昭和47年/1972年・前年につづいて万引きで捕まった小島視英子と、黙ってやり過ごした夫・政二郎。
【鳥取】十二日午後五時五十五分ごろ、鳥取市川端二、鳥取県東部生協(広田幸一組合長)二階衣料品売り場で、中年の女性二人が、くつ下など衣料八点(九千九十円相当)を万引きしたのを、店員が見つけ、鳥取署に突き出した。
同署の調べでは、(引用者中略)作家小島政二郎氏夫人、視英子こと嘉子(四五)と、(引用者中略)無職和田美樹(三〇)で、(引用者中略)調べに対し、視英子は、はじめ和田嘉子と名乗り、万引きは、美樹がやったといい張ったが、追及され二人でやったと自供した。
――『読売新聞』昭和47年/1972年7月13日夕刊「里帰り先で万引き また小島政二郎氏夫人」より
昭和10年/1935年上半期の第1回から、直木賞・芥川賞の兼任で選考委員になった小島政二郎さんは、8年ものあいだ両賞のために尽力した大偉人です。とくに直木賞の予選主査を務めるなど、こちらの賞の礎を築いた人、と紹介しても大げさではありません。
昭和18年/1943年~昭和19年/1944年、戦争中の2年間は任から退きますが、戦後あらためて直木賞の委員に復活。「直木賞は(いや、直木賞といえども)文芸作品を選ばなければならない」という、難しくて険しい道を、頑固な文芸信者として押しすすめ、第54回(昭和40年/1965年・下半期)の選考をもって、主催者側から退任をすすめられたところで、おそらく不本意ながら身をひきます。
時に御年72歳。エッセイ『食いしん坊』で有名な老文士、という立場に甘んじ、もはや大衆文壇の第一線にいるわけでもなく、他の委員に比べて、一般的な人気はさほどなかったでしょう。鶴書房から『小島政二郎全集』の刊行が始まったのは、委員退任後の昭和42年/1967年からですが、当初計画されていた全12巻のうち、3巻を残して続刊は頓挫。余生というか、実質引退状態というか、終わった人というか、基本的には新たな活躍は望めない過去の作家、と見られていたなか、ここで〈小島政二郎〉の名を広く世間に知らしめたのが、昭和41年/1966年から同居、昭和42年/1967年4月に正式に婚姻届を出した32歳下の二番目の妻、視英子さんでした。
自称〈悪妻〉。他称もやはり〈悪妻〉。翔んでるミセスとして、ほんのわずかの期間マスコミの表舞台でも活躍した人です。
本名は嘉壽子といい、視英子というのは小島さんとの結婚後に、姓名判断に従って名乗りはじめた名前だそうです。ともかくオチャメでお転婆、歯に衣着せぬ放言や、だれに対しても物怖じしない屈託のない態度が興味をひかれ、『甘辛春秋』昭和43年/1968年夏号に書いた「マイ・ディア・ドンビキ」をきっかけに、いろいろと執筆の仕事が舞い込むようになり、翌年には『現代不作法教室』(昭和44年/1969年10月・二見書房刊)を刊行。いっぽう小島さんのほうも「若い妻と老いた作家」という題材を得て、私小説への情熱を燃え上がらせると、「眼中の人(その二)」「妻が娘になる時」「美籠と共に私はあるの」などなどを精力的に発表し、昭和45年/1970年1月、中央公論社から作品集『妻が娘になる時』が出たときには、久しぶりに自分の芸術小説の本が出ることになってうれしい! と喜びをあらわにしました。
この「妻が娘に~」は同年、TBSテレビの東芝日曜劇場でドラマ化され、美貌でならした視英子さんは同局「あなたは名探偵」の解答者のひとりに大抜擢。『サンデー毎日』では夫婦そろって対談のホスト役を務める「不作法対談」の連載も始まり、小島政二郎、直木賞委員を退任してからの、まさかの大にぎわいです。視英子さんに負けず劣らず、自分の感情を包み隠さずぶつける小島さんの魅力が、ここにきてさらに花開いた、と言ってもいいでしょう。
そんな「年の差婚」景気が、ばっさりと終わりを告げたのは、昭和46年/1971年6月15日、昭和47年/1972年7月12日、2度にわたる視英子さんの万引きと、それを大きく取り上げた新聞や週刊誌による報道だった。……というわけなんですが、叩くとなったら口きたない表現をこれでもかとつぎ込んで叩く、雑誌ライターの煽り立てるような文章・文体は、当然この時代も健在。ちょっと名のあるエロ爺いに取り入って、ちゃっかり妻の座におさまると、調子に乗っていろいろと顔を出すようになったけど、何だ、けっきょく幼稚な犯罪者じゃないか、といった感じの、他人を糾弾するときのライターたちのわくわく感が、どの記事からもよく伝わってきます。
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