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2018年9月 2日 (日)

大正3年/1914年ごろ・業務上横領罪で監獄に入ったと語る橘外男。

「判決を、いい渡す」

と裁判長が、視線をくれる。

「被告を、懲役一年半に処す」

(引用者中略)

一審服罪と決めたから、それから二週間ばかりの時を隔てて、控訴期限が切れると同時に、私の刑は確定した。業務上横領罪、一年半の懲役囚として、いよいよ札幌市外扇池にある、札幌監獄へ移送されることになったのであった(引用者後略)

――昭和35年/1960年2月・中央公論社刊、橘外男著『ある小説家の思い出』より

 この世で最も愚かな行為とは何か。それは、橘外男の経歴・履歴をあたかも事実という前提で語ることだ。と、これまで評論家や研究者など、数多くの先人たちが書いていたような気がします。たしかにそうだと思います。

 自分には前科がある、という内容の作品で知られた直木賞受賞者とくれば、「犯罪でたどる」というテーマには恰好の対象でしょう。しかし、この人に関することは、だいたい虚実が判然としません。思い切って無視してしまおうか。とも考えたんですが、やはり素通りするのは難しそうです。今週は、橘さんの告白した犯罪について触れることにします。

 橘さんが中学(旧制)で問題行動を起こした挙句、厳格な父親から勘当を言い渡され、親戚がいるということで預けられた札幌の地で、一人の若い芸者屋のおかみと出会い、いろいろあったのち、札幌を去る。……というストーリーは、いくつかの橘外男作品に描かれている、自伝的な要素です。その「いろいろ」のなかに、自身思い出したくもないと語った犯罪および服役が含まれているわけですが、一部のことはじっさいに橘さんの身に起こったことで、一部はつくり話、と見られています。

 作家が書いたものをいちいち事実だと信用するわけにはいかない、というのは正論に違いありません。ただ、そこで納得していてもラチが明きません。いちおうここでは、橘さんの青春時代までを別の人が実話ふうに仕立てた「小説 橘外男」(『妖奇』昭和27年/1952年5月号 並木行夫)と、橘さんが公に発表するつもりで書いたわけではない、和田謹吾さんに宛てた昭和29年/1954年の私信(『原始林』昭和37年/1962年8月号、9月号掲載、昭和40年/1965年・北書房刊『風土のなかの文学』所収)、この2つを軸に見てみることにします。

 まずは両親を怒らせ、匙を投げられるにいたった中学時代のことですが、退役軍人の父親、橘七三郎さんの地元、群馬県高崎市にあった高崎中学に入り、そこで教師と対立して退校。それから地元を離れ、東京の成城中学の寄宿舎に入れられて、同校に通いますが、やはり長続きしません。つづいて群馬に戻され、沼田中学で学ぶことになったものの、ここでも問題を起こした結果、放校。と、並木さんの「小説 橘外男」では3つの学校が紹介されています。橘さんが直木賞をとる前、『文藝春秋』昭和12年/1937年5月号に発表した「春の目覚め」では、「N町」の中学に通う自画像が描かれていますが、あるいはこれは沼田中がモデルかもしれません。

 ほとほと困った両親が、なかば追い出すかっこうで橘さんを預けた先が、札幌の鉄道院に勤めていたという叔父です。たいてい「叔父」と表現されていますが、これは「男色物語」(昭和27年/1952年10月号~12月号)にもあるように、母にとって唯ひとりの甥、つまり橘さんから見ると「従兄」というのが正しい続柄だそうです(和田謹吾宛の私信)。名前は山口金太郎(「小説 橘外男」)。

 この山口さんというのは、もちろん正真正銘、実在の人物で、元福井藩士の士族山口平三郎さんの長男として明治5年/1872年5月に生まれた、と言いますから、橘さんとは22歳離れており、そういう年齢差もあって「オジさん」と呼んでいたらしいです。東京帝大工科大学を卒業後、日本鉄道株式会社に入社したのち、明治40年/1907年に帝国鉄道庁へと移った人で、橘さんを引き取った当時は、北海道鉄道管理局の札幌工場長の職にあったのだとか。その後、九州の小倉工場に異動、あるいはニューヨークに派遣されたりしたあと、大正11年/1926年に民間の日本車輌製造へと転じ、名古屋商工会議所議員などを務めた、という記録を確認することができます。前述の「春の目覚め」では、「坂口」という姓で出てきます。

 オジさんの世話によって札幌工場の最下級の乙種雇人になりますが、なにしろ安月給で、しかもオジ家族からは冷淡に扱われる始末。ヤサぐれた気分がおさまらず、手を染めることになったのが、街をうろついて恐喝まがいに金を巻き上げる追いはぎの類でした。いよいよ不良青年ここに極まれり、というところにまで落ち込んだ矢先に、とある年上の女性に出会います。金を奪おうと近づいたところ、逆に叱責され、こんなことしていては駄目じゃないのと諭されたことが、橘さんの心に重く響いたらしく、後年その芸妓屋の年若い女将は、橘作品のいくつかに描かれることになります。

 といいますか、並木さんの「小説 橘外男」などは、そのエピソードが物語の中心です。「桃千代」と名乗る彼女に対して、不良青年・外男は、恋愛感情といったものは持ちようがなかったが、札幌を離れてもずっと、その面影は忘れがたく、自分を厭世の底から救ってくれた第一の恩人として、常に心のなかにあった……ということです。

 その後に橘さん自身が書く「若かりし時」(初出『旅』昭和28年/1953年8月号~昭和29年/1954年1月号「青春の尊かりし頃」+「わが青春の遍歴」、昭和29年/1954年1月・駿河台書房刊『現代ユーモア文学全集 橘外男集』に収録)、あるいは『ある小説家の思い出』などの、一部の基本的なストーリーは、まさしくこれです。

          ○

 基本的なストーリー、と言いました。

 骨組みはいっしょですが、「若かりし時」そして「ある小説家の思い出」と進むにつれて、橘さんお得意の、といいますか、これがなきゃ橘作品ではない、ときっと誰もが思う、例のクドクドしい文体を駆使した細かいエピソードが、幾重にも付け加わっていきます。

 たとえばそのひとつが、救ってくれた女性のもとに通ううちに勉強のために部屋を与えられ、同じ屋根の下に住みはじめたこと。あるいは、勤めていた鉄道院で登用試験に受かり、やがて経理の係にまでなった「私」が公金を着服、警察につかまる間際に、その女性の負った債務の返済に当ててほしいと大金を渡したこと。などなどがありますが、前者については、真実ではないという橘さんの告白が残っています。

(引用者注:大正11年/1922年、大正12年/1923年に出版した『太陽の沈みゆく時』について)内容は全部ウソです。私は、自分がこんな美しい人と、こんなことがあったら、さぞ詩のやうに美しからうと思つてゐた当時の私の夢を、書いたのですから、甘くてセンチメンタルで、お話になりません。現実の私は、札幌でそんな詩のやうな美しい生活を、送つたのではありません。しかし、芸妓に救はれて同棲したと、ユーモア全集に書きましたが(引用者注:「若かりし時」のこと)、これも真実ではありません。真実は、とも角困つた不良だつたのです。」(『原始林』昭和37年/1962年8月号 和田謹吾「風土のなかの文学8 橘外男資料(I)」より)

 いや、これだってどこまで本当のことを書いているのやら……と疑いだせばキリがありません。何ひとつ確定的なことなどない、と言うしかないのでしょう。

 しかしさすがに、警察に捕まって1年半の実刑判決を受け、だいたい1年足らずで仮釈放となった、という体験そのものは、ウソではないはずです。物語をウソで固めて原稿料を稼ぐのは、力量ある小説家の証しですし、何の問題もありませんが、もし収監されたことがないのに、体験者として対談とか座談会に出て謝礼をせしめていたら、それはもはや詐欺罪です。

 直木賞の受賞が43歳のとき、昭和13年/1938年ですから、大正3年/1914年ごろと思われる逮捕と入獄から、20年以上が経っていました。それ以降もえんえんと、自分の前科を隠しつづけたところに、犯罪者に対する社会や世間の目の厳しさを、強烈に味わった20代のころの、実体験の重さがしのばれますが、何といっても橘さんの凄みは、隠したままでいられたはずのその事実を、60歳になって『私は前科者である』で語り、さらには『ある小説家の思い出』で、犯罪にいたるまでの経緯、犯行の一部始終、逮捕、裁判、監獄生活を、一気に小説の題材にしてみせたところにあります。

 それが橘さんの最後の作品になったのは、偶然のなせる業かもしれません。ほんとはもっと長生きして、満洲での秘めた記憶や過去なども、ことごとく吐き出してもらいたかった、と思ういっぽうで、「犯罪体験」という一本の軸をもつ作家になった橘さんを、再デビュー直後の昭和13年/1938年の段階で直木賞が選ぶことのできた幸運を、直木賞ファンとしてよくよく噛みしめたいところです。犯罪と直木賞。べつに因果関係はありませんが、決して遠いものでもありません。

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