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2018年8月12日 (日)

平成11年/1999年・プライバシー侵害の裁判で和解を選んだ高橋治。

作家高橋治さん(69)の小説「名もなき道を」をめぐって、「兄をモデルにされ、プライバシーを侵害された」として、妹夫婦が高橋さんと出版元の講談社を相手に損害賠償などを求めた訴訟の控訴審は八日、高橋さんと講談社が和解金を支払うほか、小説以外での作品化の場合には主人公の出身地を変えることなどを条件に東京高裁(青山正明裁判長)で和解が成立した。一審は高橋さん側が勝訴していた。

――『東京新聞』平成11年/1999年3月9日「小説「名もなき道を」 プライバシー訴訟 「精神的苦痛」認め和解 控訴審」より

 「犯罪」の範疇からは外れますが、民事であっても、訴訟にまで発展した小説作品はいくつかあります。ときに多くの報道がなされ、文学関係者の意見が飛び交い、一般社会の関心の目が小説界にそそがれる、という事態を引き起こすこともあって、社会通念に照らして「やってはいけないことをした」という印象をもたれてしまうのは、否定できません。

 直木賞の関係者(受賞者・候補者・選考委員)のなかで、そういう場面に遭遇した例として、まず取り上げておきたいのが高橋治さんです。

 直木賞受賞者のなかでも決して時代を画した流行作家とは言いがたく、読書好きならともかく、一般的には「え、だれそれ」と首を傾げられても仕方のない、淡々と我が道を歩きつづけた渋めの人ですが、直木賞受賞翌年に刊行された『風の盆恋歌』(昭和60年/1985年4月・新潮社刊)というベストセラーがあり、年を重ねてから読むとビシビシ心に突き刺さる作品を数多く残しています。

 『名もなき道を』(昭和63年/1988年5月・講談社刊)も、題名から連想させるとおり、華やかな栄達とは縁のなかった一人の男の、常人とは相容れない生き様を掘り起こしていく、なかなか地味な小説です。いったい何でこういう小説が問題になるのか、よくわかりませんが、しかし、珍しい判例を導き出した特殊な事例として、小説と裁判の歴史のなかではよく取り上げられています。

 この小説では、昭和59年/1984年~昭和60年/1985年に、地方各紙に連載されるに当たって、高橋さんが自分の旧制第四高校時代の同期生をモデルにした「槙山光太郎」を中心的に登場させ、じっさいにその妹夫婦にも取材したうえで、彼らもまた「武部保雄」「万里子」という名前で、重要な役を担って描かれます。連載終了後、昭和63年/1988年に単行本化、その年の10月には『別れてのちの恋歌』とともに、第1回柴田錬三郎賞を受賞。しかし、作中に描かれた説明などから、「槙山」や「武部」夫妻が誰なのか、その地元では容易に特定できるらしく、私生活上のことを公表されて名誉・プライバシーが侵害されたとして、「武部」夫妻のモデルとなった妹夫妻が平成1年/1989年12月に提訴。訴えられた高橋さんと講談社は、プライバシーの侵害には当たらないと主張して法廷で争い、平成7年/1995年5月19日、東京地裁(魚住庸夫裁判長)で判決が言い渡されました。

 当該作品の記述は、プライバシー侵害、名誉棄損としての違法性を欠く。原告の訴え棄却。要するに、高橋さん・講談社側の全面勝訴、となったのです。

 モデル小説をめぐるプライバシー侵害の裁判で、こういった判決が出たことは、いまにいたるまで重要な議論を残したと言われます。誰か特定の人をモデルにし、その私生活の、本人たちが知られたくないことまで題材にしても、違法と判断されない場合があるんだ、でもその線引きっていったいどこにあるんだろう……と、果てなき議論に、また一本薪をくべた、と言ってもいいです。もはや裁判の世界もわからないことだらけ、という感を深くしますが、そこに「文芸性、芸術性があるか、ないか」という、よけいに理解不能な文学の話がかぶさっている。善か悪か、判別の難しいことばかりのこの社会において、でもひとつの判決においてはどこかに線を引かなければならない、という人間的な不条理さが、より際立って見える事例でもありました。

 そのなかでも注目したいのは、このときの判決文で、実在の人物をモデルにしたことを、どの程度、売りにした作品か、それがプライバシー侵害と判断する材料にもなりうる、という文章が出てくることです。

 誰それをモデルにした、あるいは誰それの実生活を描いたと言って売り出す、暴露小説、実録小説の類なら、法に触れるかもよ、というわけです。『名もなき道を』は反対に、ことさら、そのことで読者の関心を煽った作品ではない、と判断されたために、被告の勝訴へと導かれた面が、多分にありました。

 この点、にぎやかで騒々しいことが性に合わず、テレビもほとんどつけずに、田舎暮らしを愛し、つねづねゴシップ的なジャーナリズムが大嫌いだと公言していた高橋さんの、その地味な精神が功を奏した、と言ってもいいでしょう。

          ○

 これ以上、法的な解釈に踏み込んでも、あまり話が続かないので、少し流れを変えてみます。この一件に高橋さんがどう接したか、についてです。

 『名もなき道を』は、実在の人物の暗部を暴露して世に知らしめる、といった発想で書かれたものではなく、描いた人物像はすべて自分が創造したもの。というのが、高橋さんの一貫した反論でした。この小説は自分の創造性で成り立っている。ないしは、それがあるから小説たり得ているのだ。小説家なら、やはりそこは死守したいところだと思います。

 結果、本作に関して、原告が問題としたもろもろの箇所は、小説上の表現として必要なものと認められ、かつモデルに対する配慮もなされている、と裁判所の判断がくだったのですから、高橋さんとして何の問題もない判決だったことは、言うまでもありません。

 しかし、この案件はその後、原告が控訴。さらに両者の争いが続けられたところで、被告の高橋さん・講談社側が歩み寄ります。(1)「名もなき道を」が、高橋さんが同級生の生涯に触発されて創作した文学作品であることを認める、(2)被告にとって予期しなかったことではあるが、小説により、原告らが精神的苦痛を受けたことを認め、謝罪し和解金を支払う、(3)映画や演劇など小説以外で作品化する場合は、主人公の出身地を変更する、(4)今後の増刷の際には、帯や広告などに実在人物を想起させるような文言は使用せず、創作であることを表示する(『東京新聞』平成11年/1999年3月9日「小説「名もなき道を」 プライバシー訴訟 「精神的苦痛」認め和解 控訴審」)ことなどを、双方が確認し合って、平成11年/1999年3月8日、和解が成立しました。

 和解金支払いに応じた、ということは被告側が違法行為を認めたのだ、原告の逆転勝訴と見なせるのだ、と原告側の代理人は意気揚々とコメント。たしかに、高橋さん側がかなり引いた、という感じの決着です。

 全面対決で臨んでもよかったところ、ここで終結の道をとったのは、もちろんいろいろな要因が考えられます。むしろ一審判決が、相当に小説のプライバシー侵害に甘い、ととらえられるものでもあり、二審でひっくり返る可能性をはらんでいたことは、和解を選ぶ大きな要素だったかもしれません。

 しかし、高橋治という人が培ってきた、ものの考え方も、この選択に一役買った、と言えると思います。

「高橋治さんの話 法的責任の有無は一審で示された通りと考えるが、善意であっても傷つけてしまうことはある。裁判を通じ貴重な勉強をさせて頂いた。」(『朝日新聞』平成11年/1999年3月9日「小説モデル遺族に謝罪 「名もなき道を」プライバシー訴訟、和解」より)

 やたらと謙虚です。このほか、「原告の感情的なしこりを残したくなかった」という表現も、高橋さん側の説明として残されています。

 これ以上、モデルにした人たちと争うのは本望ではない。いったん自分たちの意見は裁判所に認められたんだから、それはよしとして、ここは自分も反省して折れよう。と、他人の感情に配慮した。そんな和解です。

 前年の平成10年/1998年、高橋さんは69歳で脳梗塞で倒れ入院、生死の境をさまよう経験に遭遇しています。この前後の心境などは『おんな心いろいろ帖』(平成13年/2001年3月・角川書店刊)のそこかしこで触れられていますが、自分の死を確実に意識したこの時期に、他人との禍根を残したままでは死んでも死にきれない、と考えたのだとしても不思議ではありません。裁判を長引かせて、傷つけ合っても仕方ない。これもひとつの、身の処し方でしょう。

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