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2018年8月 5日 (日)

昭和13年/1938年・『若い人』が告発された一件で、「軍人誣告罪」と表現した石坂洋次郎。

作家石坂洋次郎(三九)氏の小説「若い人」中に尊厳冒涜の節があると日本橋区蠣殻町三の四福島健氏から石坂氏並に改造社発行人山本三生氏を相手どり出版法第廿六条による告発が提訴されてゐたが(引用者中略)同氏はすでに秋田県立横手中学校の教職を去り謹慎の意を表したうへ「若い人」の題材、辞句についても変更或は訂正の意があるところを申出てゐるので結局起訴には至らぬものとみられてゐる

――『読売新聞』昭和13年/1938年11月15日「石坂氏を告発 検事局へ出頭」より

 石坂洋次郎さんは、直木賞や、もうひとつの兄弟賞は受賞していませんが、功成り名を遂げた昭和42年/1967年、67歳になってから直木賞の選考委員に就きました。

 先日、芦屋で行われた元・文藝春秋社長、平尾隆弘さんの講演でも、選考会にまつわる印象深いエピソードとして、議論とは関係ない場面でいきなり手を上げて「選考料は上がりましたか」などと質問する石坂さんの、茶目っけのある姿が語られ、笑いを誘っていましたが、約10年間その調子で務め上げ、77歳で退任するときには、老衰してたくさんの作品を読むのがつらくなった、とその理由を述べるなど、おおらかな自由人というか、気負いのない、あるいはつかみどころのない飄然とした態度に特徴のあった選考委員です。

 その石坂さんの筆歴のなかには、自身が犯罪者にされそうになった、大きな事件が二つあります。昭和13年/1938年の『若い人』告訴と、昭和23年/1948年~昭和24年/1949年『石中先生行状記』猥褻文書摘発です。

 どちらも有名作品、しかも有名な逸話なので、いたるところで取り上げられてきましたが、前者の『若い人』事件には、確実に奇怪な点があります。「軍人誣告罪」って何なんだ、ということです。

 経緯を簡単にたどってみます。昭和8年/1933年~昭和12年/1937年にかけて『三田文学』に発表された石坂さんの「若い人」は、連載中から文壇内で大評判となり、昭和12年/1937年2月に前半が、同年12月に後半が、改造社から単行本化されます。これが売れに売れ、後半が書店に並ぶころには映画も公開されて、さらに多くの読者を獲得。ときに新進気鋭の作家として『東京朝日新聞』から連載小説の依頼も舞い込んで、石坂さん大喜び、昭和13年/1938年9月14日の紙面に、新連載の告知が出たところ、発表からかなり経った『若い人』に対して、ある右翼がかった人物からケチをつけられ、不敬罪および軍人誣告罪に当たるということで、検察局に提訴されてしまいます。そんな作家を起用する気かと追及された『朝日』は9月17日、わずか3日で連載予定をとりさげ、秋田県で中学の教師をしていた石坂さんも、不承不承、教職を辞す羽目になりました。……

 と、石坂さんがどうこうより、一部の人たちの朝日新聞に対する敵意が凄まじかった、ということのわかるイザコザに、石坂さんも巻き込まれたかっこうですが、ここに出てくる「不敬罪」が何なのか、それはわかります。しかし「軍人誣告罪」とは何でしょうか。

 これについては近年、小谷野敦さんによる、ブログ記事や『忘れられたベストセラー作家』(平成30年/2018年3月・イースト・プレス刊)での指摘があったおかげで、目からウロコが落ちました。「誣告罪で提訴された」という表現は、明らかな間違いです。もしくは勘違いです。

 作中、軍人の剣は鉛筆を削ったり果物の皮を剥くのにも使われる云々、と書かれた部分が、告発対象のひとつになったと言われています。だけど、そこで難癖をつけるなら、(当時の)刑法第2編第34章「名誉ニ対スル罪」のなかにある、第231条への抵触でしょう。事実ヲ摘示セスト雖モ公然人ヲ侮辱シタル者ハ拘留又ハ科料ニ処ス。つまり「侮辱罪」です。

 刑法では、第2編第21章「誣告ノ罪」第172条に、いわゆる「誣告罪」も規定されていますが、誣告というのは、誰かに法的処分を受けさせようと企んで、虚偽の申告をすること。いわば、偽証に近い行為のことです。ブジョク罪とブコク罪。語感は似ていますが、意味は全然ちがいます。

 あるいは「誣言」と取り違えた、という可能性も考えられるでしょう。軍人に対する誣言、といえば、軍人に関する虚偽の事柄をでっち上げて触れまわる、といった意味でしょうか。言葉として通らなくはありませんが、だとしても、それは誣言であって、誣告ではありません。

 誣告罪。一般的になじみのない語句のほうが、いかにも法律用語らしいし、恰好いいです。いや、罪名に恰好よさを求める人など、いないのかもしれません。となると、戦後『若い人』が語られるとき、知名な著述家からそうでない著述家まで、こぞって「軍人誣告罪」という意味不明な表現を、平気で使い続けてきたこの状況は、いったいどういう事情によるのでしょうか。

 なにしろ何百例、何千例とありますから、それらの事情を一概に推しはかることはできません。しかし、有力な元凶をひとつ挙げるとすれば、告発された事情にくわしいはずの石坂さん本人が、いちばん最初に「軍人誣告罪」という言葉を使った。……これだろうと思います。

 戦争が終結してまもない昭和21年/1946年4月、『若い人』は改造社で復刊され、このとき上巻に、石坂さんによる「あとがき」(昭和21年/1946年1月付)が付きました。そこで作者自身が、この作品は「軍人誣告罪」で告発されたのだ、と二度も重ねて触れています。致命的といおうか、相当厄介なケースです。

          ○

 この「あとがき」は、改造社にいた木佐木勝さんによると、社内でけっこうな騒ぎになったそうです。と言っても、問題は「軍人誣告罪」ではなく、2月にGHQの検閲をパスした文言と、その後に発売されたものとが違っていたため、6月11日、司令部のハンスから呼び出され、いまからでも検閲済のものに差し替えろと怒られたらしく、困惑しながら印刷所に掛け合って、訂正作業に奔走した、ということが『木佐木日記 第四巻』(昭和50年/1975年10月・現代史出版会刊)に出てきます。「太平洋戦争」と直すべき箇所が、検閲前の「大東亜戦争」という言葉のままだったのが、とくにマズかったようです。

 かようなミスが発生するぐらいです。改造社の校正・校閲は、あまり厳しく機能していなかったのかもしれません。「軍人誣告罪」という、おそらく石坂さんの勘違いからくる誤りが、版元の目もすり抜け、そのまま公刊されてしまった、ということかと思われます。

 人には誰にだって間違いがあります。細かいことは気にしない、おおらかな石坂さんの、ちょっとした誤記ぐらいで、目くじらを立てても仕方ありません。

 恐ろしいのは、やはりその後の展開でしょう。石坂さんは後年に及んで自筆年譜や自伝的な文章を書くとき、ずっと「軍人誣告罪」の五文字を使いつづけましたが、その数多く訪れたチャンスのどこかで、「石坂先生、誣告じゃなくて侮辱ではないですか」「軍人に対する誣言は、軍人誣告とは言いませんよ」と直接、疑問を投げかける人がいれば、ああ、そうかと石坂さんも気づいたかもしれません。

 しかし、本人の証言だからと盲信したのか、有名な流行作家の原稿に異を差しはさむのが畏れ多かったのか、あるいは戦時中の軍人や右翼の人たちの横暴ぶりはたしかにひどかったと記憶する人たちにとっては、「軍人誣告=グンジンブコク」という、発音および漢字の醸しだす厳めしさに、冷静な判断力を失ったのか、多くの人が、この奇妙な罪名を言い伝え、書き伝えてきました。

 恐ろしいことです。罪名がどうであれ、小説中の何げない文章に対して告発した輩がいたのは事実ですし、表現弾圧の機運は、国家が主導するだけではなく、ちまたに住む一般市民の自発的な行動によって、自然と煽り立てられていく、という恐ろしさは伝わってきます。だけど、それは戦時体制とか天皇崇拝思想とか、そういう場面に限った話ではなく、ひとりの人間の言葉を、内容を精査せずに使いつづける精神、売れっ子人気作家の原稿を絶対のものとする精神、「軍人や右翼はひどい連中」という一律的なイメージに寄りかかる精神、たぶん本人たちは自覚していないはずの、そういう感覚が戦前とか戦後とかの時代性に関係なくこの社会をつくってきた、と窺い知れるところにこそ、恐ろしさがあります。

 そうやって見ると、このエピソードに登場する、告訴した人間の素性もまた気にかかる点です。

 数々の文献によれば、告発したのは「ある右翼団体」らしく、石坂さんも多くの場面でそのように回顧していますが、例の昭和21年/1946年「あとがき」では、微妙に表現が違っています。

「その翌年(引用者注:『若い人』初版刊行の昭和12年/1937年の翌年)、右翼系の某氏は「若い人」の内容中、不敬罪や軍人誣告罪を構成する点五六箇所を挙げて、著者の私を検事局に告訴した。」(昭和21年/1946年4月・改造社刊 石坂洋次郎・著『若い人』所収「あとがき」より)

 「右翼系の某氏」。たしかに本筋とは離れた表現をあげつらい、不敬罪だ軍人冒涜だと騒ぐぐらいですから、とうてい左翼系とは思えず、その行動ひとつをもって、福島健は右翼系だ、と断言してもいいのでしょう。これがいつしか「右翼団体」という表現になり、時を経て、高木健夫さんにいたっては、「軍部と右翼団体」の仕業だったと記録しています(『新聞研究』昭和55年/1980年2月号、3月号「新聞小説史」)。軍部が関わっていたというのは、いったいどこから持ってきた話なのか。まったくわかりません。

 わかりません、というところに帰結するのは悲しいですが、無理やり直木賞の話題に戻すと、石坂さんの選考委員としてのユニークさは、間違いや思い込みを厭わない、荒削りな姿勢にあったと思います。票を入れるに当たっては、自分の個人的な経験や関心を基準にし、そのことを包み隠さず選評に書く。根本にあるのは、枠にとらわれない自由さです。

 直木賞は公正・公平なものだと信じる人たちにとっては、まず許しがたい態度かもしれませんが、石坂さんの選評、全部読んでみてください。選評や投票行動のひとつひとつに全幅の信頼をおくのではなく、直木賞はこのゆるさが伝統なんだ、と見て楽しむぐらいがちょうどいい、と切に感じます。きっと石坂さんも、自分の言うことが無条件に信用されるのは、本望ではなかったはずです。

 というのは、戦後『石中先生行状記』事件に遭遇したときに石坂さんの見せた対応からも推測できるのですが、だらだら書いていたら、触れる余裕がなくなりました。またいつか、犯罪に関する話題が尽きてきたときにでも、取り上げようと思います。

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犯罪でたどる直木賞史」カテゴリの記事

コメント

https://youtu.be/Xwjg9jGcOuw
https://youtu.be/0-PHAszxmlY
https://youtu.be/ELn_hUc-WTg
https://youtu.be/ZusoeiK51hw
「ムッソリーニ万歳」
こういっただけで逮捕される国があったら、その国末期。
どういう体制で、どういう政策をしようが、その国の終わりは近い。
枢軸国のどの国よりもひどい。
事実上の不敬罪が、既に存在する我が国に無関係の話ではない。

投稿: 芋田治虫 | 2019年9月 8日 (日) 17時59分

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