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2018年6月24日 (日)

昭和27年/1952年・新宿火炎ビン事件で刑務所に入れられた小林勝。

一昨年の朝鮮動乱二周年記念日に新宿スケートリンクで開かれた「国際平和の集い」に集った群衆の流れが新宿駅前東交番などを襲い火炎ビンを投げつけ集団暴動を働いた事件の判決公判は十日午前十時五十分から東京地裁二十一号法廷で加納裁判長係で開かれ、次の判決言渡しがあった。

▽懲役一年、小林勝(求刑懲役三年)公務執行妨害、銃砲刀剣所持違反

――昭和29年/1954年7月10日『毎日新聞』夕刊「小林に懲役一年 新宿火炎ビン事件に判決」より

 東京・新宿駅の東口および歌舞伎町の周辺は、常に何かが暴発しそうな、毒々しさに満ちた一帯ですが、昭和27年/1952年6月25日水曜日夜、その付近に集まった熱気あるデモ隊が、仕事熱心な警官隊と正面衝突。報道陣を含め負傷者20数名を出すという大騒動が起こりました。

 当日は午後5時半から、歌舞伎町にあった東京スケートリンクで、渡辺三知夫さんを委員長とする芸術家集団が、「国際平和記念大会」ないし「国際平和のつどい」と称する大会を企画、そこに2500人ほどが集結していたと言います。朝鮮動乱とも朝鮮戦争とも呼ばれる、コリア半島を舞台にした南北分かれての、例の争いが始まって、ちょうど丸2年となった6月25日、日本に住む朝鮮の人たちをはじめ、日本人の学生、労働者などがぞくぞくと集まり、半島の平和を願いながら、その争いに荷担しようとする日本国家のやり口に不平不満を高め合うこと数時間、盛り上がりのボルテージが上がったまま閉会を迎えたのが午後9時すぎのことです。

 どうやら今日の集まりは(も)過激な参加者が多く、箱詰めの火炎ビンや硫酸ビンが用意されているらしい、との噂を耳にした警視庁は、早くから警備体制を整え、淀橋署の警戒本部に約1000人という、なかなか大人数の警官たちを待機させて、状況を見守ります。

 すると大会終了後、興奮状態を持ち越すかたちで、掛け声を上げ、アジビラを撒きながら新宿駅までやってきた大群が、東口前のあたりに陣取って、インターナショナルを歌いながらビラをまく。これは不穏な雰囲気になってきたぞと判断した警察は、躊躇なく1000人の警官隊を送り込む。怒号やら悲鳴やらが新宿の街にこだまする展開となったところで、ここぞとばかりにデモ隊の一部が、警官隊に向かって火炎ビンや硫酸ビンを投げ込みはじめます。ハナシによれば、その数50本以上。

 押し合いへし合い、混乱は東口から西口にも拡大し、平日夜の新宿駅付近といえば、いまとは様相も違っていたでしょうが、デモとは関係のない帰宅途中の一般人や酔っ払いなども大勢いたと言われていて、デモ隊はそういった群衆にまぎれ込みながら、警官隊に抵抗。そんなことが30分ぐらい続くうちに、警察の制圧が効いて騒ぎは徐々に収束し、検挙者30名ほどを出しながら、26日午前0時すぎに警戒態勢は解除となりました。

 そのなかで、とくにハジけた行動をして目をつけられたのでしょうか、4人が起訴されるまでにいたります。会社員黒沢洋さん、無職金南燮さん、分離公判となった平田虎雄さん、そして雑誌編集業の小林勝さんです。

 このとき、小林さんは24歳。どうしてその場にいたのか、とたどってみると、小林さんの両親は大正3年/1914年ごろ、日本の支配の及ぶ朝鮮に渡った、在朝の日本人で、おのれにとっての朝鮮とは、生誕の土地であり、故郷であり、この国というか民族というか土地との関係性は、小林さんの思想を形成してきた重要な礎です。朝鮮戦争の動向はヒトゴトではありませんし、しかも小林さんは、昭和23年/1948年に日本共産党に入党すると、早稲田大学の在学中にレッド・パージ反対闘争を指導して停学処分を受けるなど、いわゆるバリバリの、バリバリな歩みを見せた人で、昭和27年/1952年の事件のときは、『人民文学』に参加して編集に当たっていたという、正真正銘、バリバリの人でした。

 そのころはまだ、元気と威勢のいい一介の共産党員、ぐらいだったかもしれません。そこから昭和28年/1953年1月に保釈されて以降、小説を書く勉強をはじめ、昭和29年/1954年7月には、一審で有罪の判決を受けたものの、控訴。裁判を争うあいだに新日本文学会に入り、昭和31年/1956年に「フォード・一九二七年」を『新日本文学』に発表します。朝鮮・洛東江上流の山深い町を舞台に、ただ一台の自動車を所有するトルコ人、原住の朝鮮人、植民地化後に入植してきた日本人の関係性を、戦争を背景にして描いたもので、これが芥川賞の候補に選ばれることになったために、一躍、注目の新進作家として名を挙げます。

 このあたりで芥川賞でもとっていれば、のちの展開を含めて、間違いなく大きな話題となり、芥川賞も「ニュースの女神に愛された文学賞」と呼ばれるその特徴を、存分に発揮してくれたと思いますが、昭和34年/1959年、保釈手続きの不備によっていったん収監されるという余波を経て、7月7日、最高裁で判決が確定。懲役一年の実刑、ということで、戦後の作家としてはじめて実刑による刑務所生活を経験することになり、獄中で戯曲「檻」を執筆。翌昭和35年/1960年に出所するとたちまち、『文藝春秋』に「刑務所紳士録」を発表するは、「檻」が劇団民芸で上演されるは、これが第6回新劇戯曲賞(のちの岸田國士戯曲賞)を受賞するは、「架橋」が3度目の芥川賞候補になるは、と話題性の風は確実に、小林さんのほうに吹きはじめました。

          ○

 小林さんは昭和46年/1971年3月、腸閉塞が原因でわずか45歳の若さで亡くなってしまいます。その死を惜しむ熱い仲間たちが、この世にたくさん残されたこともあって、彼らが根気よく動き、昭和51年/1976年には『小林勝作品集』全5巻(白川書院刊)が編まれました。

 その全巻の解説や解題、第5巻の「小林勝略年譜」に目を通すと一目瞭然なんですけど、3度候補に挙がった芥川賞のことは、当然おのずと触れられています。小林さんの文学的歩みや業績には欠かせない里程標だ、ということなのかもしれません。しかし昭和37年/1962年に「紙背」が直木賞候補に挙がったことや、かなりの低評価で落とされたことなどは、きれいさっぱり、完全に黙殺されています。

 直木賞の候補になることが、文学的には何ほどの意味があるとは思えないし、ひとりの作家の全貌をとらえるうえで、この賞のことを省いても問題はひとつもない。そう考える編集委員の面々の感覚は、たしかによくわかります。

 そのなかで、直木賞の候補に挙がったころの小林さんについて、解題を担当する藤井徹さんは、こう表現しています。

「この小説集(引用者注:『フォード・一九二七年』)によって、小林勝は当時の「二十代作家のホープ」のひとりとして、注目されることになった。(引用者中略)しかし、小林勝はもともと「二十代作家」の人々とは、その文学的出発とイデオロギーにおいてとりわけ異なっていた。そして、一九五九年の最高裁での有罪判決・半年間の獄中生活をつうじて、彼はさらに自覚的に、またそれ以上に自負にみちて、ジャーナリスティクなはなやかさから遠ざかる。しかし、それとともに、六十年代前半は多くの失敗作を生み出す苦しい時代となっていく。」(昭和50年/1975年7月・白川書院刊『小林勝作品集 第1巻』「解題」より)

 どういうことでしょうか。獄中生活が明け、一気に活躍の舞台が広がってもおかしくない、華やかな話題性の襲来を、あえて避けようとした反骨の姿勢は、掛け値なしに尊敬に値すると思いますが、ともかく1960年代前半の多くの失敗作のなかに、けっきょく初出以降、単行本に収録されることもなかった、小林さん唯一の直木賞候補作「紙背」が含まれていることは明白です。逆にいうと、こういうものを好んで候補に上げ、授賞のチャンスメイクをする直木賞の特異な性質が、露わになった例、と言えるでしょう。

 「紙背」が失敗作か成功作か、そんなことは些細なことです。どうしてこの作品が直木賞の候補にふさわしい、と当時の文春社員が考えたのか。やはり「紙背」に書かれた内容と筋運びに、注目しないわけにはいきません。ひとりの16歳の少年が、朝鮮人を刺して収監された、いったいなぜ少年はそんな行動に出たのか、という犯罪事件を中心的に扱っているからです。

 推理小説は純文学であり得るか。という、古めかしくも懐かしい論争は、いまでもまだ有効かもしれませんが、このスキマを縫うのを得意としているのが、芥川賞ではなく、直木賞です。小難しくて読みづらい文章でも、「犯罪」の発生とその解明(解明しようとする過程)があれば、より多くの読者はついてくる、という現実的な状況を受けて、犯罪事件のもつジャーナリスティックな大衆性を、文学賞というかたちに落とし込むことを宿命づけられたのが、直木賞という存在だった。と言っていいかもしれません。

 警察の取り調べや収監を、わが身で体験した小林さんには、見たこと、聞いたことをルポのかたちで描く『刑務所』(昭和30年/1955年)や『檻の中の記録』(昭和35年/1960年)といった重要な作品もありますけど、ここにさらに朝鮮人と日本社会というテーマを据えた犯罪事件を、小説に仕立ててくれたおかげで、直木賞も候補に採ることができたのでしょう。残念ながら、読んでもあまり面白くないせいで、授賞にまでは遠い結果に終わりましたが、この文学賞の得意なツボを衝いてくれたという意味では、直木賞にとっても、ありがたい作品だったと思います。

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