昭和9年/1934年・第二次文士賭博事件で、新聞社に憤慨した菊池寛。
有閑不善のバチルス麻雀賭博は先に久米正雄、里見弴氏等一流文士の大檢擧により同好者を戰慄せしめ一時その病根を絶やしたかと思はれたが、(中略)十六日午前五時を期し浦川捜査課長、田多羅係長、渡邊警部補以下卅名の刑事隊を動員し文字通り疾風的に關係者の寢込みを襲ひ、更に同日午後も引續き檢擧洩れの關係者を追窮して徹底的大檢擧を行つた、
(中略)
更に驚くべきことにはこの麻雀の一群は、同好の士の訃に接するやその靈を慰めると稱しては千點十圓の大賭博を開帳してゐたことが判明した(中略)三月一日には芝區田村町の吾妻屋旅館の一室で故直木三十五氏の靈を弔ふと稱して福田蘭童、多賀谷信乃、川崎備寛、淵川銀次諸氏で同樣千點十圓の麻雀を開いてゐたものである
――昭和9年/1934年3月17日『都新聞』「麻雀賭博檢擧 文士畫家重役」(昭和40年/1965年5月・明治大正昭和新聞研究会刊『新聞集成 昭和編年史九年』より)
だれか親しい人の死に接したとき、生きた人間たちはさまざまな行動をとりますが、そのいくつかは時代の記録に刻まれることがあります。われらが直木賞もその末席を汚す、しがない追悼企画のひとつですけど、人気絶頂の大衆作家と目された直木三十五が、昭和9年/1934年2月24日、43歳で亡くなったことに端を発する現象は、文学賞の創設だけに限りません。
ここで出てくるのが、とある犯罪事件です。昭和8年/1933年から昭和9年/1934年にかけて俗世を騒がせたと伝えられる、文士賭博事件というものがありました。
なにしろ世を騒がせたぐらいなので、この事件には数多くの回想、解釈、言い分が関係各所にあふれ返っており、とうてい全貌は把握しきれませんが、概略をまとめてみるとこうなります。
昭和8年/1933年11月、東京市下で富裕な婦人や娘に金を貢がせては、淫靡な関係を結んで遊び、帝都の風紀を乱しているとして、ダンスホールで教師をしていた木村政雄こと車均敞や、田村一男などが警察に引致、取り調べを受けたところ、田村に令嬢や有閑マダムを斡旋していた人物として浮かび上がったのが、吉井勇伯爵夫人の徳子です。同月16日、徳子は警視庁に連行され、翌日から取り調べが始まりますが、彼女の証言によって、文士や画家たちのあいだで常習的に花札や麻雀の賭博が横行していることが判明したため、17日午後6時ごろから、名前の挙がった人たちが次々と検挙される事態となります。
このとき対象となったのは、里見弴とその妻山内まさ、および内妻遠藤喜久、佐佐木茂索とその妻ふさ、中戸川吉二とその妻富枝、久米正雄とその妻艶子、小穴隆一、あるいは美川きよ、川口松太郎、島源四郎、野村真一郎、文藝家協会書記の松本喜郎といった面々で、みな賭博の事実はおおむね認めるいっぽうで、「娯楽でやっていたので悪いこととは思わなかった」と口々に言い、菊池寛が身許引き受けの一札を警察に提出したことが効いたのか、18日早朝には、おのおの釈放。まもなく書類送検され、翌年1月には里見と喜久、佐佐木、久米、中戸川、小穴、野村、島、徳子の9名が起訴、略式での罰金刑、と報じられました。
しかし、賭け事をやっているのは彼らだけじゃないぞ、という情報を入手した警視庁は、その後も内偵を進め、さらに大勢の被疑者に目をつけると、検挙劇の興奮いまだくすぶる昭和9年/1934年3月16日、麻雀クラブの支配人たちを中心に、常習で麻雀賭博に興じていた医師、実業家、文士、画家などを一斉検挙。広津和郎とその内妻松沢はま、東郷青児などにつづいて、明けて17日には、菊池寛、大下宇陀児、甲賀三郎、海野十三といった文士から、松竹の女優、飯田蝶子、八雲理恵子、筑波雪子まで、いっそう名の知れた人たちも連行されることになり、俄然と芸能ゴシップ屋の目をランランとさせる展開を引き寄せます。
そうはいっても、だいたいが微罪中の微罪だったらしく、有名どころはすぐに釈放され、結局、警察が著名人にまで手を出したのは、世間の耳目を引こうという魂胆だったのではないか、と言われることになったこちらが、俗にいう「第二次文士賭博事件」です。
うち、直木さんの死に関係しているのは、第二次のほうで、生前大いに可愛がられた福田蘭童さん(尺八奏者)などが2月24日の訃報に接してその死を悲しみ、3月1日、直木さんを追善するための麻雀会を、芝区田村町にあった東屋(吾妻屋)旅館で開催。多賀谷信乃(画家)、川崎備寛(文士)、淵川銀次(貴金属商)といったメンツの参集を見て、千符10円くらいの賭博を行っていたことが明らかになり、最終的に同年5月、この4人は起訴されることが決定して、略式命令による罰金刑が言い渡されました。
死んでからこんなところに名前が出てきて、直木さんからすれば、トんだトバッちりだ、という感じかもしれませんけど、ともかくもこの事件は、直木賞が創設された時代背景をよく伝えてくれるものだと思います。
当時の文芸界をとりまいていた国家権力と、遊興と、マスコミ、という三つの要素が勢揃いするなかで、文藝春秋社という、品行方正とは程遠いところにあった雑誌社が、そのいずれにも深く関与していた、ということです。そこには、直木賞がつくられる下地として、三つの要素が奇妙にからみ合う様子をうかがうことができるでしょう。
○
昭和8年/1933年から昭和9年/1934年の、国家と遊興とマスコミ。全部に触れていると、確実に収拾がつかなくなるので、相当ハナシを絞ります。
ひとつに、国家権力との関係でいうと、当時、直木三十五という、柄の悪いヤカラのような大衆作家が、三上於菟吉たちといっしょに、警保局長の松本学と面会を重ね、国家から一方的に弾圧を受けて被害に遇う文士、という構図を打開し、お互い話し合いのうえで文芸院といった公的な機関をつくることができないか、と動いていたことが挙げられます。
直木さんと仲のよかった菊池寛さんも、それには結構乗り気だったようですが、当の中心にいた直木さんが急死してしまい、しかも、むかし直木さんと雀卓を囲んで賭けをしていたことがある、という話が警察に伝わったせいなのか、直木追善の麻雀会が開かれた関係で、いきなり菊池さんまで身柄を拘束されることになって、風向きが大きく変わります。
その変化の一端を菊池さんが明かしているのが、下記の「話の屑籠」です。
「諸君も御存じの通り、つまらない事件を起して、甚だ不愉快な思ひをした。
(引用者中略)
当局の態度よりも、もつとシャクにさはるのは、新聞社の態度である。某々新聞の如きその記者達が麻雀で検挙されたならば、新聞が出なくなるだらうと云ふ噂があるにも拘はらず、他人の事だとなると、あらゆるいやがらせの筆法を用ゐて、書いてゐるのである。いゝ気なものである。
(引用者中略)
同じ内閣の一人の役人から、不愉快な目に逢はされながら、他の役人との懇談会に出るなどは、イヤだから、今後は松本警保局長の会には出ないことにする。」(『文藝春秋』昭和9年/1934年5月号「話の屑籠」より)
菊池さん自ら、文芸院構想の活動から離脱しました。要するに、賭け麻雀などという微罪、しかも直木さんが生きていた数年前に少しやっていた程度のことで、いきなり検挙の手を伸ばしてきた国家権力の一部に、腹を立てたからです。
文芸院の構想では、このときすでに、文学賞をつくろう、と議題に挙がっていたといいます。……まもなく文芸懇話会として実現するそちらの組織に、このまま菊池さんが参加していたら、当時まだ準備の緒についたばかりの直木賞・芥川賞も、いまとは違ったかたちで創設されたことでしょう。
もうひとつ、この賭博事件から、あとにまで尾を引いたのが、菊池さんと新聞報道との対決姿勢です。
引用文に、新聞社の態度に対する不平不満が見えていますが、第二次賭博事件で、文壇の大御所・菊池寛検挙! の報を最も扇情的に大きく取り上げたのは『東京朝日新聞』だったと言われています。いっぽう、大手ライバル紙『東京日日新聞』は正反対に、菊池さんについては静観黙殺。大宅壮一さんの説によると、ちょうど前後して『大阪毎日』『東京日日』(いわゆる〈大毎・東日〉)は菊池さんとのあいだに、学芸部顧問として迎え入れる契約を結んだため、自社の関係者だから配慮して記事にしなかっただけだ、『東京朝日』は他社に持っていかれた人だから遠慮なく醜聞暴露に走ったのだ、ということだそうです(「世相一束」)。
その伝でいうと、もしもこのとき『東京朝日』が温情な報道をしていれば、菊池さんも怒ったりしなかったでしょうし、それから一年半後に直木賞・芥川賞の発表記事を、他社と同様に『東京朝日』も掲載することになって、菊池さん伝説の新聞社批判「一行も書いてくれない新聞社があったのには、憤慨した」という文章も、書かれなかったかもしれません。逆にいえば、第1回両賞の発表を『東京朝日』が載せなかったのは、文士賭博の報道をめぐる菊池さんとの、意識の衝突があったからで、そもそも菊池さんがなぜ検挙されたかといえば、直木さんに関する麻雀賭博の開帳があったからだ……と臆測してもいいような、事情と事情のからみ合いが、直木賞のつくられる昭和9年/1934年から昭和10年/1935年に起きていました。
そう考えると、直木賞の創設まわりと、文士賭博事件とは、ほとんど根っこが同じの、近接した現象だったと言っていいと思います。
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