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2018年9月 9日 (日)

昭和38年/1963年・盗用だと言われたことに怒って、名誉棄損だと訴えた三好徹。

黒沢プロの映画「天国と地獄」のシナリオのトリック部分を作家三好徹氏が推理小説「乾いた季節」のなかで盗用している―と同プロと東宝が十九日発表したことについて同氏は二十一日午後「誤解もはなはだしい。盗作をいわれることは作家としての生命が奪われることにひとしい」と東京地検に同プロ側を名誉棄損で告訴した。

――『読売新聞』昭和38年/1963年2月22日「三好氏、名誉棄損で告訴」より

 人はさまざまな理由によって怒りを感じます。たとえば、自分が考え出したストーリーなりアイデアなりが、知らないところで他人に使われていたとしたら……自分の大事なものが盗まれた気分になる。そんなときに発生する怒りもあります。

 当事者だけにかぎりません。アイデア盗用が疑われる案件を目にしたアカの他人が、パクリだ何だと声高に騒ぎ立てて面白がる光景は、いまも日常的に展開されています。どうやらそういう種類の怒りは、多くの人間に通用する感情のようです。

 怒りを持つぐらいであれば、実害は少ないですし、周囲をまきこんだ炎上、という程度で済むかもしれません。済まないかもしれません。事情は案件ごとに違うでしょうけど、怒りと怒りがぶつかり合って法廷に訴えを持ち込み、持ち込まれた結果、2年間にわたって裁判で争った直木賞受賞者がいます。三好徹さんです。

 いまから50年以上前のことです。昭和38年/1963年2月から昭和40年/1965年2月。三好さんが『風塵地帯』ではじめて直木賞の候補に挙がったのが昭和41年/1966年下半期のことですから、それより少し前、新進の推理作家として売り出していた矢先のころでした。

 三好さんの作家デビューはさらにさかのぼります。昭和34年/1959年、文學界新人賞に「遠い声」を応募して佳作に入り、純文学でやっていくかと思いきや、まもなく推理小説の『光と影』(光文社/カッパ・ノベルス)を上梓します。これが昭和35年/1960年11月のことです。

 当時、読売新聞の社員として『週刊読売』編集部に籍を置きながら、小説を書く意欲を急激に燃やし、昭和36年/1961年になると、5月に『炎の街』(雪華社)、11月に『死んだ時代』(光風社)とたてつづけに刊行。そんなさなかの10月に、河出書房新社から何か作品をお願いできないかと打診され、頭にあったプロットやトリックをまとめたうえで、12月ごろに編集担当に話したところ、ほほう、それは面白そうですねと話がまとまって、さっそく原稿にとりかかります。途中で病気になったために少し遅れたものの、翌昭和37年/1962年7月になって脱稿したのが『乾いた季節』の一作です。

 いっぽうその頃、新たな映画制作にとりかかっていた黒沢プロでは、黒沢明さんが読んだエド・マクベイン『キングの身代金』(昭和35年/1960年8月・早川書房/ハヤカワポケットミステリ)を下敷きにして、舞台を現代の日本に置き換えて脚本をつくる作業が、黒沢・菊島隆三・小国英雄・久板栄二郎の4人のあいだで進みます。なかに身代金受け渡しの場面が出てくるけど、さあこれをどうしようかと悩むうちに、特急電車のトイレの窓から金を投げ落とさせるというアイデアが生まれ、昭和37年/1962年1月ごろに国鉄から資料を入手。それをもとにシナリオを仕上げた結果、同4月5日には『天国と地獄』第一稿のシナリオが90部印刷されて報道関係者に配られ、4月30日には、さらに650部がマスコミ関係者たちの手に渡った、ということです。

 三好さんが当初の予定どおり、春の脱稿を死守していれば、その後の展開も変わったかもしれませんが、先に書いたとおり少し完成が遅れ、7月に版元の手に渡ります。さらに、刊行形態について社内で検討するのに少し時間がかかって、同年12月に《Kawade Paperbacks》の20冊目の作品として出版されました。

 すると、昭和38年/1963年2月5日、菊島隆三さんが市川崑さんと話しているうち、『天国と地獄』に似た場面が、この小説で描かれているらしいぞ、とわかったものですから、黒沢プロ・東宝側で調べてみたところ、たしかにあまりにも似すぎている! ということになります。またその間、2月14日にフジテレビで放送された『少年探偵団・地獄の仮面』にも「外から電話で指示して電車のなかから身代金を落とさせる」という場面があったことが判明したものですから、さあ大変です。

 映画制作サイドでは、三好さんと、『少年探偵団・地獄の仮面』の脚本を担当した内田弘三さんに対して、アイデア盗用だと抗議しようと話し合いを進めますが、東宝の宣伝部や文芸部に出入りしていた新聞記者たちに、その話が伝わってしまい、正式な抗議を待たずに、朝日・毎日・読売が各紙そろって報道したのが2月20日朝のこと。これによって騒動の幕が切って落とされました。

 ……といった経緯やその後の展開については、栗原裕一郎さんの『〈盗作〉の文学史 市場・メディア・著作権』(平成20年/2008年6月・新曜社刊)に取り上げられています。同書を読めば十分でしょう。仮にアイデアの盗用があったとしても、それを法的に著作権侵害だと確定させるのは相当に難しく、道義的に許せない怒りの気持ちと、何かの罪に問う話とは、おおむね別の問題のようです。

 しかし、この騒ぎは表沙汰になって早々に裁判へと発展していってしまうのです。のちに「聖少女」という、家庭裁判所の話を書いて直木賞を受賞する三好さんが、この段階で自ら裁判を経験した、という点に思わず身を乗り出さない直木賞ファンなど、果たしているのでしょうか。

          ○

 このとき新聞報道を受けて、先に動いたのは三好さんのほうでした。『乾いた季節』に対する抗議を検討中として報じられた、東宝の藤本真澄さんと黒沢プロの菊島隆三さんを相手に、そんな事実無根の話を一方的に発表するのは名誉棄損だ、と告訴したのです。それとは別に、テレビ作家の内田さんも、同様の内容で提訴。こうなってしまったら抗議も何もないと、訴えられた東宝・黒沢プロ側のほうでも追って著作権侵害での告訴に踏み切ります。

 三好さんの怒りは相当なものでした。2年後、当事者が遺憾の意を表する、というかたちで和解が成立したあとも、腹が立って仕方がないと書かずにはいらなれなかったほどに(『文芸』昭和40年/1965年5月号「裁判」)、盗作者扱いされたことに激怒しました。

 パクる可能性から言えば、映画制作サイドにだってあったわけで、現に文芸家協会の理事会でも、ほんとうは黒沢プロのほうが盗用したんじゃないか、という意見が出たといいますし、よほどの証拠があるならともかく、「自分たちが苦心して考え出したアイデアを、別の人が考えつくなんて、あり得ない。だからきっと盗用だ」などと主張されたら、三好さんだってムカッとするでしょう。映画制作側の「思い上がり」、という中島河太郎さんのコメント(『週刊読売』昭和38年/1963年3月10日号「推理作家対黒沢一家の“アイデア盗用”紛争」)が、あるいは的を射ていたかもしれません。

 ともかくも、両者(いや三好さん、内田さん、映画制作側の三者)、事前に何の話し合いもなく、新聞報道によっていきなり対決姿勢になだれ込んだかっこうですが、ここで注目したいのは、三好さんの行動です。

 前もって朝日新聞の社会部から電話取材を受けたときは、盗用なんてやりようがないことを、執筆時期をまじえて説明、それで記者も納得しただろうと甘く考えていたところに、一斉に各紙に書き立てられたのが、前述したように2月20日水曜日のことでした。

 このときのことを、三好さんはこう回想します。

「私は荒れ狂う感情を制禦しながらも、その日一日をじっと待った。各新聞とも、その日に東宝が私あてに抗議すると伝えていたから、その使いのものがきたら事情をきき、逆にこちらで抗議しようと考えたからである。しかし、抗議はついにこなかった。私は翌日の午後、日本文芸家協会へ行き、事情調査の上適当な処置をお願いしたいと提訴した(引用者中略)。さらにその足で、私は記事のもとになった前記二氏(引用者注:藤本真澄と菊島隆三)を東京地検へ名誉毀損で告訴した。その後、私は自力で自分の名誉を回復する必要を感じて、こんどは東京地裁の民事部へ、損害賠償の請求と謝罪広告の要求などの訴訟を起こした。」(『文芸』昭和40年/1965年5月号 三好徹「裁判」より)

 まずは東宝側の出方を待ったが、動きがないと判断して、21日に提訴に歩き回った、というわけです。逆に言うと、記事になってから1日しか待たず、翌日には即座に反撃の行動に移った、とも見ることができます。以前より新聞記者として警察や裁判所に出入りし、数々の事件を取材してきた経験があるとはいえ、なかなか真似のできることではありません。

 この行動力といいますか、処置の早さ、即断即決の思いきりのよさ。かねがね三好さんが、自分は新聞記者として優秀だと思う、と自負してきたのもうなずけます。

 行動に移すスピードだけではありません。ここに同時に見られるのは、撃たれたらすぐに撃ち返すという、血の気の多さです。もしくは、負けん気の強さです。

 振り返ってみると、三好さんはなぜ小説を書きはじめたのか。きっかけは同じ職場の先輩、菊村到さんの芥川賞受賞に刺激を受けたから、と語っています。なぜ推理小説を書くようになったのか。それは、先に推理作家としてデビューしていた同じ職場の佐野洋さんに、「推理小説ぐらいなら俺も書ける」と口を滑らせたところ、「いやそんなに簡単に書けるもんじゃない」と反論されたからです。こう言われると逆に燃えてしまう。発奮するだけで終わらず実行に移してしまう。三好さんのそんな性格が、おのずと垣間見えます。

 自尊心、反撥心、そして行動力。これが三好さんになければ、仮に勇み足で報道されても、東宝・黒沢プロとの話し合いの場を設けて、彼らのほうの勘違いだったということを理解させ、謝罪を引き出すという方法で、自身の名誉回復を画策したかもしれません。この一件が、訴訟というかたちになって「犯罪事件」の風味を帯びたのは、やはり三好さんの個性に負うところが、多分にあったものと思います。

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コメント

中島河太郎の長男ですが、葉書を整理していましたら三好徹さんの物があり「週刊読売誌上で東宝に対し、小生の口からは云いたくても云えぬことを述べて頂き、本当にありがたいと思いました。」とありました。
私は知らなかったので今回調べたところこのブログで内容を知りました。

投稿: 中嶋淑人 | 2021年9月20日 (月) 14時46分

中嶋淑人さん、貴重なコメントをいただき、ありがとうございます。

おおーっ、あの中島河太郎さんのコメントに、三好さんが反応していたとは!
「盗用した」と言い張られて、身に覚えのない人にとっては、
たしかに中島さんの意見はありがたいし、心強かったのだろうなと推察します。

そのときの葉書が、きちんと保存されている、というのがまた感動です。
教えていただき、ありがとうございました。

投稿: P.L.B. | 2021年9月21日 (火) 00時35分

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