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2018年5月27日 (日)

『近代説話』…司馬遼太郎や寺内大吉、直木賞と結びつけられることを、ことさら嫌がる。

『近代説話』

●刊行期間:昭和32年/1957年5月~昭和38年/1963年5月(6年)

●直木賞との主な関わり

  • 寺内大吉(受賞 第44回:昭和35年/1960年下半期)
  • 伊藤桂一(候補1回→受賞 第33回:昭和30年/1955年上半期~第46回:昭和36年/1961年下半期)
    ※ただし第33回は別名義で別の媒体に発表した作品での候補

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『近代説話』掲載作一覧

 直木賞に関係した同人誌というテーマがあったとき、百人中百人が触れないわけにはいかず、いや、この一誌だけ紹介すれば事足りるんじゃないか、と考えてもおかしくはないほどに、昭和30年代に見られた直木賞の、同人誌文化に対する愛情を、やたらと多く浴びてしまった『近代説話』。同人だった尾崎秀樹さんは、奇妙な雑誌だった、とのちに回想していますが、ここから生まれた直木賞受賞者6人、候補になったけど結局とれなかった人1人。……どうしてここまで直木賞と相性のいい雑誌になったのか、たしかに奇妙といえば奇妙です。

 そんなの単なる偶然だ、という説はあり得ると思います。

 とくに、はじめのほうに受賞した司馬遼太郎さんや黒岩重吾さんは、『近代説話』とはほとんど関係ない方面で小説を書き、それが注目されて受賞に至っていますし、第44回(昭和35年/1960年・下半期)に寺内大吉さんと黒岩さん、同じ雑誌に属する作家が二人同時に受賞したのは、ほんのちょっと話題になったそうですが、はっきり言ってしまうと、たまたまです。

 しかし、「たまたま」で済ませてはいけない、というのは、直木賞(と、もうひとつの文学賞)の界隈では常識と言ってもよく、「やっぱり岩手には、優れた文学を生み出す風土があるのだ!」とか、「根本昌夫さんの小説指導力は恐るべきものがあるのだ!」とか煽りながら、たまたまで済ませられるところを、あえてそうは言わず、現象のつながりのなかで話題を盛り上げていくのが、この二つの賞の、正当な取り扱い方のようです。ときどき何かにスポットライトを当てて人の目を向けさせる、というのが、直木賞たちに備わった基本的な性質ですから、「たまたま」などという、つまらない考え方で白けさせるのは、御法度かもしれません。

 それでハナシを戻して『近代説話』のことですけど、直木賞と相性がよかった理由は、いくつか挙げられると思います。

 ひとつに、小説を書く勉強のために同人誌をやるのではない、という創刊同人の司馬さんの考えにより、ある程度、小説家として力の認められている人、つまり何かの新人賞をとった人だけを同人にしたおかげで、商業誌と遜色のない掲載作が並んだこと。

 ひとつに、何のツテもない世界でぽつんと始めたわけじゃなく、関西文壇の大職業作家・藤沢桓夫さん、直木賞をとったばかりの今東光さん、直木賞の選考委員になったばかりで選考に対する熱心さが満ちていた源氏鶏太さんや海音寺潮五郎さんなど、そういう人たちの支援を受けて、期待のなかでスタートを切ったこと。

 ひとつに、伊藤桂一さんや胡桃沢耕史(清水正二郎)さん、斎藤芳樹さんといった、雑誌づくりに欠かせない事務能力に長けた人が何人もいて、しかも胡桃沢さんは自分も直木賞をとりたいと強く希望していたことから、その希望をつなげるかたちで刊行がつづき、6年間、出しつづけたこと。

 そういったいくつかの要素が、明らかに直木賞(の運営母体)から好感を寄せられる流れを生んでいった……とは推測できるんですけど、この雑誌が10年後、20年後に創刊していたら、ここまで伝説化していなかっただろう、というのは当然のことで、となると、昭和32年/1957年から昭和38年/1963年というこの活動期間の時代性は、何より見過ごすことができません。

 もともと直木賞は昭和9年/1934年にできたころから、既成の商業誌、商業出版の潮流とは少し違うところから、新しい作家を見つけたい、という思いの強かった文学賞で、その風土が色濃く残っていた昭和30年代。文藝春秋新社の握っていた、作家を見つけるシステムに、同人雑誌を全国から送ってもらい目を通すルートと、雑誌で懸賞小説(新人賞)を企画するルートの二つがあり、昭和30年代というのは、その二つが、経済成長と社会基盤の整備に後押しされて、着々と進化していった時代に当たります。

 同人誌と懸賞入選、その両方のイイトコ取り、といいますか、美しい融合でもって産声を上げた『近代説話』が、直木賞にハマッたのは、やはりこの時代ならではの出来事と言うしかないでしょう。これを日本語では「たまたま」と言うのかもしれません。だけど、必然と見たっておかしくないと思います。

           ○

 この一年、こんなことばかり書いてきましたが、直木賞は(少なくとも昭和30年代ごろは)同人雑誌の精神を、過剰なほどに尊んできました。そして、そういう「同人雑誌の精神」のなかには、決して文学賞を望んではいない、文学賞に迎合しない、文学賞を好きこのまない、というアンチ権威の考えが、確実に含まれています。

 このズレ、と言おうか、選ばれる側と与える側、両者の目指すものが必ずしも適合しているとは限らないところが、「同人誌と直木賞」の、最もエキサイティングで、面白い部分だと思うんですが、『近代説話』に宿った同人雑誌の精神もまた、その例にもれません。

 司馬さんが第7集(昭和36年/1961年4月)に「こんな雑誌やめてしまいたい」と題して載せた、長文の編集後記などは、最たるもので、同人が立てつづけに直木賞をとって、まわりからはそれが同人雑誌としての成功みたいに言われるようになり困惑している、(自分を含めて)彼らが直木賞に選ばれたのは『近代説話』とは何の関係もないことなのに……と綿々と綴った文章です。

 寺内さんは寺内さんで、司馬さんとは違って最後の最後まで、この雑誌の編集に携わりましたが、

「「近代説話」はあくまでぼくら同人相互のなかに読者を求めて、さまざまな作品が発表され続けてきた。直木賞なぞは片々たるその付属的な結果にすぎない。

同人雑誌という行為は、つねにそうしたものであるべきだとぼくは信ずる。」(『別冊文藝春秋』107号[昭和44年/1969年3月] 寺内大吉「「近代説話」紳士録――キラ星のごとく並ぶ直木賞作家たち――」より)

 と豪語。文学賞と対峙したときのまっとうな同人雑誌の精神を、ことあるごとに書き残しました。

 こういう雑誌のなかに、ひときわ直木賞が欲しい欲しいと叫ぶようになる胡桃沢さんが、中心的に関わっていた、というのが、あるいは並の同人雑誌には見られない、『近代説話』の豊潤さ、いや奇妙なところかもしれません。しかし、直木賞をとった寺内さんや黒岩さんに、おまえらみたいな俗物はもう『近代説話』に書くな、と言ったという、受賞者に対して同人誌への執筆禁止というルールを発令した司馬さんの心持ちは、やはりアンチ文学賞の色が、たしかにこの雑誌に存在していたことを表わすものでしょう。

 同人雑誌の、そういった硬派な風合いが好きで好きでたまらない直木賞が、『近代説話』に惹かれてしまうのも、無理のないところです。そして、直木賞が近寄れば近寄るほど、同人雑誌の側は「おれは、そういうつもりではない」と、苦々しい顔をつくる。なのに、これをまわりで見ている外部の人たちは、なにしろ有名文学賞をたくさんとったんだ、意義ぶかく素晴らしい雑誌なんだと持ち上げ、昭和43年/1968年には早くも養神書院が復刻版の刊行を企画、21世紀になっても、こういうブログで何だかんだと取り上げられるという、やっている人たちと、世間のあいだにある、思いのズレ。それが、直木賞をとりまく事柄の、いちばんの面白さには違いありません。

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