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2018年5月 6日 (日)

『玄海派』…どうせ虚栄心や嫉妬が渦巻いているに違いない、と小説のモデルにされた唐津の雑誌。

『玄海派』

●刊行期間:昭和41年/1966年8月~平成8年/1996年?(30年)

●直木賞との主な関わり

  • 河村健太郎(候補2回 第56回:昭和41年/1966年下半期~第62回:昭和44年/1969年下半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『玄海派』掲載作一覧

 古川薫さんは、同人誌『午後』に発表した「走狗」で初めて直木賞の候補になったとき、選考委員だった松本清張さんに注目され、「今回の候補作家の中で、最も将来伸びうる人ではないか」と激賞されました。遠く50年以上もまえのハナシです。昨日5月5日、その古川さんの訃報に接し、「同人誌と直木賞」のテーマで触れるような人たちは、もはや誰も生きていない時代になってしまった、と痛感しないわけにはいかないんですけど、と同時に、直木賞という事業の、無用に長くて、とりとめもない歴史を見ることの面白さを、改めて感じるところです。

 さらに前置きをつづけて、先週取り上げた同人誌のひとつ『南方文学』に、もう一度目を向けてみますと、古川さんが白石一郎滝口康彦のご両人と出会うきっかけになったこの雑誌は、それまで同人誌の経験のなかった白石さんが、いきなり初の直木賞候補入りを果たしたことで、この賞の歴史に大きな足跡を残しましたが、昭和45年/1970年に中村光至、石沢英太郎の二人に加えて、白石、滝口、岩井護という5人で創刊したあと、まもなく追加で加入したのが、下関の古川さんと、佐賀の河村健太郎さんです。合わせて「七人の会」と称することになります。

 みんな、その後に立派に小説家として立ち、賞をとったりとらなかったり、ともかく長いこと創作をつづけた人たちばかりです。おそらく小説家としての活躍がなかったのは、ただひとり、河村さんだけと言っていいでしょう。

 「七人の会」に参加したころ、すでに河村さんには、直木賞候補に2度挙げられた経験がありました。はじめての著書を出したばかりでもあり、さあ、これからだ、と創作意欲に燃えていたと思います。しかしまもなく、まったく創作をやめてしまう、というナゾの行動に出たことで、逆に直木賞の伝説として楔を打ち込んだ人です。

 その河村さんの本拠地ともいうべき同人誌が、今週取り上げる『玄海派』なんですが、昭和23年/1948年、笹本寅さんがいっとき佐賀県唐津に帰郷、そのときに同地で結成した松浦文化連盟という団体が、いろいろと活動するうちに、「文芸誌をつくろうよ」という強い声に包まれるようになったところで、果敢に立ち上がったのが、唐津文芸界のドンこと、松浦沢治(旧筆名は松浦沢二)さん。当時、佐賀県文学賞の審査員をしていた松浦さんは、応募者のなかに意外と唐津在住の人が多いのを知り、それなら唐津で作品主体の雑誌を出すのも意義があるだろう、と腰を上げたのだと言います。

 佐賀には、すでに『城』という有名(?)同人誌がありました。松浦さんも、もとはそこに属していたひとりでしたが、以前、滝口康彦さんと同誌のエントリーで、ちょこっと紹介したように、昭和38年/1963年に池正人さんのランボオの訳詩をめぐって、同人のあいだで犬も食わない大喧嘩が勃発してしまい、集団は分裂。ものの本によるとこの一件は、佐賀県あたりでは「文学・佐賀の乱」と、なかなかオーバーな呼称で知られているそうで、こういういざこざは、傍目から見ると異様に面白い、というのは多くの人が実感するところでしょうが、あまりに直木賞のハナシからかけ離れているので、泣く泣く割愛します。

 分裂後、『文学佐賀』の立ち上げに参加した松浦さんですが、まもなくそこも離れて、今度は地元・唐津で始めたのが『玄海派』です。「名ばかりの同人」なんて必要ない、きちんと作品を発表した者だけを同人とする、という実作主義を掲げたこの雑誌の第一集に載ったのが、『文学季節』同人の田中乙代さんに書いてもらった「おとずれ」と、貝原昭さんの詩「廃墟の朝焼け」、三浦外喜守さん「傷痕」、中村一三さん「白南天」、松浦沢二さん「滝」、そして河村健太郎さんの「大きな手」でした。

 このうち、原稿用紙で50枚程度に過ぎない「大きな手」が、いきなり第56回(昭和41年/1966年・下半期)の直木賞候補に選ばれてしまったのですから、驚きというしかありません。佐賀県下にも、ちょっとした衝撃が走ります。

「一番バッターがいきなり三塁打をかっ飛ばした感じで、当地方の有識者に与えた反響は大きかったようだ。」(三浦外喜守)「彼の健闘には郷土の期待が集っている。」(松浦沢二)(『玄海派』第2集[昭和42年/1967年5月]「編集後記」より)

 河村さんも、かつては松浦さんと同じく『城』の同人だった人ですが、これも途中で『城』を抜け『玄海派』の創刊に参加、最初の最初で大きな賞の候補になったことで注目され、このまま受賞していれば、さぞ面白い(いや、佐賀全体が盛り上がる)事態になっただろうと思います。というのも河村さんは、直木賞候補に挙がってしばらくのあいだ、『城』同人の何人かから目のカタキにされたか、目のカタキにされていると意識していたらしく、昭和46年/1971年『朝日新聞』に「文化における中央と地方」という文章を発表したところ、『城』の山本巖や都筑均が、これを勝手に曲解・誤読して難癖をつけてきた、ああ煩わしいことこのうえない、といったエッセイを書いているからです(『玄海派』9集「「地方」文化の「方法」について」)。単なるやっかみなのか、それとも都筑さんたちの意見のほうが正常なのか。ここも突っ込んでいくと面白いところかもしれませんが、あまりに直木賞のハナシからかけ離れているので、やはり泣く泣く割愛します。

 うちの雑誌には、嫉妬とか反目とか足の引っ張り合いとか、そういう陰湿なものは何ひとつない、と第2集の「編集後記」に書いたのは、『玄海派』の三浦外喜守さんですが、その言葉を疑う理由はなく、たしかにそうだったことでしょう。純粋にそれぞれの文学を高め合っていきたい、という気持ちを全員が共有している。素晴らしいと思います。

 やがて『玄海派』からは、山下惣一さんというバツグンにユニークな作家が登場し、もちろん同人たちにつぶされることもなく、農と文学の融合を、のびのびとやってのけます。残念ながら、これを賞賛できるほどの先見性が直木賞にはなく、候補に挙げながらも落としてしまい、直木賞にひとつの小さな汚点をつくってしまうんですが、山下さんは山下さんで、小説だけでなく、ノンフィクションやルポにも才を見せ、マスコミや出版界が、そういう方面からの書き手を欲していた時期にも重なって、まったく直木賞の出る幕はなくなりました。

 その他、病院長を務めていた同人の進藤三郎さんが資金を提供してS氏賞という賞をつくり、毎年松浦さんたちが運営して、佐賀県下の同人誌の作家たちに奮起の機会を与えるなど、せまい党派意識を捨てて、それぞれが前を向いていこうぜ……というのが、おおむね『玄海派』のたどった歴史だと思います。しかし、そうして着実にまっとうに刊行されつづけていた昭和51年/1976年、いきなり外部から見舞われた下品で下世話な視線もまた、同誌の歴史のひとつではあるので、すみません、後半は少しそのことに触れてみます。

           ○

 昭和51年/1976年というのは、松本清張さんの『渡された場面』(新潮社刊)が発表された年です。この作品は以前、うちのブログでも触れたことがあります

 これの作品舞台のひとつが佐賀県唐津市。しかも、唐津の同人誌に所属する文学青年が主人公で、そればかりかこの男の役ドコロが、ゴニョゴニョゴニョ、ということで、松浦さん自身、こういう読み物にほとんど興味がなく、どんな小説かも知らなかったんですが、たまたま同人のひとりから聞いて、書店で立ち読みしてみたところ、唐津の同人誌を皮肉った何ともひどい内容に、ゲンナリしたそうです。

 これが『玄海派』に対する悪意ある当てこすりなのは、たしかなようだ。どうして彼はこんなふうにうちの雑誌を貶めて書いたんだろう、と『玄海派』19集の「玄海派消息」で松浦さんが、推測を書いているんですが、一度、松本さんは講演会で唐津に来たことがあり、その打ち上げに『玄海派』の同人も何人か同席、とくに機嫌を損ねる対応はしていないはずだが、その場で座をリードしたのが同行した別の講演者だったのはたしかで、ひょっとしたら松本さんの存在は無視されがちだったかもしれない、それが何か屈辱だったんだろうか。……としたうえで、

「案ずるに某大家は長い下積みの後で文壇に出て、流行作家、大家となった人物だけに、屈辱に対して鋭敏で、異常な執念の持主なのだろう。それに対してこちらは鷹揚で、同人の集会の席などで話題にのぼったこともない。」(『玄海派』19集より)

 松浦さん、当てこすり返しをしています。

 たまたま舞台に唐津が選ばれただけで、松本さんのほうに、そこまで深い意図はなかったのでは、と思えなくもありませんが、そんなふうに取り上げられてもめげることなく、続ける意味があるのか、そろそろ終刊でいいんじゃないか、と幾度となく言いながら、同人たちの熱意に後押しされて20集、30集、40集……と数を重ねた『玄海派』の営為に、だれが文句を言えるでしょう。言えるはずがありません。

 何かけっきょく、直木賞のハナシから逸れっぱなしになってしまいました。

 少しだけハナシを戻すと、地元期待の新進作家だった河村健太郎さんは、創刊号の「大きな手」から3年後、「おたまじゃくしは蛙の子」で再び直木賞の候補に挙がります。河村さんお得意の素材、と言ってもいい、テニスを楽しむ若い女性を軸とした、なまめかしくも細やかな心理描写の冴える作品で、最終の2作にまで残って受賞間近にせまりましたが、ギリギリ落選。その後も『玄海派』に籍を置いていた形跡はあるものの、まったく創作からは離れてしまい、いっぽうで佐賀新聞社の社員として出世して、広く佐賀文化や、あるいは政治、経済、社会に対するジャーナリストとしての発言を膨大に残しながら、平成9年/1997年、69歳でこの世を去りました。

 2度の直木賞候補のときに、選考委員をしていた松本清張さんが、これをどう読んだのか。選評で一行も触れていないのが、残念でなりません。

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