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2018年6月17日 (日)

昭和40年/1965年・シミショウセクシー文学事件から、10年ほど後に改名した胡桃沢耕史。

警視庁保安課は十七日までに神奈川県鎌倉市二階堂二四七作家清水正二郎(四一)をワイセツ文書販売、同目的所持の疑いで取調べ、出版関係者五人とともに書類送検した。これと同時に十七日までに(中略)去る三月から清水が書いた六十二種の単行本のうち、四十五種計四万一千冊余を押収した。

――昭和40年/1965年12月18日『朝日新聞』夕刊「清水正二郎ら書類送検 ワイセツ文書販売など」より

 他人に対する憎悪と怨嗟で生きている、と言いながら、パフォーマンスや自己売り込みをやってのけ、直木賞史上もっともパンクな作家人生を歩んだ受賞者、と称されることになった胡桃沢耕史さんは、呼吸をするようにゴシップを生産してしまう、という特異な人柄からか、うちのブログでも何度となく取り上げてきました。「犯罪」の観点から見ても間違いなく、忘れることのできない人物です。

 数々ある胡桃沢さん関連の犯罪事件のうち、いちばん有名で、根が深く、また直木賞も関わっているのが、昭和24年/1949年「暁に祈る」事件でしょう。

 胡桃沢さんが清水正二郎の名ではじめて出版した、自費出版だったとも言われる『国境物語』(昭和24年/1949年)は、ぼくはカルチャーセンターに通う主婦みたいに自分の体験そのままの小説は書かない、と豪語するようになる胡桃沢さんの、原点と言ってもいい作品で、モンゴル・ウランバートルの俘虜収容所に抑留されたときの自身の体験を軸としながらも、伝聞、取材、脚色、妄想をふんだんに盛り込んで物語性を高め、いかにもホントのことっぽく仕立てた小説ですが、最大のセールスポイントは、昭和24年/1949年3月15日に『朝日新聞』に掲載され、じつはデッチあげだったと一説に言われる記事から始まった「暁に祈る」事件の実態を、元吉村隊員という触れこみの書き手が、その残虐で非人道的な私刑の様子を描いた、というところにあります。

 ここで胡桃沢さんは『週刊朝日』の座談会に声がかかって出席するなど、あたかもこの事件の暗部を知るスポークスマン役を買って出て乗りだしていくと、吉村久佳=本名・池田重善以外にも悪人はまだまだいる、そのひとりが永井正だと、同誌5月1日号に載った手記(のような小説)「パン」のなかで糾弾、当の永井さんから名誉毀損で告訴される流れになったらなったで、「パン」の内容は創作だったと自分で認めながら、それでも強硬に対決姿勢を崩さない、というハートの強さを見せつけます。

 何よりも、どんなことを言えば話題になるのか把握し、実際にそういう言動をとるだけじゃなく、あまりに仕掛けてやろうという鼻息が荒すぎて、周囲がドン引きしてしまう、この展開が、のちの胡桃沢さんの原点だ、と言える点でしょう。三食ナマ肉を食べる性豪とか、一日に三発やらないと鼻血が止まらないとか、四人も五人も愛人を抱えているとか、性の面で脚光を浴びたときにしきりに繰り返した自己アピールに、一脈通じるものがあります。

 自分の受けた苦しみは、生涯忘れないしつこさ、というのも胡桃沢さんが終生言い続けた特徴です。現に、創作の原点にもなった抑留体験を常に大事に温めて、清水正二郎の名を捨てて新しい筆名になっても、その記憶と手法は捨てず、もう一度改めて書き直した『黒パン俘虜記』が、念願の直木賞受賞作となるのですから、作家として筋が通っている、と言えば、そう言えるのかもしれません。

 その胡桃沢さんが、刑事事件の被告となったのが昭和40年/1965年に送検された、猥褻文書販売・販売目的所持による、いわゆる「シミショウセクシー文学」事件でした。

 アンダーグラウンド小説界の帝王、隠れた流行作家と呼ばれた胡桃沢さん、いや当時は清水正二郎の筆名でしたが、昭和40年/1965年3月に『世界秘密文学選書』(浪速書房)の26点が摘発、5月から7月にかけて13点が追加されると、12月にはさらに4点、計43点が当局から猥褻文書とされて、検察に送られます。

 かつて、他の翻訳家のことを勉強が足りないとケナし、合法のなかで訳しきる技量があるのは自分一人しかいない、と言っていた胡桃沢さんでしたが、いざ違法だと摘発されて裁判となると、猥褻のどこが悪いのか、猥褻とは何なのかを論争したかったが向こうは相手にしてくれない、と検察批判を繰り出し、おれは検察ににらまれているが一度も留置所に入れられたことがないんだ、と呵呵大笑する有り様で、この強がりというか、負け惜しみというか、腹の底が見えない感じは、まったく変わりません。

 その打たれ強いはずの胡桃沢さんが、一斉40数点を猥褻文書と認定されて送検された昭和40年/1965年から、10年以上も経った昭和51年/1976年に筆名を変えたのは、いかなる理由があったのか。これがまた、謎ちゅうの謎に包まれています。

          ○

 なぜ謎に包まれているのか。胡桃沢さんが、その場その場で違うことを言ったのか、まとめたライターたちの受け取り方にブレがあったのか、ともかく〈シミショウ〉をやめた理由がひとつに特定できないからです。

 まず考えられるのは、〈シミショウ〉の有名度の限界を知ったから、ということが挙げられます。胡桃沢さんは「徴兵反対同志会平和党」というこじんまりした組織をつくり、昭和44年/1969年12月、衆議院選挙に東京五区(豊島・練馬)から出馬しました。とりあえずは知名な作家ということで、選挙事務所を仕切ったルポライター岩崎晋也さんは、区内有権者61万7千人のうち、清水正二郎の名前を知っているのは15万人ぐらいいるはず、と踏んだといいます。徴兵制復活反対、という一本の政策を主張して選挙を戦いましたが、当然といおうか、何といおうか、結果は大惨敗。

 この落選が〈シミショウ〉の筆を折らせるきっかけになった、と紹介するのが、『中央公論』昭和58年/1983年9月号の記事です。

「清水正二郎の名は、たとえ有名であっても誰もまともに相手にはしてくれない――シミショウはそのことにショックを受け、筆を折る。」(『中央公論』昭和58年/1983年9月号「人物交差点」より ―署名:(司))

 いかにも、それまではシミショウの名で、まともに相手にされていたかのようなストーリーを組み立てています。

 いまひとつ想定されるのは、猥褻文書販売の罪で有罪判決を受けたから、という理由です。送検されてのち、東京地裁で争った一審では有罪、二審の東京高裁も昭和44年/1969年11月に、これを支持しました。『創』昭和56年/1981年5月号の特集「戦後猥褻裁判史」では、懲役6か月、執行猶予2年の宣告を受けた、と書かれています。

 もはや有罪となった作家が、その世界で仕事をつづけるのは難しく、しかも〈ポルノ〉〈エロ〉という看板は、今後一般文芸で活動していくときにマイナスでしかない。かつてオール新人杯を受賞したときの選考委員のひとりで、『近代説話』の後援者でもあり、ずっと胡桃沢さんの行く末を気にかけてくれた海音寺潮五郎さんからも、名前を変えたほうがいい、とアドバイスされた、ということです。

 あるいは、

「正直、エロ本を書くのが虚しくなった。四十四年からは一冊も書いていません。」(『週刊文春』昭和56年/1981年5月14日号「“絶倫作家”清水正二郎 大変身までの苦節十余年」より)

 という胡桃沢さんの自己申告があります。「清水正二郎」の名を捨てたと言われる昭和50年/1975年は、胡桃沢さん50歳の年。謎ちゅうの謎、というのはワタクシの言いすぎで、エロで押し通してきて、本を売る道を断たれる、選挙でも効果なし、まわりはみんな出世していく、残ったのは周囲の冷笑のみ、というなかで気力も萎えた、というのが普通に考えて常識的な線かもしれません。

 そして次に、胡桃沢さんの目のつけたのが、エロから直木賞への転換でした。あの往年の悪名高きシミショウが改名してまで「直木賞が欲しい」「直木賞をとってやる」と声高に叫んでいる、ということで人の注目が向くことを知り、その言動は次第に加速。犯罪者から一転受賞者に、という劇的なシナリオを、現実のものにすることに成功して、悪名の染みついていそうな多くの作家たちに勇気と希望を与えることになり、よかったと思いますが、まわりの冷笑などまったく構わず、露悪的な放言を繰り返す……という、「暁に祈る」のころや、セクシー文学で売り出していたころと、ほとんど変わらないやり方を、懲りずに貫いた胡桃沢さんの、骨の太さが光ります。

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