昭和10年/1935年・日本無政府共産党事件で、何度目かの留置所入りとなった菊岡久利。
目白の高田農商銀行ギヤング事件が神戸で逮捕されたアナ系の相澤尚夫(二八)の指導下に行はれ、しかも一味の間に重大な陰謀計畫が進められてゐることがわかつたので警視廳特高課では十一夜來俄然緊張、全課員及び各署特高係をそれぞれ待機せしめたうへ十二日拂曉を期しアナ系分子の大檢擧を開始(引用者中略)このアナ系大檢擧によつて大杉榮の死後漸次沒落の過程をたどりつゝあつた無政府主義者がフアツシヨ非常時下にもぐつて從來の理想的觀念論を揚棄して極左及び極右の組織的行動の長所を取入れ一切の權力を否定する建設的テロリズムによる暴力革命を決行するためにすでに昨年六月「日本無政府共産黨」を結成して暗躍してゐた怖るべき全貌が暴露された
――『読売新聞』昭和10年/1935年11月13日夕刊「暴力革命を企らむ “無政府共産黨”の全貌 五十三名打盡さる」より
直木賞の特徴のひとつに「歴史の長さ」が挙げられます。そのため、しょうもない作品が受賞作に選ばれても、伝統ある賞、というイメージのおかげで、何かエラいもののように感じる人が後を絶たないという、得がたい効果が発生するわけですが、昭和10年/1935年から80余年も続いているので、候補に挙がった人数も優に500人以上。当然それぞれに違った人生があり、彼らの小説を読むという行為とはまた別に、さまざまな候補者の来歴を知ろうとする楽しみも、直木賞を見るときの面白さにつながっています。
なにしろ直木賞が始まったのは、昭和の初期です。ということで、ある程度の時代まで、候補者のなかには政治思想を理由に警察に検挙されたことのある作家が、何人か見受けられます。いまとなっては、とうてい犯罪者の枠には入りませんけど、国家権力や社会の仕組みに反旗をひるがえすことで辛酸をなめた人が、候補者として重要な歴史を刻んでいるのも、長く続けられている直木賞の一側面でしょう。
第21回(戦後~昭和24年/1949年・上半期)、混乱とゴタゴタのなかで行われた戦後復活1回目の直木賞に、候補として名前の挙がったひとりが、菊岡久利さんです。候補作は「怖るべき子供たち」。これのどこが大衆文芸なのか、さっぱりわかりませんが、とりあえず直木賞を運営する日比谷出版社の『文藝讀物』に掲載された作品だから候補になったんだろうとしか思えない、この図式からして伝統的な直木賞の姿を垣間見せる、なかなか唐突で面白い候補選出だったと思います。
たどってみると菊岡さんの履歴は、もし彼が女性だったらいまごろ桐野夏生さんあたりが小説化していてもおかしくないぐらいに波乱に富んでいる、と言ってもいいものですが、昭和20年/1945年に日本の政治情勢がガラリと変わるまでは、年がら年じゅう留置所に入れられていたそうです。
平成21年/2009年に青森県近代文学館の館長として「生誕一〇〇年 菊岡久利の世界」展を企画した黒岩恭介さんの『綺想の風土あおもり』(平成27年/2015年5月・水声社刊)によると、菊岡さんは大正15年/1926年、17歳のときに秋田県で小坂鉱山煙害賠償労働争議に参加。このころからすでに、社会的に弱い立場にある人たちへの思い入れがすさまじく、社会問題への関心を深めるとともに、思索的のみならず行動的でもあった菊岡さんは、この年、『小樽毎日新聞』に古田大次郎さんの原稿を載せた科でしょっぴかれ、留置されてしまいます。
翌年、上京すると、石川三四郎さんのもとに拠り、鷹樹寿之介と名乗ってアナキズム運動に本格的に邁進。歯止めの効かない危ない奴、というか、誰の前に出ても決してひるまずに自分をさらす無鉄砲さが、あるいは通じたものか、文壇の作家たちにもけっこう可愛がられました。なかでも横光利一さんとはかなり相性がよかったらしく、菊岡さんは長く横光さんを敬愛し、また横光さんのほうも、ゆくゆくは小説を書いていきたいという菊岡さんに、それならと「菊岡久利」のペンネームを与えます。これは、菊池寛、岡鬼太郎、久米正雄、横光利一の4人の名前から一字ずつ取ったものだそうです。
ともかく10代の少年だった頃から40代に至るまで、本人によれば、留置所入りは30回、監獄入り3回を経験した(『新潮 別巻第一号 人生読本』昭和26年/1951年1月「文士ゆすり顛末記」)というのですから、ツワモノには違いありません。そのひとつひとつの詳細は、なかなか追いきれませんが、なかで最もマスコミを賑わせた事件というと、昭和10年/1935年秋、「黒色ギャング」と書き立てられた銀行襲撃からの、日本無政府共産党一斉検挙事件になるでしょう。
さかのぼること2年前、昭和8年/1933年12月はじめごろに、アナキストによる革命団体をつくる目的で集結した植村諦聞、相沢尚夫、入江汎、二見敏雄、寺尾実の5人が〈日本無政府共産主義者連盟〉を結成、翌昭和9年/1934年1月に〈日本無政府共産党〉と改称したこの組織の、大きな問題の一つは資金をどうやって調達するかだった、ということが、のちに相沢さんが回想した『日本無政府共産党』(昭和49年/1974年6月・海燕書房刊)で詳細に触れられています。しばらくは知り合いからの寄付金で、どうにか賄っていたものの、すぐに底をつく有り様。もうこれは、どこか金融機関を襲って奪い取るより他はない、という結論に達し、馬橋郵便局にするか、いや駒場郵便局にするかと物色するうちに、最終的に標的となったのが、目白に住む二見さんに土地勘のあった高田農商銀行です。昭和10年/1935年11月6日朝、二見さんと小林一信さんの二人で同銀行に赴き、脅迫のうえ金を奪取しようとしますが、結果は大失敗。これをきっかけに同党および、無政府共産主義者たちの一大検挙へと拡大していきます。
その後、官憲の目をかいくぐって逃げ回っていた二見さんも、12月24日、クリスマスイブの夜に銀座の街頭で特高に捕えられ、昭和14年/1939年5月8日の一審では死刑判決が下され、昭和15年/1940年2月8日東京控訴院の二審で無期懲役の判決を受けます。ただし、まもなく2月11日に、紀元2600年の恩赦によって懲役20年となり、刑務所暮らし。5年ほど経って、日本が降伏した直後の昭和20年/1945年10月4日、マッカーサーの政治犯釈放命令によって出獄したのが39歳のときで、すぐに政治運動に戻りますが、日本自治同盟が数年で解散したあとは主だった活動はなかったらしく、昭和42年/1967年に没しました。
その二見さんとかつて共同生活を営んでいたのが、友人の菊岡さんです。銀行襲撃の失敗で、警察の手から逃れようとする二見さんの、逃亡期間中の生活費の一部を、菊岡さんが出してあげていたとも言います。数百人に及んだと伝えられるこの一斉検挙の対象のひとりとして代々木署に留置され、一週間ぐらいで帰されたそうですが(『思想の科学』昭和40年/1965年11月号 秋山清「無政府共産党事件」)、しかし菊岡さんの履歴を見ると、処女詩集『貧時交』(第一書房刊)の出た昭和11年/1936年1月には、まだ勾留中の身だったとも言われていて、いつ入って、いつ出てきたのか、よくわかりません。
○
いつ入って、いつ出てきたのか。もはや判然としないぐらいに、留置所という空間が、菊岡さんにとってなじみ深い場所だったのは、たしかなようです。
たとえば昭和7年/1932年5月、当時、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に所属していた橋本英吉さんが、築地署に拘留されたときのことを回想する文章があります。そのなかに、築地署の管轄する銀座を根城としていた菊岡さんの姿が描かれていますが、はっきり言って、単なる検挙者の域を超えています。
「銀座の顔役で詩人だつた菊岡久利と、初めて会つたのも同じ(引用者注:築地署の)留置場であつた。(引用者中略)銀座は築地署の管轄であつたから、ここは彼のホーム・グラウンドの控え室で、看守も特別扱いにしていた。僕が入つたときには、彼は看守を手伝つて僕の持物検査をした。(引用者中略)菊岡も雑役だつたが、彼だけは普通の雑役より格が上で、掃除の時間になると「お前出て来い」と看守から鍵をかりて、自分の好きな男を房から呼びだして代理をさせるのだつた。
(引用者中略)
それから何ヵ月か経つて横光利一の応接間で、偶然、菊岡に会つた。僕が留置場の好意に礼を言うと、彼はその話題に触れたくないらしく話をそらした。その時に彼が詩人であること、久利というペン・ネームは横光利一の利の字をもらつたことなどを聞いた。彼が留置場の話を避ける様子から、顔役的な仕事から脱出して、詩人としての生活に転換しようとしているのだろうと僕は臆測した。」(『新潮』昭和43年/1968年12月号 橋本英吉「忘れ得ぬ人々」より)
このとき、菊岡さんは23歳ごろ。それでもう留置所では特別扱いされていた、というのですから、菊岡さんのヤバさがよくわかりますが、この頃から少しずつヤンチャなアナキスト青年の殻を脱ぎはじめ、詩人から劇作を手がけるあいだに、ごりごりの右翼系ナショナリストを経て、戦後、『文藝讀物』に小説を発表するに至るわけですけど、ここで題材に選んだのが、法律や大人の倫理に支配されない、〈不良っ子〉と呼ばれる、銀座を根城にした少年少女たちの奔放、純真、けなげな生態だった。というのが、菊岡さんの秀逸さです。
直木賞の選評では誰ひとり、この作品に触れることなく黙殺されています。受賞の芽はほとんどなかった、と考えていいと思いますが、菊岡さん自身の経てきた、個人の存在を最大限に尊重するには、多少は体制の仕組みに抗わざるを得ない葛藤が、当時の若者たちの姿を描くことによって小説化され、長い文学賞の歴史の一隅に残されたことは、素直に尊びたいところです。
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