昭和59年/1984年・「ロス疑惑」報道事件でゴシップメディアに重宝された小林久三。
ロス疑惑事件をめぐる記事で名誉を傷つけられたとして、三浦和義被告(四九)が新聞社に損害賠償を求めた二件の訴訟の上告審判決が二十七日、最高裁第三小法廷であった。
(引用者中略)
夕刊フジの発行元の産経新聞社と作家の小林久三氏に計五百万円の慰謝料を求めた訴訟では、二審判決が「夕刊紙は、帰宅途上のサラリーマンを対象として主に興味本位の記事を掲載するもの。読者は大げさな憶測記事として一読したに過ぎない」としていた。
しかし、この日の判決で園部逸夫裁判長は「興味本位の編集方針をとっていても、報道媒体である以上は、読者も記事がおしなべて根も葉もないものと認識しているものではなく、記事にいくぶんかの真実も含まれているものと考えている」と述べて、二審判決を破棄し、東京高裁に審理を差し戻した。
――『朝日新聞』平成9年/1997年5月27日夕刊「「夕刊紙にも真実ある」 名誉棄損に新判断 ロス疑惑で最高裁判決」より
犯罪事件が起こると、それに対して当事者や捜査機関ではない第三者の立場から意見や推論を述べる、あまり尊敬されない役割を担う人が登場します。〈コメンテーター〉と呼ばれたりします。
さまざまな職種の人が、その役割を押しつけられ、また自ら望んで担ってきましたが、伝統的に重宝されてきた職種のひとつが、推理小説作家です。
直木賞と縁のある作家のなかからも、やはり何人かが狩りだされ、犯罪史ならぬ日本の犯罪報道史を色どり豊かに彩ってきました。とくに昭和50年代から平成はじめごろにかけて、多くのメディアに登場、どこか胡散くささをまといながら、しかし大きな功績を残した人といって思い浮かぶのが、直木賞候補者、小林久三さんです。
小林さんは、もとは松竹で映画の制作に携わり、助監督時代にはストーリーや脚本を書いたりしていた人ですが、昭和47年/1972年に冬木鋭介のペンネームでサンデー毎日新人賞(推理小説部門)を受賞、2年後、「暗黒告知」で江戸川乱歩賞を受賞し、それがそのまま直木賞の候補にも残って、小説家としての道が開けます。次第に活動分野はひろがって、週刊誌、スポーツ紙、夕刊紙といった、ちょっといかがわしいけど、楽しさ満点の、大衆向けメディアにも積極的に登板、多忙な作家生活を送ります。
そんな小林さんが昭和57年/1982年に見舞われたのが、盗用・盗作事件です。
明らかに小林久三の作品は盗作だ! と思いっきり全国紙の紙面で糾弾されることになったのは、『週刊大衆』に連載した「ノンフィクション・ノベル 帝銀事件」および、『小説現代』に発表した小説「マッカーサー謀殺事件」が、轍寅次郎こと和多田進さんの出版した『追跡・帝銀事件』の内容を大きくパクったもので、転用・借用、数限りなく、許容範囲を超えていて、参考資料にしたという言い訳は成り立たない、として和多田さんが抗議。裁判も辞さないとする和多田さん、それなら受けて立つと構える小林さん、双方の主張を報じたのが、『読売新聞』昭和57年/1982年7月3日夕刊の記事「売れっ子推理作家 小林久三氏 「帝銀事件」盗作トラブル」でした。
この記事になるまでに、両者は代理人を通じて話し合いをもち、謝罪文の掲載、慰謝料の支払いなど、示談の要件を詰めようとしていたけれど、折り合いがつかず、ということで表沙汰になった感じですが、その後、両者の知人でもあった森村誠一さんがあいだに入り、和解金200万円の支払い、単行本化は見送る、ということを条件にして昭和57年/1982年10月29日に双方和解(昭和58年/1983年6月・幸洋出版刊 片野勧・著『マスコミ裁判―戦後編』)。立件されることもなく、また某かの文学賞の候補に挙げられていたわけでもなかったので、「○○賞は死んだ」などと、まわりから煽り立てる声も起こらずに、穏便なところに着地します。
被害を訴える側は、これは明らかな盗作だと主張し、訴えられた本人も、たしかに参考にしたのは事実だと認めている。それでも、作家生命が断たれるほどのことはなく、先の道を歩んでいくのが一般的な展開です。小林さんも例に洩れません。「推理作家」の看板を降ろすことはなく、歴史に関する文献を読み込み、気になる犯罪事件があれば取材し、求められれば、事件に対する自分の感想や推理もお話しする。相変らず仕事に忙しい日々を送りました。
というところで、昭和59年/1984年に小林さんが遭遇した、遭遇してしまうことになったひとつの事件があります。さかのぼること約2年前、昭和56年/1981年11月18日に、三浦一美さんがロサンゼルスで銃撃された事件の真相をさぐるという名目で、夫・三浦和義さんを追いまわす、度を超えた過熱報道が日本中を席巻した、という事件です。
○
日本中、とは言いましたが、日本のあまねく国民が、いわゆる「ロス疑惑」報道に関心があったわけじゃありません。一人の犯罪者、いや犯罪者だったかもしれない人の、生い立ち、親戚・交友関係、趣味嗜好、発言、行動などが、根掘り葉掘り取り上げられていることを、はっきり言ってどうでもいい、と思っていた人も多くいたでしょう。
著名人のなかにも、コメントを求められて、断った人もいたはずですし、自分で捜査できるわけじゃなく、資料も万全に入手できる立場でないからと、「疑惑」レベルの段階での発言は自重するほうが常識的な反応だった、と言えるかもしれません。
しかし、「事件があればコメントする」というのが重要な仕事のひとつでもあった小林さんは、ここで逃げません。「推理の専門家」として発言します。テレビに出て、週刊誌、新聞に矢継ぎ早にコメントを載せ、推理したストーリーを発表していきます。
おそらく追い打ちをかけたのは、昭和59年/1984年2月ごろ、ちょうど『週刊文春』が1月26日号から「疑惑の銃弾」の連載を開始、一気に注目を集め、小林さんもいろいろコメントしはじめた矢先に、当の三浦さんからいきなり電話がかかってきたことでしょう。渦中の人物とつながりができ、電話で何度か話した末に、3月には4時間ほどのインタビューに成功。「どうも三浦氏は、私の推理や考え方を評価してくれているらしい」という自負が、小林さんに芽生えたらしいことが、『小説新潮臨時増刊 昭和名作推理小説』(平成1年/1989年5月)の「三浦和義の溜息」からうかがえます。
以後、「ロス疑惑」に関連して、小林さんはいったいどれだけ大量のコメントを発信したことでしょうか。それらが単行本にまとめられるはずもなく、また調べ尽くす気力も沸いてきませんが、これを丹念に調べ上げ、いくつか告訴にまで持っていった人がいます。三浦さん本人です。
勾留中に『創』に寄稿した文章で、三浦さんは小林さんの欠陥を、鋭く突いてみせています。
「報知新聞は“三浦逮捕一周年”という事からでしょうか。(引用者注:昭和61年/1986年)九月五日付紙面から、「三浦再逮捕へ秒読み――小林久三氏の取材ノートから――」という連載を開始しました。(引用者中略)目を通していて気が付いたのは、ロスでの銃撃事件の目撃者の話が至る所に出てくるのですが、小林氏はこれらの人々に直接会って話を聞いているのだろうか? ということでした。
(引用者中略)
小林さんは、(引用者中略)様々に編集され、質問の聞き方一つで微妙に変わってくる証言をテレビが放映するままに断片的に見て、それらのものを集めた上で取材ノートと称して、一人の人間を逮捕させるように煽動的な文章を書かれたのでしょうか?
実に、この小林氏の姿勢こそが“三浦報道”の一典型であるといえるのです。(『創』昭和61年/1986年12月号 三浦和義「獄中手記 検証“三浦報道”〈第一回〉“三浦報道”の本質を示した小林久三レポート」より)
三浦さんは獄中から次々にメディアを相手取った名誉毀損の裁判を起こしますが、その相手には当然小林さんも含まれていました。いくつか挙げてみます。
●『週刊現代』(講談社)昭和59年/1984年の記事4本
→平成3年/1991年11月28日東京地裁判決 賠償金180万円支払い(請求額計3200万円)
●『週刊現代』(講談社)昭和59年/1984年6月30日号の記事
→平成4年/1992年9月29日東京地裁判決 賠償金40万円支払い(請求額計500万円)
●『夕刊フジ』(産経新聞社)昭和62年/1987年9月6日付、10月2日付の記事
→平成4年/1992年10月26日東京地裁判決 賠償金500万円請求棄却
→平成5年/1993年2月23日東京高裁控訴審判決 一審判決を支持、控訴棄却
→平成9年/1997年5月27日最高裁上告審判決 二審判決を破棄、審理差戻し
→平成10年/1998年1月28日東京高裁 35万円支払いで和解成立(10月2日付の記事)
→平成10年/1998年2月13日東京高裁 50万円支払いで和解成立(9月6日付の記事)
●『報知新聞』(報知新聞社)昭和63年/1988年10月23日付の記事
→平成5年/1993年2月22日東京地裁判決 賠償金30万円支払い(請求額計500万円)
●『東京スポーツ』(東京スポーツ新聞社)昭和60年/1985年9月13日付~10月22日付の記事5本
→平成5年/1993年3月22日東京地裁判決 賠償金100万円支払い
●『週刊現代』(講談社)昭和59年/1984年5月26日号の記事
→平成5年/1993年7月30日東京地裁判決 賠償金40万円支払い
●『東京スポーツ』(東京スポーツ新聞社)昭和62年/1987年2月14日付の記事
→平成5年/1993年11月22日東京地裁判決 賠償金請求棄却
これでも一部かもしれません。だいたいは、小林さんとメディア側が敗訴しました。
なかでも『夕刊フジ』掲載の記事に対する裁判は、一審・二審とも三浦さんの訴えをしりぞけたのに、最高裁で逆転。「夕刊紙なんてものは基本、帰宅途中のサラリーマンが興味本位で読み流すもので、そんなところに真実が書かれているとは誰も思わない」という下級審の判決に、いや、そんなことないだろ、と突っ込みが入った、人権・プライバシーを重く見る画期的な判決、ということだそうです。
小林さんも「推理・推論」というのを楯に、いろいろなところに顔を出しすぎて、大きなしっぺ返しを食らってしまった。という一連の、ロス疑惑報道判決だったんですが、これでもなお、作家生命を絶つわけではなく、その後も職業作家として、大きなものから小さなものまで無数の仕事をこなし、「重大事件のことなら何でも語れる、推理のスペシャリスト」として活躍を続けた小林さんの、ひたむきで貪欲な姿には、もはや脱帽するより他ありません。
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