、2年間にわたって裁判で争った直木賞受賞者がいます。三好徹さんです。

 いまから50年以上前のことです。昭和38年/1963年2月から昭和40年/1965年2月。三好さんが『風塵地帯』ではじめて直木賞の候補に挙がったのが昭和41年/1966年下半期のことですから、それより少し前、新進の推理作家として売り出していた矢先のころでした。

 三好さんの作家デビューはさらにさかのぼります。昭和34年/1959年、文學界新人賞に「遠い声」を応募して佳作に入り、純文学でやっていくかと思いきや、まもなく推理小説の『光と影』(光文社/カッパ・ノベルス)を上梓します。これが昭和35年/1960年11月のことです。

 当時、読売新聞の社員として『週刊読売』編集部に籍を置きながら、小説を書く意欲を急激に燃やし、昭和36年/1961年になると、5月に『炎の街』(雪華社)、11月に『死んだ時代』(光風社)とたてつづけに刊行。そんなさなかの10月に、河出書房新社から何か作品をお願いできないかと打診され、頭にあったプロットやトリックをまとめたうえで、12月ごろに編集担当に話したところ、ほほう、それは面白そうですねと話がまとまって、さっそく原稿にとりかかります。途中で病気になったために少し遅れたものの、翌昭和37年/1962年7月になって脱稿したのが『乾いた季節』の一作です。

 いっぽうその頃、新たな映画制作にとりかかっていた黒沢プロでは、黒沢明さんが読んだエド・マクベイン『キングの身代金』(昭和35年/1960年8月・早川書房/ハヤカワポケットミステリ)を下敷きにして、舞台を現代の日本に置き換えて脚本をつくる作業が、黒沢・菊島隆三・小国英雄・久板栄二郎の4人のあいだで進みます。なかに身代金受け渡しの場面が出てくるけど、さあこれをどうしようかと悩むうちに、特急電車のトイレの窓から金を投げ落とさせるというアイデアが生まれ、昭和37年/1962年1月ごろに国鉄から資料を入手。それをもとにシナリオを仕上げた結果、同4月5日には『天国と地獄』第一稿のシナリオが90部印刷されて報道関係者に配られ、4月30日には、さらに650部がマスコミ関係者たちの手に渡った、ということです。

 三好さんが当初の予定どおり、春の脱稿を死守していれば、その後の展開も変わったかもしれませんが、先に書いたとおり少し完成が遅れ、7月に版元の手に渡ります。さらに、刊行形態について社内で検討するのに少し時間がかかって、同年12月に《Kawade Paperbacks》の20冊目の作品として出版されました。

 すると、昭和38年/1963年2月5日、菊島隆三さんが市川崑さんと話しているうち、『天国と地獄』に似た場面が、この小説で描かれているらしいぞ、とわかったものですから、黒沢プロ・東宝側で調べてみたところ、たしかにあまりにも似すぎている! ということになります。またその間、2月14日にフジテレビで放送された『少年探偵団・地獄の仮面』にも「外から電話で指示して電車のなかから身代金を落とさせる」という場面があったことが判明したものですから、さあ大変です。

 映画制作サイドでは、三好さんと、『少年探偵団・地獄の仮面』の脚本を担当した内田弘三さんに対して、アイデア盗用だと抗議しようと話し合いを進めますが、東宝の宣伝部や文芸部に出入りしていた新聞記者たちに、その話が伝わってしまい、正式な抗議を待たずに、朝日・毎日・読売が各紙そろって報道したのが2月20日朝のこと。これによって騒動の幕が切って落とされました。

 ……といった経緯やその後の展開については、栗原裕一郎さんの『〈盗作〉の文学史 市場・メディア・著作権』(平成20年/2008年6月・新曜社刊)に取り上げられています。同書を読めば十分でしょう。仮にアイデアの盗用があったとしても、それを法的に著作権侵害だと確定させるのは相当に難しく、道義的に許せない怒りの気持ちと、何かの罪に問う話とは、おおむね別の問題のようです。

 しかし、この騒ぎは表沙汰になって早々に裁判へと発展していってしまうのです。のちに「聖少女」という、家庭裁判所の話を書いて直木賞を受賞する三好さんが、この段階で自ら裁判を経験した、という点に思わず身を乗り出さない直木賞ファンなど、果たしているのでしょうか。

続きを読む "昭和38年/1963年・盗用だと言われたことに怒って、名誉棄損だと訴えた三好徹。"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2018年9月 2日 (日)

大正3年/1914年ごろ・業務上横領罪で監獄に入ったと語る橘外男。

「判決を、いい渡す」

と裁判長が、視線をくれる。

「被告を、懲役一年半に処す」

(引用者中略)

一審服罪と決めたから、それから二週間ばかりの時を隔てて、控訴期限が切れると同時に、私の刑は確定した。業務上横領罪、一年半の懲役囚として、いよいよ札幌市外扇池にある、札幌監獄へ移送されることになったのであった(引用者後略)

――昭和35年/1960年2月・中央公論社刊、橘外男著『ある小説家の思い出』より

 この世で最も愚かな行為とは何か。それは、橘外男の経歴・履歴をあたかも事実という前提で語ることだ。と、これまで評論家や研究者など、数多くの先人たちが書いていたような気がします。たしかにそうだと思います。

 自分には前科がある、という内容の作品で知られた直木賞受賞者とくれば、「犯罪でたどる」というテーマには恰好の対象でしょう。しかし、この人に関することは、だいたい虚実が判然としません。思い切って無視してしまおうか。とも考えたんですが、やはり素通りするのは難しそうです。今週は、橘さんの告白した犯罪について触れることにします。

 橘さんが中学(旧制)で問題行動を起こした挙句、厳格な父親から勘当を言い渡され、親戚がいるということで預けられた札幌の地で、一人の若い芸者屋のおかみと出会い、いろいろあったのち、札幌を去る。……というストーリーは、いくつかの橘外男作品に描かれている、自伝的な要素です。その「いろいろ」のなかに、自身思い出したくもないと語った犯罪および服役が含まれているわけですが、一部のことはじっさいに橘さんの身に起こったことで、一部はつくり話、と見られています。

 作家が書いたものをいちいち事実だと信用するわけにはいかない、というのは正論に違いありません。ただ、そこで納得していてもラチが明きません。いちおうここでは、橘さんの青春時代までを別の人が実話ふうに仕立てた「小説 橘外男」(『妖奇』昭和27年/1952年5月号 並木行夫)と、橘さんが公に発表するつもりで書いたわけではない、和田謹吾さんに宛てた昭和29年/1954年の私信(『原始林』昭和37年/1962年8月号、9月号掲載、昭和40年/1965年・北書房刊『風土のなかの文学』所収)、この2つを軸に見てみることにします。

 まずは両親を怒らせ、匙を投げられるにいたった中学時代のことですが、退役軍人の父親、橘七三郎さんの地元、群馬県高崎市にあった高崎中学に入り、そこで教師と対立して退校。それから地元を離れ、東京の成城中学の寄宿舎に入れられて、同校に通いますが、やはり長続きしません。つづいて群馬に戻され、沼田中学で学ぶことになったものの、ここでも問題を起こした結果、放校。と、並木さんの「小説 橘外男」では3つの学校が紹介されています。橘さんが直木賞をとる前、『文藝春秋』昭和12年/1937年5月号に発表した「春の目覚め」では、「N町」の中学に通う自画像が描かれていますが、あるいはこれは沼田中がモデルかもしれません。

 ほとほと困った両親が、なかば追い出すかっこうで橘さんを預けた先が、札幌の鉄道院に勤めていたという叔父です。たいてい「叔父」と表現されていますが、これは「男色物語」(昭和27年/1952年10月号~12月号)にもあるように、母にとって唯ひとりの甥、つまり橘さんから見ると「従兄」というのが正しい続柄だそうです(和田謹吾宛の私信)。名前は山口金太郎(「小説 橘外男」)。

 この山口さんというのは、もちろん正真正銘、実在の人物で、元福井藩士の士族山口平三郎さんの長男として明治5年/1872年5月に生まれた、と言いますから、橘さんとは22歳離れており、そういう年齢差もあって「オジさん」と呼んでいたらしいです。東京帝大工科大学を卒業後、日本鉄道株式会社に入社したのち、明治40年/1907年に帝国鉄道庁へと移った人で、橘さんを引き取った当時は、北海道鉄道管理局の札幌工場長の職にあったのだとか。その後、九州の小倉工場に異動、あるいはニューヨークに派遣されたりしたあと、大正11年/1926年に民間の日本車輌製造へと転じ、名古屋商工会議所議員などを務めた、という記録を確認することができます。前述の「春の目覚め」では、「坂口」という姓で出てきます。

 オジさんの世話によって札幌工場の最下級の乙種雇人になりますが、なにしろ安月給で、しかもオジ家族からは冷淡に扱われる始末。ヤサぐれた気分がおさまらず、手を染めることになったのが、街をうろついて恐喝まがいに金を巻き上げる追いはぎの類でした。いよいよ不良青年ここに極まれり、というところにまで落ち込んだ矢先に、とある年上の女性に出会います。金を奪おうと近づいたところ、逆に叱責され、こんなことしていては駄目じゃないのと諭されたことが、橘さんの心に重く響いたらしく、後年その芸妓屋の年若い女将は、橘作品のいくつかに描かれることになります。

 といいますか、並木さんの「小説 橘外男」などは、そのエピソードが物語の中心です。「桃千代」と名乗る彼女に対して、不良青年・外男は、恋愛感情といったものは持ちようがなかったが、札幌を離れてもずっと、その面影は忘れがたく、自分を厭世の底から救ってくれた第一の恩人として、常に心のなかにあった……ということです。

 その後に橘さん自身が書く「若かりし時」(初出『旅』昭和28年/1953年8月号~昭和29年/1954年1月号「青春の尊かりし頃」+「わが青春の遍歴」、昭和29年/1954年1月・駿河台書房刊『現代ユーモア文学全集 橘外男集』に収録)、あるいは『ある小説家の思い出』などの、一部の基本的なストーリーは、まさしくこれです。

続きを読む "大正3年/1914年ごろ・業務上横領罪で監獄に入ったと語る橘外男。"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年8月 | トップページ | 2018年10月 »