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2018年7月29日 (日)

昭和47年/1972年・前年につづいて万引きで捕まった小島視英子と、黙ってやり過ごした夫・政二郎。

【鳥取】十二日午後五時五十五分ごろ、鳥取市川端二、鳥取県東部生協(広田幸一組合長)二階衣料品売り場で、中年の女性二人が、くつ下など衣料八点(九千九十円相当)を万引きしたのを、店員が見つけ、鳥取署に突き出した。

同署の調べでは、(引用者中略)作家小島政二郎氏夫人、視英子こと嘉子(四五)と、(引用者中略)無職和田美樹(三〇)で、(引用者中略)調べに対し、視英子は、はじめ和田嘉子と名乗り、万引きは、美樹がやったといい張ったが、追及され二人でやったと自供した。

――『読売新聞』昭和47年/1972年7月13日夕刊「里帰り先で万引き また小島政二郎氏夫人」より

 昭和10年/1935年上半期の第1回から、直木賞・芥川賞の兼任で選考委員になった小島政二郎さんは、8年ものあいだ両賞のために尽力した大偉人です。とくに直木賞の予選主査を務めるなど、こちらの賞の礎を築いた人、と紹介しても大げさではありません。

 昭和18年/1943年~昭和19年/1944年、戦争中の2年間は任から退きますが、戦後あらためて直木賞の委員に復活。「直木賞は(いや、直木賞といえども)文芸作品を選ばなければならない」という、難しくて険しい道を、頑固な文芸信者として押しすすめ、第54回(昭和40年/1965年・下半期)の選考をもって、主催者側から退任をすすめられたところで、おそらく不本意ながら身をひきます。

 時に御年72歳。エッセイ『食いしん坊』で有名な老文士、という立場に甘んじ、もはや大衆文壇の第一線にいるわけでもなく、他の委員に比べて、一般的な人気はさほどなかったでしょう。鶴書房から『小島政二郎全集』の刊行が始まったのは、委員退任後の昭和42年/1967年からですが、当初計画されていた全12巻のうち、3巻を残して続刊は頓挫。余生というか、実質引退状態というか、終わった人というか、基本的には新たな活躍は望めない過去の作家、と見られていたなか、ここで〈小島政二郎〉の名を広く世間に知らしめたのが、昭和41年/1966年から同居、昭和42年/1967年4月に正式に婚姻届を出した32歳下の二番目の妻、視英子さんでした。

 自称〈悪妻〉。他称もやはり〈悪妻〉。翔んでるミセスとして、ほんのわずかの期間マスコミの表舞台でも活躍した人です。

 本名は嘉壽子といい、視英子というのは小島さんとの結婚後に、姓名判断に従って名乗りはじめた名前だそうです。ともかくオチャメでお転婆、歯に衣着せぬ放言や、だれに対しても物怖じしない屈託のない態度が興味をひかれ、『甘辛春秋』昭和43年/1968年夏号に書いた「マイ・ディア・ドンビキ」をきっかけに、いろいろと執筆の仕事が舞い込むようになり、翌年には『現代不作法教室』(昭和44年/1969年10月・二見書房刊)を刊行。いっぽう小島さんのほうも「若い妻と老いた作家」という題材を得て、私小説への情熱を燃え上がらせると、「眼中の人(その二)」「妻が娘になる時」「美籠と共に私はあるの」などなどを精力的に発表し、昭和45年/1970年1月、中央公論社から作品集『妻が娘になる時』が出たときには、久しぶりに自分の芸術小説の本が出ることになってうれしい! と喜びをあらわにしました。

 この「妻が娘に~」は同年、TBSテレビの東芝日曜劇場でドラマ化され、美貌でならした視英子さんは同局「あなたは名探偵」の解答者のひとりに大抜擢。『サンデー毎日』では夫婦そろって対談のホスト役を務める「不作法対談」の連載も始まり、小島政二郎、直木賞委員を退任してからの、まさかの大にぎわいです。視英子さんに負けず劣らず、自分の感情を包み隠さずぶつける小島さんの魅力が、ここにきてさらに花開いた、と言ってもいいでしょう。

 そんな「年の差婚」景気が、ばっさりと終わりを告げたのは、昭和46年/1971年6月15日、昭和47年/1972年7月12日、2度にわたる視英子さんの万引きと、それを大きく取り上げた新聞や週刊誌による報道だった。……というわけなんですが、叩くとなったら口きたない表現をこれでもかとつぎ込んで叩く、雑誌ライターの煽り立てるような文章・文体は、当然この時代も健在。ちょっと名のあるエロ爺いに取り入って、ちゃっかり妻の座におさまると、調子に乗っていろいろと顔を出すようになったけど、何だ、けっきょく幼稚な犯罪者じゃないか、といった感じの、他人を糾弾するときのライターたちのわくわく感が、どの記事からもよく伝わってきます。

          ○

 そういうなかでも、『週刊サンケイ』昭和46年/1971年7月12日号「おんな46歳!万引きした小島政二郎氏夫人」に登場したなだいなださんは、かなり冷静なコメントを残したひとりです。こんな万引き事件は特別珍しいことでもない、騒ぎになったのは、単に有名人の妻だからってことでしょう、とあっさり言い切り、問題は視英子さんの言動というより、有名人の不祥事なら好んで取り上げたがるメディア全般のほうにある、と暗に指摘しています。

 たしかにそのとおりです。とくに一回目などは、警察が微罪処分にすることに決め、とても新聞で取り上げられるほどの事件ではなかったのに、たまたま現場に居合わせたトラック運転手27歳の男が、万引きしたのが有名人らしいと知り、各メディアに情報を売り込んだところから、公にさらされることになった、という経緯があります。善意か悪意かわかりませんが、とにかく一般の市民が、そういう著名人の犯罪ゴトに過敏に反応する社会でなければ、まず穏便に済んでいたでしょう。

 それが一度ならず二度も重ったのです。視英子さんの、マスコミ業界への再起は絶望的になりました。

 さて、ここで政二郎さんはどういう行動に出たでしょうか。

 「小娘のくせに」(『小説新潮』昭和47年/1972年11月号)を発表して以降、「若い妻と老いた作家」シリーズの小説は書かなくなり、マスコミのインタビューも断固として拒絶。さらには、視英子さん本人に対してさえ、万引きの件を問いただすこともなかったと言います。とにかく黙って、騒ぎが過ぎるのを待つことを選んだ、というわけです。

 妻が不祥事を起こしたんだ反省もするだろうし消沈して静かにするのが当り前だ、と正義感あふれる人なら思うかもしれません。しかし、いかにも世間の目など気にしそうにない小島さんが、そんなことで引き下がるのは、やはり奇妙に思えます。

 と、ここまで書いてくるうちに、山田幸伯『敵中の人 評伝・小島政二郎』(平成27年/2015年12月・白水社刊)をかなり参照してきたんですが、何よりこの山田さん、小島さんは当然のこと、視英子さんとも数多く接していた方です。当時、じっさいにはどうだったのか。事件から数年たった二人の様子を、こんなふうにとらえています。

「私(引用者注:著者山田のこと)が父津田信に連れられ小島邸に出入りし始めたのは、それからさらに二年ほど経った頃(引用者注:昭和49年/1974年頃)だったと思う。それぞれに内心の屈託はあったのだろうが、私の目には平穏な夫妻に見えた。互いに言いたいことをぶつけ合い、口は悪い。殊に妻は明け透けで遠慮がないから、時折聞いていてハラハラすることもあったが、夫は泰然たるもので、もう相手の性格を呑み込んでいたのだろう、安定感があった。我々親子を交えた小島家での座談のテープが数時間分残っているが、そこに笑いが絶えないのは、夫婦共にあくまで陽性で楽天的であったからだ。」(『敵中の人 評伝・小島政二郎』「第五章 立原正秋 食通幻影」より)

 年長者ならではの包容力。というより、この女性とこれからも永く暮らしていくための諦観を、小島さんは身につけたのではないか、ということです。

 なにしろ小島さんといえば私小説の信奉者です。直木賞の選考委員だったころから、それはもう、孤軍奮闘で私小説を応援していました。妻の二度の万引き事件だって、小説の題材にしてもおかしくはありません。

 しかしそれでも昭和47年/1972年以降、夫婦生活を創作に落とし込んでいくことをやめたのは、単なるゴシップを、世間の興味をひきたくて小説にするわけじゃない、という小島さんの美学があったからでしょうか。いや、あるいはマスコミにバレずに穏便に済んでいたら、いつか小説に書いたかもしれません。この辺は、話題性や時事性に突っ走るゴシップ記事と、そことは距離を置きながら結果ゴシップ的になってしまう私小説との、スリリングな駆け引きが見て取れるところでもあります。

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