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2018年8月の4件の記事

2018年8月26日 (日)

昭和58年/1983年・取材先で聞いた西東三鬼スパイ説をそのまま書いて敗訴した小堺昭三。

謝罪広告

著者小堺昭三、発行所株式会社ダイヤモンド社として刊行した小説「密告」九八頁中俳人故西東三鬼を「特高のスパイ」と断定し、それを前提として九九頁、一〇一頁、一〇二頁にこれを敷衍した文章は、事実に反し、故西東三鬼氏に対する世人の認識を誤らしめるものであり、そのために同氏の子息である貴殿の名誉を毀損致しました。

よって、ここに深く陳謝し、将来再びこのような行為をしないことを誓約致します。

小堺昭三

株式会社ダイヤモンド社

大阪府泉大津市(引用者中略)

斎藤直樹殿

――『毎日新聞』昭和58年/1983年4月30日「謝罪広告」より

 第44回(昭和35年/1960年下半期)の直木賞候補になった小堺昭三さんの「自分の中の他人」は、いかにも文学臭の強い、あまり面白みのない一篇ですが、その後の小堺さんといえば、まるでこの作品からは想像できない領域と言っていい、実在の人物を実名で描く、いわゆる実録物で活躍した作家です。

 そんな小堺さんが『文藝春秋』昭和53年/1978年12月号に「弾圧と密告者――『昭和俳句事件』の真相――」を発表するのと相前後して、同年末ごろに出版した『密告 昭和俳句弾圧事件』(昭和54年/1979年1月・ダイヤモンド社刊)という一冊があります。これもやはり、関係者への取材を重視した、小堺さんお得意の技を存分に感じさせる一作でしたが、発売されたとたん、俳壇界隈に騒ぎを巻き起こしてしまいます。昭和15年/1940年「京大俳句」に所属する何人もが、治安維持法違反で検挙されたという新興俳句弾圧事件。そのとき同じ仲間だったはずの西東三鬼さんが、特高警察のスパイとして動いていた、と断定して書かれていたからです。

 『密告』は、国家権力が難癖をつけながら市民の言論を封じ込めようとする時代背景のなか、実力ではなく権力側に取り入って俳壇でのし上がろうとした小野蕪子さんに照準を合わせ、こういう社会は再現してほしくないという小堺さんの危機感を込めた、ノンフィクションとも小説とも、あるいは読み物とも言える作品です。西東さんに触れた部分はあまり多くありません。

 しかし、じつは「京大俳句」検挙の裏には、俳壇の情報を特高に教えたり、彼らの句のなかに天皇制反対・政府転覆に通じる考えで詠まれたものがあるという解釈を、警察に対して講義した内通者ないしは密告者がいたらしい、という噂があったことに触れる流れのなかで、西東三鬼もそのひとりだった、と紹介。昭和15年/1940年2月と同年5月、「京大俳句」グループの主要メンバーが身に覚えのないまま捕えられ、取り調べを受けるという名目で留置所に入れられてなお、しばらく泳がされて8月まで捕まらなかった西東さんは、その間に特高から協力を求められて、仕方なしにそれに応じたのだ、と小堺さんは書きました。

 何の証拠もない話です。臆測です。西東さんは昭和37年/1962年に没し、すでにこの世におらず、過去の俳壇史を見渡しても、いっしょに検挙された俳人、あるいは編集者、研究者、だれひとりとしてこの噂話を確定した人はいません。それなのにスパイだったと断定するのは事実を捏造していると言う他なく、死者への冒涜にあたり、また俳句に誠実に向き合っていた仲間思いの三鬼の名誉を不当に傷つけるものだ、と三鬼の遺族、もしくは三鬼を敬慕する同輩、後輩たちが声を上げ、何度か小堺さんとダイヤモンド社に抗議文を送ったのに突っぱねられたものですから、ついには提訴するに至ります。昭和55年/1980年7月のことです。

 この裁判の経緯や争点などは、大阪地裁堺支部で判決が出た直後の『俳句研究』昭和58年/1983年8月号「特集・西東三鬼の名誉回復」のなかで、充実した資料とともに紹介されており、三鬼スパイ説の撤回に向けた大勢の人たちの情熱ぶりを、よく汲み取ることができます。三鬼の次男、斎藤直樹さんの心情はわかるとしても、鈴木六林男さんをはじめとする俳句関係者たちの、ここまでムキになれるものかというほどの献身と闘争心には、若干の怖さも覚えるところです。

 そのなかで、「三鬼がそんなことをするはずがない」という感情論ばかり唱えるのではなく、推論や伝聞に過ぎないことを断定口調で物語に組み込んだ小堺さんの書き手としての態度を、一貫して問題視しつづけた川名大さんの研究者ダマシイに心洗われる思いですが、基本的に原告、斎藤さん側の全面勝訴となって、被告側は控訴せず、『朝日新聞』『毎日新聞』の朝刊に1回ずつ謝罪広告を出すことと、小堺さんとダイヤモンド社各自30万円の慰謝料および、起訴されて以降の年五分の割合による遅延損害金を支払うことを受け入れて決着しました。

 というところで、裁判周辺の話を読んでいると、三鬼がスパイだったなんてあり得ない、という原告側の主張のほうに分がある、と素人目にも思います。しかも裁判を起こされる前に、謝罪する機会は小堺さんの側にも十分与えられていました。いったい小堺さんはどこに勝算があると考えて裁判に臨んだのだろうか。疑問に思います。

 原告のほうも、やはりそれは謎だったらしく、人目をひく珍奇な説を採用することでことさら本の売り上げを狙った杜撰なルポライター、と小堺さんのことを評するに至っています。そう見るしか他に考えようがないくらい、小堺さんがほとんど納得のいく説明をすることができなかったからです。

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2018年8月19日 (日)

昭和62年/1987年・外為法違反で書類送検され起訴猶予になった、ココムへの密告者、熊谷独。

東芝機械のココム(対共産圏輸出統制委員会)違反事件で、東京地検は十九日、外為法違反で書類送検されていた同社工作機械事業部長(当時)ら幹部四人と、商談を持ちかけたソ連貿易商社「和光交易」(本社・東京)の取締役ソ連部長ら幹部三人の計七人を起訴猶予とした。同地検は理由について「東芝機械は逮捕した主犯の幹部二人をすでに起訴しており、和光交易は不正輸出に直接関与していなかった」としている。

――『毎日新聞』昭和62年/1987年6月20日「ココム違反の東芝機械幹部ら七人を起訴猶予」より

 国際情勢を背景にした小説というものがあります。一般的にも注目を浴びるジャンルですが、直木賞のなかでも、明らかに華のひとつです。

 「ナリン殿下への回想」「ローマ日本晴」「寛容」など戦前・戦中に発表されたものから、「香港」『ゴメスの名はゴメス』「蒼ざめた馬を見よ」『風塵地帯』、あるいは『喜望峰』『火神を盗め』『プラハからの道化たち』『元首の謀叛』『炎熱商人』『ぼくの小さな祖国』『カディスの赤い星』『脱出のパスポート』『海外特派員 消されたスクープ』『遠い海から来たCOO』『密約幻書』、近年でも『ジェノサイド』『ヨハネスブルグの天使たち』『アンタッチャブル』『暗幕のゲルニカ』などなど、もう枚挙にいとまがない、という手垢のついた常套句で逃げるしかないぐらい、たくさんの作品が候補に選ばれてきました。

 こう見ると、直木賞とは国際的な事象にも目を向けてきた賞だ。と表現したくなりますが、あまりに権威とか文壇ゴシップとか、そちらに光が当たりすぎて、ほとんどそういう評判は耳にしません。というか、山周賞も吉川新人賞も、その他エンタメ系文学賞の多くも、だいたい同じ程度に、世界的な政治状況を描いた小説を取り上げています。たしかに直木賞だけの特質ではありません。

 しかし、そのなかでも異質中の異質といえる、熊谷独さんのデビュー小説『最後の逃亡者』(平成5年/1993年11月・文藝春秋刊)を候補にしてしまう直木賞の、世間体を気にしない予選のありようは、さすがの大胆さでしょう。世の中、何が直木賞をとるのか気にする人は多くても、直木賞の候補に何が(だれが)選ばれるかに注視するのは、ごく少数です。文藝春秋がとってほしいと思う人を、どんどん候補にすればいいと思います。

 さて、熊谷さんですが、どこが異質なのか。いまから30年ほどまえ、国をあげて大騒ぎになった東芝機械のココム(対共産圏輸出統制委員会)違反事件というものがあり、この事件が明るみになるきっかけをつくった告発者として取り調べを受け、結果は起訴猶予とはなりましたが、犯罪行為スレスレどころか、その渦中に身を置いた対ソ貿易にくわしいビジネスマンです。デビューまで文学的履歴は皆無、エンタメ小説界にとっても、その存在そのものが爆弾のような、一種の不気味さ、凄みをもった候補者でした。

 熊谷さんは昭和60年/1985年、22年間務めた和光交易に自ら辞表を提出、退社します。妻ひとり息子ひとりの3人家族、49歳のときです。『モスクワよ、さらば ココム違反事件の背景』(昭和63年/1988年1月・文藝春秋刊)によれば、直接の引き金になったのは、この年の人事異動で自分の名前が昇進者リストになかったこと、と言いますが、モスクワ事務所で対ソ貿易に従事するあいだ、KGB(国家保安委員会)とのやりとりで発生する、理不尽な交渉、心理的に追いつめられる間接の脅迫、腹芸などにほとほと辟易して疲れ果て、これ以上、この仕事は続けられない、ということで退社を決意したそうです。

 この段階で、取引相手のKGBにも信頼され、まじめに社益を考えながら、しかし一方では、不正な取引を裏づける多くのデータや資料をしっかりと記録していた、というのが熊谷さんの恐ろしいところで、それまでソ連相手の商売をしてきた人なら当然知りながら誰も大っぴらにしなかったその実態を、熊谷が公開しようとしているらしい、と噂が流れ、退社してから元の会社から懐柔の声がかかったり、またソ連側からも引き合いの話が持ち込まれますが、熊谷さんはこれを拒否。次第に、これはやはり明るみにしたほうがいい、するべきだ、という考えを固めていき、通産省に話を持っていこうとしますが、相手にされず、思い切ってパリにあるココム本部宛てに、告発状を送ったのが昭和60年/1985年12月のことです。

 ここからの日本政府、官僚たちの対応が、対米関係を含めて混乱と騒動をもたらした最大の要因、とも言われる空白の1年数か月が始まります。

 昭和62年/1987年3月に表沙汰になるまで、告発状を受け取ったココム本部からの問い合わせに、通産省は「そんな事実はない」とシラを切り、ちゃんと調べて答えているのか、とアメリカから執拗に追及されても、「不正な取引はどこにもない」とスットボける。通産省でも当然、告発者である熊谷独、本名・熊谷一男の名前は把握していたのに、直接話を聞こうとはせず、熊谷さんの経歴や素行を調べたうえで、会社を馘首になった腹いせに騒ぎ立てているだけで、他にも悪い評判ばかりがつきまとう、信頼性に欠ける人間だ、と完全無視を決め込みます。

 最初から通産省も非を認め、自浄で事をおさめる気があればよかったんですが、そんなこと、どだい無理な話かもしれません。アメリカ側は不満を募らせ、熊谷さんも想定していなかったような騒ぎへと転がっていき、日米経済摩擦に油をそそぎ、東芝製品不買運動を巻き起こし、日本の商社は武器商人へとなり下がったと叩かれ、そんななか発端となった熊谷さんも無傷では済まされず、業界の掟をやぶった裏切り者だの、私怨で他のサラリーマンまで巻き添えにした自己中人間だの、さんざんに中傷されます。

 そんな熊谷さんに反撃の場をつくったのが『文藝春秋』でした。昭和62年/1987年8月号と9月号、2か月にわたり「東芝機械事件・主役の告白 これがソ連密貿易の手口だ」「東芝事件・主役の告発手記第二弾 西側がつくるソ連空母」を掲載。編集部の担当者は木俣正剛さんだったそうですが、事件は収束に向かっていましたので、普通であればこのまま世間の関心も離れ、これで終わり、となりそうなところ、昭和63年/1988年には加筆修正、より熊谷さんの心境とソ連での商売の深部にまでせまった単行本が文藝春秋から出たのみならず、文春の息が存分にかかったサントリーミステリー大賞に、小説を書いて参加し、そのディテールを細かく積み上げる筆致が選考委員に褒められて受賞。すると文春の息が存分にかかった直木賞で、予選を通過する、というまさかの作家デビューを果たすのですから、才能はどこに眠っているかわかりません。

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2018年8月12日 (日)

平成11年/1999年・プライバシー侵害の裁判で和解を選んだ高橋治。

作家高橋治さん(69)の小説「名もなき道を」をめぐって、「兄をモデルにされ、プライバシーを侵害された」として、妹夫婦が高橋さんと出版元の講談社を相手に損害賠償などを求めた訴訟の控訴審は八日、高橋さんと講談社が和解金を支払うほか、小説以外での作品化の場合には主人公の出身地を変えることなどを条件に東京高裁(青山正明裁判長)で和解が成立した。一審は高橋さん側が勝訴していた。

――『東京新聞』平成11年/1999年3月9日「小説「名もなき道を」 プライバシー訴訟 「精神的苦痛」認め和解 控訴審」より

 「犯罪」の範疇からは外れますが、民事であっても、訴訟にまで発展した小説作品はいくつかあります。ときに多くの報道がなされ、文学関係者の意見が飛び交い、一般社会の関心の目が小説界にそそがれる、という事態を引き起こすこともあって、社会通念に照らして「やってはいけないことをした」という印象をもたれてしまうのは、否定できません。

 直木賞の関係者(受賞者・候補者・選考委員)のなかで、そういう場面に遭遇した例として、まず取り上げておきたいのが高橋治さんです。

 直木賞受賞者のなかでも決して時代を画した流行作家とは言いがたく、読書好きならともかく、一般的には「え、だれそれ」と首を傾げられても仕方のない、淡々と我が道を歩きつづけた渋めの人ですが、直木賞受賞翌年に刊行された『風の盆恋歌』(昭和60年/1985年4月・新潮社刊)というベストセラーがあり、年を重ねてから読むとビシビシ心に突き刺さる作品を数多く残しています。

 『名もなき道を』(昭和63年/1988年5月・講談社刊)も、題名から連想させるとおり、華やかな栄達とは縁のなかった一人の男の、常人とは相容れない生き様を掘り起こしていく、なかなか地味な小説です。いったい何でこういう小説が問題になるのか、よくわかりませんが、しかし、珍しい判例を導き出した特殊な事例として、小説と裁判の歴史のなかではよく取り上げられています。

 この小説では、昭和59年/1984年~昭和60年/1985年に、地方各紙に連載されるに当たって、高橋さんが自分の旧制第四高校時代の同期生をモデルにした「槙山光太郎」を中心的に登場させ、じっさいにその妹夫婦にも取材したうえで、彼らもまた「武部保雄」「万里子」という名前で、重要な役を担って描かれます。連載終了後、昭和63年/1988年に単行本化、その年の10月には『別れてのちの恋歌』とともに、第1回柴田錬三郎賞を受賞。しかし、作中に描かれた説明などから、「槙山」や「武部」夫妻が誰なのか、その地元では容易に特定できるらしく、私生活上のことを公表されて名誉・プライバシーが侵害されたとして、「武部」夫妻のモデルとなった妹夫妻が平成1年/1989年12月に提訴。訴えられた高橋さんと講談社は、プライバシーの侵害には当たらないと主張して法廷で争い、平成7年/1995年5月19日、東京地裁(魚住庸夫裁判長)で判決が言い渡されました。

 当該作品の記述は、プライバシー侵害、名誉棄損としての違法性を欠く。原告の訴え棄却。要するに、高橋さん・講談社側の全面勝訴、となったのです。

 モデル小説をめぐるプライバシー侵害の裁判で、こういった判決が出たことは、いまにいたるまで重要な議論を残したと言われます。誰か特定の人をモデルにし、その私生活の、本人たちが知られたくないことまで題材にしても、違法と判断されない場合があるんだ、でもその線引きっていったいどこにあるんだろう……と、果てなき議論に、また一本薪をくべた、と言ってもいいです。もはや裁判の世界もわからないことだらけ、という感を深くしますが、そこに「文芸性、芸術性があるか、ないか」という、よけいに理解不能な文学の話がかぶさっている。善か悪か、判別の難しいことばかりのこの社会において、でもひとつの判決においてはどこかに線を引かなければならない、という人間的な不条理さが、より際立って見える事例でもありました。

 そのなかでも注目したいのは、このときの判決文で、実在の人物をモデルにしたことを、どの程度、売りにした作品か、それがプライバシー侵害と判断する材料にもなりうる、という文章が出てくることです。

 誰それをモデルにした、あるいは誰それの実生活を描いたと言って売り出す、暴露小説、実録小説の類なら、法に触れるかもよ、というわけです。『名もなき道を』は反対に、ことさら、そのことで読者の関心を煽った作品ではない、と判断されたために、被告の勝訴へと導かれた面が、多分にありました。

 この点、にぎやかで騒々しいことが性に合わず、テレビもほとんどつけずに、田舎暮らしを愛し、つねづねゴシップ的なジャーナリズムが大嫌いだと公言していた高橋さんの、その地味な精神が功を奏した、と言ってもいいでしょう。

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2018年8月 5日 (日)

昭和13年/1938年・『若い人』が告発された一件で、「軍人誣告罪」と表現した石坂洋次郎。

作家石坂洋次郎(三九)氏の小説「若い人」中に尊厳冒涜の節があると日本橋区蠣殻町三の四福島健氏から石坂氏並に改造社発行人山本三生氏を相手どり出版法第廿六条による告発が提訴されてゐたが(引用者中略)同氏はすでに秋田県立横手中学校の教職を去り謹慎の意を表したうへ「若い人」の題材、辞句についても変更或は訂正の意があるところを申出てゐるので結局起訴には至らぬものとみられてゐる

――『読売新聞』昭和13年/1938年11月15日「石坂氏を告発 検事局へ出頭」より

 石坂洋次郎さんは、直木賞や、もうひとつの兄弟賞は受賞していませんが、功成り名を遂げた昭和42年/1967年、67歳になってから直木賞の選考委員に就きました。

 先日、芦屋で行われた元・文藝春秋社長、平尾隆弘さんの講演でも、選考会にまつわる印象深いエピソードとして、議論とは関係ない場面でいきなり手を上げて「選考料は上がりましたか」などと質問する石坂さんの、茶目っけのある姿が語られ、笑いを誘っていましたが、約10年間その調子で務め上げ、77歳で退任するときには、老衰してたくさんの作品を読むのがつらくなった、とその理由を述べるなど、おおらかな自由人というか、気負いのない、あるいはつかみどころのない飄然とした態度に特徴のあった選考委員です。

 その石坂さんの筆歴のなかには、自身が犯罪者にされそうになった、大きな事件が二つあります。昭和13年/1938年の『若い人』告訴と、昭和23年/1948年~昭和24年/1949年『石中先生行状記』猥褻文書摘発です。

 どちらも有名作品、しかも有名な逸話なので、いたるところで取り上げられてきましたが、前者の『若い人』事件には、確実に奇怪な点があります。「軍人誣告罪」って何なんだ、ということです。

 経緯を簡単にたどってみます。昭和8年/1933年~昭和12年/1937年にかけて『三田文学』に発表された石坂さんの「若い人」は、連載中から文壇内で大評判となり、昭和12年/1937年2月に前半が、同年12月に後半が、改造社から単行本化されます。これが売れに売れ、後半が書店に並ぶころには映画も公開されて、さらに多くの読者を獲得。ときに新進気鋭の作家として『東京朝日新聞』から連載小説の依頼も舞い込んで、石坂さん大喜び、昭和13年/1938年9月14日の紙面に、新連載の告知が出たところ、発表からかなり経った『若い人』に対して、ある右翼がかった人物からケチをつけられ、不敬罪および軍人誣告罪に当たるということで、検察局に提訴されてしまいます。そんな作家を起用する気かと追及された『朝日』は9月17日、わずか3日で連載予定をとりさげ、秋田県で中学の教師をしていた石坂さんも、不承不承、教職を辞す羽目になりました。……

 と、石坂さんがどうこうより、一部の人たちの朝日新聞に対する敵意が凄まじかった、ということのわかるイザコザに、石坂さんも巻き込まれたかっこうですが、ここに出てくる「不敬罪」が何なのか、それはわかります。しかし「軍人誣告罪」とは何でしょうか。

 これについては近年、小谷野敦さんによる、ブログ記事や『忘れられたベストセラー作家』(平成30年/2018年3月・イースト・プレス刊)での指摘があったおかげで、目からウロコが落ちました。「誣告罪で提訴された」という表現は、明らかな間違いです。もしくは勘違いです。

 作中、軍人の剣は鉛筆を削ったり果物の皮を剥くのにも使われる云々、と書かれた部分が、告発対象のひとつになったと言われています。だけど、そこで難癖をつけるなら、(当時の)刑法第2編第34章「名誉ニ対スル罪」のなかにある、第231条への抵触でしょう。事実ヲ摘示セスト雖モ公然人ヲ侮辱シタル者ハ拘留又ハ科料ニ処ス。つまり「侮辱罪」です。

 刑法では、第2編第21章「誣告ノ罪」第172条に、いわゆる「誣告罪」も規定されていますが、誣告というのは、誰かに法的処分を受けさせようと企んで、虚偽の申告をすること。いわば、偽証に近い行為のことです。ブジョク罪とブコク罪。語感は似ていますが、意味は全然ちがいます。

 あるいは「誣言」と取り違えた、という可能性も考えられるでしょう。軍人に対する誣言、といえば、軍人に関する虚偽の事柄をでっち上げて触れまわる、といった意味でしょうか。言葉として通らなくはありませんが、だとしても、それは誣言であって、誣告ではありません。

 誣告罪。一般的になじみのない語句のほうが、いかにも法律用語らしいし、恰好いいです。いや、罪名に恰好よさを求める人など、いないのかもしれません。となると、戦後『若い人』が語られるとき、知名な著述家からそうでない著述家まで、こぞって「軍人誣告罪」という意味不明な表現を、平気で使い続けてきたこの状況は、いったいどういう事情によるのでしょうか。

 なにしろ何百例、何千例とありますから、それらの事情を一概に推しはかることはできません。しかし、有力な元凶をひとつ挙げるとすれば、告発された事情にくわしいはずの石坂さん本人が、いちばん最初に「軍人誣告罪」という言葉を使った。……これだろうと思います。

 戦争が終結してまもない昭和21年/1946年4月、『若い人』は改造社で復刊され、このとき上巻に、石坂さんによる「あとがき」(昭和21年/1946年1月付)が付きました。そこで作者自身が、この作品は「軍人誣告罪」で告発されたのだ、と二度も重ねて触れています。致命的といおうか、相当厄介なケースです。

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