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2018年7月の6件の記事

2018年7月29日 (日)

昭和47年/1972年・前年につづいて万引きで捕まった小島視英子と、黙ってやり過ごした夫・政二郎。

【鳥取】十二日午後五時五十五分ごろ、鳥取市川端二、鳥取県東部生協(広田幸一組合長)二階衣料品売り場で、中年の女性二人が、くつ下など衣料八点(九千九十円相当)を万引きしたのを、店員が見つけ、鳥取署に突き出した。

同署の調べでは、(引用者中略)作家小島政二郎氏夫人、視英子こと嘉子(四五)と、(引用者中略)無職和田美樹(三〇)で、(引用者中略)調べに対し、視英子は、はじめ和田嘉子と名乗り、万引きは、美樹がやったといい張ったが、追及され二人でやったと自供した。

――『読売新聞』昭和47年/1972年7月13日夕刊「里帰り先で万引き また小島政二郎氏夫人」より

 昭和10年/1935年上半期の第1回から、直木賞・芥川賞の兼任で選考委員になった小島政二郎さんは、8年ものあいだ両賞のために尽力した大偉人です。とくに直木賞の予選主査を務めるなど、こちらの賞の礎を築いた人、と紹介しても大げさではありません。

 昭和18年/1943年~昭和19年/1944年、戦争中の2年間は任から退きますが、戦後あらためて直木賞の委員に復活。「直木賞は(いや、直木賞といえども)文芸作品を選ばなければならない」という、難しくて険しい道を、頑固な文芸信者として押しすすめ、第54回(昭和40年/1965年・下半期)の選考をもって、主催者側から退任をすすめられたところで、おそらく不本意ながら身をひきます。

 時に御年72歳。エッセイ『食いしん坊』で有名な老文士、という立場に甘んじ、もはや大衆文壇の第一線にいるわけでもなく、他の委員に比べて、一般的な人気はさほどなかったでしょう。鶴書房から『小島政二郎全集』の刊行が始まったのは、委員退任後の昭和42年/1967年からですが、当初計画されていた全12巻のうち、3巻を残して続刊は頓挫。余生というか、実質引退状態というか、終わった人というか、基本的には新たな活躍は望めない過去の作家、と見られていたなか、ここで〈小島政二郎〉の名を広く世間に知らしめたのが、昭和41年/1966年から同居、昭和42年/1967年4月に正式に婚姻届を出した32歳下の二番目の妻、視英子さんでした。

 自称〈悪妻〉。他称もやはり〈悪妻〉。翔んでるミセスとして、ほんのわずかの期間マスコミの表舞台でも活躍した人です。

 本名は嘉壽子といい、視英子というのは小島さんとの結婚後に、姓名判断に従って名乗りはじめた名前だそうです。ともかくオチャメでお転婆、歯に衣着せぬ放言や、だれに対しても物怖じしない屈託のない態度が興味をひかれ、『甘辛春秋』昭和43年/1968年夏号に書いた「マイ・ディア・ドンビキ」をきっかけに、いろいろと執筆の仕事が舞い込むようになり、翌年には『現代不作法教室』(昭和44年/1969年10月・二見書房刊)を刊行。いっぽう小島さんのほうも「若い妻と老いた作家」という題材を得て、私小説への情熱を燃え上がらせると、「眼中の人(その二)」「妻が娘になる時」「美籠と共に私はあるの」などなどを精力的に発表し、昭和45年/1970年1月、中央公論社から作品集『妻が娘になる時』が出たときには、久しぶりに自分の芸術小説の本が出ることになってうれしい! と喜びをあらわにしました。

 この「妻が娘に~」は同年、TBSテレビの東芝日曜劇場でドラマ化され、美貌でならした視英子さんは同局「あなたは名探偵」の解答者のひとりに大抜擢。『サンデー毎日』では夫婦そろって対談のホスト役を務める「不作法対談」の連載も始まり、小島政二郎、直木賞委員を退任してからの、まさかの大にぎわいです。視英子さんに負けず劣らず、自分の感情を包み隠さずぶつける小島さんの魅力が、ここにきてさらに花開いた、と言ってもいいでしょう。

 そんな「年の差婚」景気が、ばっさりと終わりを告げたのは、昭和46年/1971年6月15日、昭和47年/1972年7月12日、2度にわたる視英子さんの万引きと、それを大きく取り上げた新聞や週刊誌による報道だった。……というわけなんですが、叩くとなったら口きたない表現をこれでもかとつぎ込んで叩く、雑誌ライターの煽り立てるような文章・文体は、当然この時代も健在。ちょっと名のあるエロ爺いに取り入って、ちゃっかり妻の座におさまると、調子に乗っていろいろと顔を出すようになったけど、何だ、けっきょく幼稚な犯罪者じゃないか、といった感じの、他人を糾弾するときのライターたちのわくわく感が、どの記事からもよく伝わってきます。

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2018年7月22日 (日)

昭和62年/1987年・婦女暴行致傷罪で起訴された同棲相手のことを、記者会見で聞かれた山田詠美。

作家山田詠美さんの小説「ベッドタイムアイズ」のモデルとされる在日米空軍横田基地の技術軍曹A(35)が7日、東京地検八王子支部から東京地裁八王子支部に婦女暴行致傷罪で起訴された。

起訴状によると、Aは3月1日午前4時半ごろ、東京都福生市福生の公園で、帰宅途中の女性(46)に背後から抱きつき、約100メートル離れた自宅に引きずり込んで暴行し、顔などに2週間のけがをさせた、とされる。

――『朝日新聞』昭和62年/1987年7月8日夕刊「小説「ベッドタイムアイズ」のモデル黒人兵、女性暴行で起訴」より

 直木賞の受賞記者会見というのは、直木賞全体から見るとかなり局所的なイベントですが、それでも毎回、確実に関心をそそられます。

 その会見のなかで、直木賞史上最大の盛り上がりを見せた、と語り継がれているのが、第97回(昭和62年/1987年上半期)。いまから30年余りまえの、夏の出来事です。

 いつもは冴えない文芸記者しか集まらない会見場に、テレビから週刊誌からゴシップ誌から、カメラとフラッシュを抱えた取材陣が群れをなして押し寄せ、まるで芸能人の会見かと思わせた、と形容されるほどの千客万来ぶり。少なくとも文芸関連の行事という穏やかな様子は一変し、直木賞・芥川賞は完全にショー化した、というおなじみの論評がこのときも現われ、しかし以来30年、だれもそれを変えようとせず、いまだに「直木賞・芥川賞は完全にショーだ」と批判する人が後を絶たない、という記念すべき第97回直木賞。

 主役となったのは、山田詠美さんです。

 いや、山田さんの華やかさや話題性も相当でしたが、それだけが大勢の取材陣を動かしたわけではありません。直木賞の会見風景を一気に変貌させたその最大の要因は、明らかにひとつの犯罪事件でした。否定する人はいないと思います。

 報道によると、昭和62年/1987年3月1日明け方5時半ごろ。東京都福生市に住む会社員、46歳の女性が徒歩で帰宅中、ちょうど「わらつけ公園」を歩いていたところ、何者かに突然抱きつかれ、100メートルほど離れたマンション3階の一室に、強引に連れ込まれる事件が発生します。加害者は抵抗する女性を殴りつけ、レイプに及んだとのこと。被害を受けた女性はそのマンションの住人でもあったため、加害者の人体は把握しており、3月4日に被害届を警察に提出。その加害者とはアメリカ国籍をもつ氏名カールビン・ウィルソン35歳(ケルビン、カルビンと表記する文献もあり)、米軍横田基地の航空貨物補給部で働く技術軍曹で、福生署の捜査員は性犯罪ということもあって慎重に裏づけ捜査を進めますが、事実関係の捜査がかたまり、6月17日に逮捕。7月7日、東京地裁八王子支部に起訴されました。続報によれば、同年12月23日に同支部にて、求刑懲役四年に対し、懲役三年六か月の実刑判決が言い渡され、刑に服すことになった、ということです。

 そのウィルソンさんは、山田詠美さんの当時の同棲相手。処女作『ベッドタイムアイズ』のモデルのひとりとも言われて、デビュー直後から数々のメディアに取り上げられた山田さんとともに、マスコミに幾度となく登場していた人ですが、犯行のあった当日、山田さんはバリ島に取材旅行に出かけていて不在、その留守宅が犯行現場になった、という話から、二人の仲は最近ギクシャクしていたとか、山田さんの浮気に心痛めたウィルソンさんがそのフラストレーションを爆発させたのではないかとか、どうでもいいといえばどうでもいい事情が、週刊誌を中心に報じられます。

 ここで、いつもなら世の注目を浴びるのは芥川賞です。しかし、このときばかりは偶然にも直木賞に風が吹きました。7月7日起訴のニュースが新聞に載った翌8日、同じ日に日本文学振興会から直木賞・芥川賞の候補作の情報が解禁され、山田さんの名前が、それまで3度候補になった芥川賞ではなく、はじめて直木賞のほうの候補に入っていたからです。選考会は一週間後の7月16日。直木賞で山田さんの候補作はどう扱われるんだ、権威ある偉い人たちはまさか犯罪者の同棲相手を許したりしないだろうな、落ちろ、いや受賞して叩かれろ……などと、多くの記者やライターたちがウキウキと心を弾ませた、といいます。

 つまり「権威ある文学賞」と「犯罪事件」というイメージの落差に、多数の人間が魅了された、と言っても間違いではないでしょう。

 ひょっとすると第85回(昭和56年/1981年・上半期)ホンモノ芸能人・青島幸男さんが受賞したときや、第94回(昭和60年/1985年・下半期)テレビでおなじみ林真理子さん受賞のときを、しのいだのではないかと言われるほどの大量の取材陣が、直木賞という小さな行事のために予定を調整し、暑いなか都内ホテルの会見場に足を運ぶことになった、というわけです。

 景気のいい時代の日本人は、なかなかの浮かれ調子で、馬鹿なことをやっていたもんだな。あはははは。……と素直に笑えないのが、またつらいところです。

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2018年7月19日 (木)

第159回直木賞(平成30年/2018年上半期)決定の夜に

 決まってしまいます。気温が何度になろうが、誰の訃報が流れようが、政治の状況がどうだろうが、やはり直木賞は決まってしまいます。7月18日(水)。第159回(平成30年/2018年上半期)の直木賞が決まりました。

 ああ、それにしても、目を閉じると、いつも思い出すのは、受賞しなかった候補作のことばかり。

 ……と、これは、ワタクシがひねくれている、というのも理由のひとつでしょうけど、しかし、それぞれの小説を読んで、受賞作よりも候補作のほうに魅かれる、というのは直木賞を外から見ているわれわれには、きっとよくある伝統的な現象でしょう。

 まずは何といっても今回は、湊かなえさんの『未来』のことに触れないわけにはいきません。端から端まで、〈湊かなえ〉の匂いを存分に充満させた、この熱い、熱すぎる一作。はっきり言って困りました。授賞させる気なら、もっと前に授賞させておけよ、と思いました。作家としての実績は、直木賞向き、だけどこの一作は、あまりにあまりすぎて、選考委員の人たちも苦しんだのではないかと想像します。そして、苦しみのヒストリーはこれからもまだまだ続く。受賞のその日まで。

 苦しみか平穏か、こちらはよくわかりませんが、『宇喜多の楽土』の木下昌輝さんが、すでに直木賞受賞者であっても遜色ない活躍ぶりを見せていることを目にすると、やはり第152回(平成26年/2014年下半期)に『宇喜多の捨て嫁』で受賞させなかったアノ選考は、大失敗だったと思わずにはいられません。その大失敗を、どうにか帳消しにするためには、木下さん自身の力を借りるしかなく、どうか木下さん、今度こそ直木賞にギャフンと言わせてやってください。切に祈ります。

 上田早夕里さんの『破滅の王』のような作品を、高く評価して、最終決選にまで残すことは残すが、受賞圏内には届かない……という、いかにもな直木賞の決断。まったく歯がゆいです。候補になったのもサプライズ、これで受賞していれば、二重三重の輪がかかって最高級のサプライズになったのにな。相変らずの直木賞でごめんなさい。ワタクシが謝っても仕方ないですけど、とりあえず今後とも、直木賞のことをよろしくお願いいたします。

 どうして本城雅人さんの、はじめての直木賞候補作が『傍流の記者』なんだ。と不満に思った人は多いはずです。多いかどうかは知りませんが、少なくともワタクシはそのひとりです。やはり本城さんの記者モノは、どこか影をもった、エリートコースから外れぎみの記者の造型に、抜群の魅力があふれていると思います。これからの、馬力あるお仕事ぶりが楽しみでなりません。

 何の星のめぐりあわせか、窪美澄さんの『じっと手を見る』が、不思議にも直木賞の受賞作になりませんでした。これで早くも「どうしてこの作家が直木賞候補どまりで、受賞者になっていないんだ」グループの仲間入りです。いや、すでに選考委員ぐらいの貫禄がある。そこが恐ろしいです。いつか直木賞の選考委員になって、この賞に文芸の風を送り込んでやってください。

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2018年7月15日 (日)

第159回直木賞で話題となっている参考文献記載問題。

 平成30年/2018年夏、7月18日(水)に第159回直木賞が決まります。

 直木賞と、もうひとつ同時に開催される他の賞が、決まるまえのこの時期からいろいろと話題になるのは常道の光景ですが、とくに今回は、巻末に参考文献を載せるか載せないか、載せるとしたらどう載せるか、それが候補作の運命を左右する大きな注目点になる、と数々の識者が指摘しています。ご存じのとおりです。

 参考文献を笑う者は、参考文献に泣く。何ごとも細部にまで神経を尖らせるのは大切なことだと思います。

           ○

 ところで、参考文献の記載ぶりは、これまで直木賞にどんな結果をもたらしてきたのでしょうか。

 かつてこの賞は、雑誌掲載の作品ばかり受賞していましたが、それらの末尾に参考文献が付される例はほとんどなく、村上元三さん「上総風土記」ぐらいのものだったでしょう。ここでは単行本で受賞した例のみを対象にして、集計してみます。

●受賞作総数:128

●参考文献の記載アリ:22冊(17.2%

 これだけ割合が低いのは、直木賞が古くからやっている証しかもしれません。とにかく昔の本の多くは、参考文献の表示が省略されているからです。

 よく知られているものに、井伏鱒二さんの『ジョン万次郎漂流記』があります。この作品には確実に親本があり、本人も受賞当時からそのように語っていて、要するに内容まるパクリなんですが、これが直木賞を受賞するとはどういうことだ、と猪瀬直樹さんあたりがいっとき猛烈に批判していました。

 直木賞の本に、はじめて参考文献が登場するまでには、かなりの時間を要します。

 時代はぐっと下って第87回(昭和57年/1982年・上半期)。3ページにわたって、ずらずらと参考元を列記した深田祐介さんの『炎熱商人』が、直木賞史上初の作品です。なにせ深田さんはその2年半まえ、3度目の候補になった『革命商人』でも同じように大量の参考文献を付し、しかしそのときは惜しくも受賞を逃したので、「執念の参考文献列挙者」として、いまも直木賞の語り草になっています。

 その後もまだしばらくは、直木賞に参考文献の時代は訪れません。ようやく潮目が変わりはじめたのが、元号が平成に変わる頃から。平成の受賞作(単行本で受賞したもの)だけで数えると、その数字の上昇ぶりは明らかです。

●受賞作総数:73

●参考文献の記載アリ:19冊(26.0%

 それでもまだ、全体の4分の1程度でしかありませんが、歴史モノは当然のこと、少し前の時代を描いた小説などにも、ぞくぞくと参考文献アリの拡大が見られる、という流れを経て、もはや現代小説の巻末で参考文献が紹介されることが、何も不思議ではない状況に突入しました。

 たとえば、2回まえの佐藤正午さん『月の満ち欠け』は、参考文献〈アリ〉派。前回、門井慶喜さん『銀河鉄道の父』は、いかにも〈アリ〉派に属していそうな構えの小説でしたが、じっさいは〈ナシ〉派。

 参考文献アリか、ナシか。……一進一退の攻防を繰り広げるそんな現状だからこそ、今回第159回の直木賞も、そのゆくえが注目されています。

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2018年7月 8日 (日)

昭和59年/1984年・「ロス疑惑」報道事件でゴシップメディアに重宝された小林久三。

ロス疑惑事件をめぐる記事で名誉を傷つけられたとして、三浦和義被告(四九)が新聞社に損害賠償を求めた二件の訴訟の上告審判決が二十七日、最高裁第三小法廷であった。

(引用者中略)

夕刊フジの発行元の産経新聞社と作家の小林久三氏に計五百万円の慰謝料を求めた訴訟では、二審判決が「夕刊紙は、帰宅途上のサラリーマンを対象として主に興味本位の記事を掲載するもの。読者は大げさな憶測記事として一読したに過ぎない」としていた。

しかし、この日の判決で園部逸夫裁判長は「興味本位の編集方針をとっていても、報道媒体である以上は、読者も記事がおしなべて根も葉もないものと認識しているものではなく、記事にいくぶんかの真実も含まれているものと考えている」と述べて、二審判決を破棄し、東京高裁に審理を差し戻した。

――『朝日新聞』平成9年/1997年5月27日夕刊「「夕刊紙にも真実ある」 名誉棄損に新判断 ロス疑惑で最高裁判決」より

 犯罪事件が起こると、それに対して当事者や捜査機関ではない第三者の立場から意見や推論を述べる、あまり尊敬されない役割を担う人が登場します。〈コメンテーター〉と呼ばれたりします。

 さまざまな職種の人が、その役割を押しつけられ、また自ら望んで担ってきましたが、伝統的に重宝されてきた職種のひとつが、推理小説作家です。

 直木賞と縁のある作家のなかからも、やはり何人かが狩りだされ、犯罪史ならぬ日本の犯罪報道史を色どり豊かに彩ってきました。とくに昭和50年代から平成はじめごろにかけて、多くのメディアに登場、どこか胡散くささをまといながら、しかし大きな功績を残した人といって思い浮かぶのが、直木賞候補者、小林久三さんです。

 小林さんは、もとは松竹で映画の制作に携わり、助監督時代にはストーリーや脚本を書いたりしていた人ですが、昭和47年/1972年に冬木鋭介のペンネームでサンデー毎日新人賞(推理小説部門)を受賞、2年後、「暗黒告知」で江戸川乱歩賞を受賞し、それがそのまま直木賞の候補にも残って、小説家としての道が開けます。次第に活動分野はひろがって、週刊誌、スポーツ紙、夕刊紙といった、ちょっといかがわしいけど、楽しさ満点の、大衆向けメディアにも積極的に登板、多忙な作家生活を送ります。

 そんな小林さんが昭和57年/1982年に見舞われたのが、盗用・盗作事件です。

 明らかに小林久三の作品は盗作だ! と思いっきり全国紙の紙面で糾弾されることになったのは、『週刊大衆』に連載した「ノンフィクション・ノベル 帝銀事件」および、『小説現代』に発表した小説「マッカーサー謀殺事件」が、轍寅次郎こと和多田進さんの出版した『追跡・帝銀事件』の内容を大きくパクったもので、転用・借用、数限りなく、許容範囲を超えていて、参考資料にしたという言い訳は成り立たない、として和多田さんが抗議。裁判も辞さないとする和多田さん、それなら受けて立つと構える小林さん、双方の主張を報じたのが、『読売新聞』昭和57年/1982年7月3日夕刊の記事「売れっ子推理作家 小林久三氏 「帝銀事件」盗作トラブル」でした。

 この記事になるまでに、両者は代理人を通じて話し合いをもち、謝罪文の掲載、慰謝料の支払いなど、示談の要件を詰めようとしていたけれど、折り合いがつかず、ということで表沙汰になった感じですが、その後、両者の知人でもあった森村誠一さんがあいだに入り、和解金200万円の支払い、単行本化は見送る、ということを条件にして昭和57年/1982年10月29日に双方和解(昭和58年/1983年6月・幸洋出版刊 片野勧・著『マスコミ裁判―戦後編』)。立件されることもなく、また某かの文学賞の候補に挙げられていたわけでもなかったので、「○○賞は死んだ」などと、まわりから煽り立てる声も起こらずに、穏便なところに着地します。

 被害を訴える側は、これは明らかな盗作だと主張し、訴えられた本人も、たしかに参考にしたのは事実だと認めている。それでも、作家生命が断たれるほどのことはなく、先の道を歩んでいくのが一般的な展開です。小林さんも例に洩れません。「推理作家」の看板を降ろすことはなく、歴史に関する文献を読み込み、気になる犯罪事件があれば取材し、求められれば、事件に対する自分の感想や推理もお話しする。相変らず仕事に忙しい日々を送りました。

 というところで、昭和59年/1984年に小林さんが遭遇した、遭遇してしまうことになったひとつの事件があります。さかのぼること約2年前、昭和56年/1981年11月18日に、三浦一美さんがロサンゼルスで銃撃された事件の真相をさぐるという名目で、夫・三浦和義さんを追いまわす、度を超えた過熱報道が日本中を席巻した、という事件です。

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2018年7月 1日 (日)

昭和29年/1954年・「幹事長と女秘書」事件で佐藤栄作から訴えられた宮本幹也。

判決

(引用者中略)文筆業 宮本幹也こと 宮本正勝

大正二年三月二十日生

(引用者中略)会社員 丸尾文六

明治四十二年八月三日生

右両名に対する名誉毀損被告事件について、次のとおり判決する。

主文

被告人宮本正勝を罰金五万円に処する。(引用者中略)

被告人丸尾文六を罰金五万円に処する。

――『判例時報』昭和32年/1957年8月11日号「判例特報(1) モデル小説と名誉毀損罪の成立」より

 とりあえず直木賞は、文学の賞を名乗っています。文学にまつわる犯罪といって、やはりひとつの軸となるのは、発表された作品をめぐる抗議、告発、難癖などが引き起こす訴訟・判決でしょう。

 直木賞も80年以上やっていますから、受賞者や候補者の書いた小説が、道義的もしくは法的に非難され、告訴にまで至った例は、数多く見受けられます。せっかくいま、芥川賞のほうが盗作関係のハナシで盛り上がっているので、直木賞の、過去の盗作エピソードを振り返ってみるのも悪くないかな。とは思いましたが、準備もできておらず、それはまた後日、時機を見てからということにして、今日は盗用・盗作と並ぶ、「文学上の二大犯罪」のひとつ、モデル小説による権利侵害の話題でいきたいと思います。

 さかのぼってみますと、直木賞の受賞作や候補作で、特定の人物をモデルにしたと言われる小説は、古くからけっこうありますが、そのことが実在の相手や周辺人物たちに問題視され、異議を唱えられた一例が、有馬頼義さんの「終身未決囚」事件です。

 「終身未決囚」は、はじめは同人誌『文学生活』に発表されました。そのときは何の話題にもなりませんでしたが、これを表題作とした短篇集が、第31回(昭和29年/1954年上半期)直木賞を受賞。実際に目にする読者がにわかに増えたことで、早速、口を挟んでくるクレーマーが現われます。評論家の津久井龍雄さんです。

 本作で描かれた登場人物〈宮原基〉は、どう読んでも大川周明がモデルである。歴然と明確なモデルのある小説で、事実と異なるストーリーを都合よく並べたうえ、戦犯の容疑で法廷に立たされた彼が、精神病者と認定されて釈放されたのは、ウソの発狂を装ったからだ、などと大川氏を貶めるような内容を堂々と展開しているのは、大川氏本人や彼を尊敬する多くの人を冒涜するものだ。うんぬん。

 ……という、ヤフーコメントに載っていてもおかしくないような言いがかりを、『出版ニュース』昭和29年/1954年10月上旬号が掲載。同号で有馬さんは、モデルがあったことは事実だが何も大川周明のことを書いた小説ではない、と反論に打って出て、これが他の文学賞だったら議論の盛り上がり方も多少違ったかもしれません。しかし、他ならぬ直木賞をとった作品でもあり、それだけで文学的には数等落ちる、と本気で信じられていた時代です。とくに犯罪認定されることもなく、収束していきます。

 けっきょく直木賞が騒動にさらされることはありませんでしたが、昭和29年/1954年のこの年は、「小説のモデル」問題が、ついに文壇のせせこましい枠を超え、裁判で争われることになった重要な年です。その経緯は、直木賞とは直接の関係がなく、このブログで扱うには不適なんですけど、しかしそこには「純文芸の人たちによる大衆文芸差別」という、直木賞の置かれた当時の文芸状況が密接にからんでいて、その後の直木賞関係の、小説モデル事件を見るうえでも欠かせない歴史的な事件だった、と思います。俗に「幹事長と女秘書」事件と言われる一件です。

 光文社の出していた大衆小説誌『面白倶楽部』に、宮本幹也さん作「幹事長と女秘書」が田代光さんの挿絵付きで載ったのが、昭和29年/1954年11月号のこと。主人公は、疑獄事件の渦中にあり、自民党幹事長の職を辞す決意をかためた代議士、後藤大作と、彼のもとに突如現われた20歳前後の若い女性、若月ミチコで、ミチコの自由奔放な言動にふりまわされる後藤と、彼の実兄で同じく代議士の岸井新介や、古田総理とのやりとりをはじめ、後藤がかつて愛した赤坂の芸者とのあいだには美しい娘がいる、といった逸話を、巧みに入れ込んで読ませる楽しい小説なんですが、なにしろ田代さんの描いた挿絵の人物が、実在の政治家と瓜二つ。だれが何を言わなくてもこれが、当時自由党幹事長を辞めたばかりの佐藤栄作さんをモデルにしていることは、明らかでした。

 本文末尾に「この小説にはモデルはありません」の断りが付けられていましたが、そんな言い訳に何の効果もなく、雑誌発売直後の9月末に、当の佐藤さんが名誉毀損だとして告訴。その直前、光文社の編集部に抗議に乗り込んできたのが、「佐藤氏から世話になっている者だ」という殉国青年隊顧問の男とその部下たち、いわゆるそのスジの、右翼ったコワい人たちだったこともあり、創作の自由をこういう威圧的な手法で封じようというのはおかしいじゃないか、と『面白倶楽部』編集長の丸尾文六さん、作者の宮本幹也さんともに、徹底抗戦の構えを見せます。

 それまで、モデル小説で告訴された平林たい子さん「栄誉夫人」、由起しげ子さん「警視総監の笑い」などは、当事者間の話し合いや、金銭の授受で示談になっていましたが、当案件は被告側が示談を拒否。ついに起訴されるに至り、法廷で争うことになります。

 しかし、このとき文学関係者が見せた反応は、かなり鈍いものでした。

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