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2018年5月13日 (日)

『大衆文芸』…直木賞はもっと雑誌掲載作に重点を置いてほしい、と懇願する雑誌編集者。

『大衆文芸』(第三次)

●刊行期間:昭和14年/1939年3月~(79年)

●直木賞との主な関わり

  • 村上元三(候補2回→受賞 第9回:昭和14年/1939年上半期~第12回:昭和15年/1940年下半期)
  • 河内仙介(受賞 第11回:昭和15年/1940年上半期)
  • 神崎武雄(候補1回→受賞 第12回:昭和15年/1940年下半期~第16回:昭和17年/1942年下半期)
  • 大林清(候補2回 第13回:昭和16年/1941年上半期~第17回:昭和18年/1943年上半期)
  • 長谷川幸延(候補7回 第13回:昭和16年/1941年上半期~第17回:昭和29年/1954年上半期)
    ※うち第13回・第14回以外は別の媒体に発表した作品での候補
  • 大庭さち子(候補2回 第10回:昭和14年/1939年下半期~第14回:昭和16年/1941年下半期)
    ※うち第10回は別の媒体に発表した作品での候補
  • 山手樹一郎(候補1回 第19回:昭和19年/1944年上半期)
  • 山田克郎(候補1回→受賞 第21回:戦後-昭和24年/1949年上半期~第22回:昭和24年/1949年下半期)
    ※うち第22回は別の媒体に発表した作品での受賞
  • 三橋一夫(候補1回 第27回:昭和27年/1952年上半期)
    ※ただし、雑誌掲載作を単行本化した段階での候補
  • 井手雅人(候補1回 第30回:昭和28年/1953年下半期)
  • 戸川幸夫(受賞 第32回:昭和29年/1954年下半期)
  • 邱永漢(候補1回→受賞 第32回:昭和29年/1954年下半期~第34回:昭和30年/1955年下半期)
  • 野村敏雄(候補1回 第34回:昭和30年/1955年下半期)
  • 小橋博(候補2回 第35回:昭和31年/1956年上半期~第48回:昭和37年/1962年下半期)
  • 赤江行夫(候補2回 第35回:昭和31年/1956年上半期~第36回:昭和31年/1956年下半期)
  • 穂積驚(受賞 第36回:昭和31年/1956年下半期)
  • 池波正太郎(候補5回→受賞 第36回:昭和31年/1956年下半期~第43回:昭和35年/1960年上半期)
    ※うち第43回は別の媒体に発表した作品での受賞
  • 平岩弓枝(受賞 第41回:昭和34年/1959年上半期)
  • 木本正次(候補1回 第43回:昭和35年/1960年上半期)
  • 夏目千代(候補1回 第44回:昭和35年/1960年下半期)
  • 杜山悠(候補3回 第45回:昭和36年/1961年上半期~第47回:昭和37年/1962年上半期)
    ※うち第47回は単行本作品での候補
  • 武田八洲満(候補4回 第64回:昭和45年/1970年下半期~第73回:昭和50年/1975年上半期)
    ※うち第64回以外は単行本作品での候補

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『大衆文芸』掲載作一覧

 今日は少しばかり番外編です。

 昭和14年/1939年に創刊された第三次の『大衆文芸』は、昭和38年/1963年9月号から発行元が新鷹会に変わり、一部を除いて書店売りから撤退、ほぼ他の同人誌と変わらない、ほそぼそとした姿になりました。その意味では、「同人誌と直木賞」のテーマで取り上げてもOKだと思うんですけど、じっさいそうなってからの『大衆文芸』は、ほとんど直木賞候補作を送り出していません。

 この雑誌が直木賞と密接にからみ、からまれ、両者そろって世間に流布する「大衆文芸」のイメージを覆そうと奮闘していた時代、昭和38年/1963年までの『大衆文芸』は、『オール讀物』とかそういう雑誌と同じく一般の読者を想定して市販されていた立派な商業誌です。なので本来であれば、同人誌を紹介する企画では、違和感があります。

 しかし、主要な執筆陣がだいたいヒモ付きの……と言いますか、新鷹会その他で長谷川伸さんを大将と仰いで創作の勉強に励む人たちだったことは、まぎれもない事実ですし、『早稲田文学』を同人誌だと見るなら『大衆文芸』だって同じ類いだろう、という極論もなくはないので、何だかんだと言い訳しながら今週は、この雑誌のことでいきます。正直、「同人誌と直木賞」にまつわるネタがいよいよ尽きてきた、という事情もあります。

 第三次『大衆文芸』の創刊経緯、といったようなハナシは、ネット上にゴロゴロ転がっているので、そこはすっ飛ばしますけど、何といっても『大衆文芸』は、直木賞エピソードの宝庫です。そして直木賞との関わりの、ほとんど大部分に顔を出す、と言っていいのが、商業誌だった時代に長く編集に携わった新小説社の島源四郎さんでしょう。

 生みも生んだり、直木賞の受賞者9名。落ちも落ちたり、直木賞の最終候補者11名。その全員を公然と励まし、大衆文芸界に(いや、文芸界全体に)新たな息吹となる作家を送り込みたいと、人生を賭けて、ほとんど儲けにもならない出版事業をつづけては愚痴り、愚痴っては雑誌づくりに邁進したという、相当に熱い人です。

 熱い。すなわち、少々鼻につく。……という状況は、どうしても避けがたく、ここで精進していた作家たちは、長谷川伸さんを慕ってはいても、島さんを慕って集まってきたわけじゃありませんから、いろいろ文句や不満を抱えていた様子が、各作家の回想などからもうかがえます。と、こんなハナシは、いつか以前にも触れた気がします。

 島さんと直木賞とのまじわり、ということでは、やはり第一に目につくのが『日本古書通信』の「出版小僧思い出話」(昭和59年/1984年7月号~昭和60年/1985年7月号)なんですが、こればかり紹介するのも芸がないな、と思い、とりあえず『大衆文芸』の毎号、あとがき代わりに載っていた「編集者の手帳」を読んでみたところ、これが素晴らしく鼻につく、……すなわち熱い雑誌編集者ダマシイに彩られた文章の数々であることに気づき、目をひらかれました。

 直木賞の歴史のなかでも、運営をになう文藝春秋社→日比谷出版社→文藝春秋新社→文藝春秋、これらの会社以外では最もこの賞に愛されたと言ってもいい「新小説社」という小さな出版社の、直木賞に対する情愛、もしくは情念といおうか執着が、毎年夏と冬になると必ずほとばしっている、島さんの個性そのものだと、たぶん呼んでも差し支えない第三次『大衆文芸』。この雑誌の直木賞ウェーブは、戦前と戦後、二つの山がありますが、今週は、その島さんが「編集者の手帳」を書いていた戦後のほうに絞ってみたいと思います。

 取り上げたい島語録はいろいろあるんですけど、直木賞について言えば、種類はそんなに多くないかもしれません。島さんの直木賞観は、ほとんどコレ一本と言ってもいいからです。

「今年も直木賞の選考会がやって来た(引用者中略)二百数十篇の中より予選されて、最後に残った作品は何れも優秀な作品であることは今更申上げるまでもない。本誌はその難関を突破した作品を毎回のように送って来ている、自慢ではない、本誌に寄せられる作者の並々ならぬ努力の賜物であると同時に根強く支持して下さる皆様方の御声援も大きな力を持っていることを感謝する」(『大衆文芸』昭和31年/1966年2月号「編集者の手帳」より ―署名:(G))

 決して自慢ではないけれど、言わずにはいられない、直木賞予選への揺るがぬ執念。コレ一本です。

 別の号では、直木賞の候補発表の季節がくると、われわれ雑誌編集者は、この半期にいい作品を掲載できたか試されている気分になる……といったようなことも言っています。でも、果たして『大衆文芸』の編集者以外に、半年ごとにそんな心境になっていた人が、他にいたでしょうか。直木賞と芥川賞の最大の違い、ともいえるのが、芥川賞はだいたい毎回、どういう雑誌から候補が選ばれるか、みんなわかっているけど、直木賞はそうではない、という点です。当時、昭和20年代後半から昭和30年代でも、その違いは確固たるものがあり、芥川賞はともかく直木賞のほうの予選を通過するのは、出合いがしらの事故のようなものでした。

 うちの雑誌から何が直木賞の予選を通るかな、といつもワクワクしていたのは、文春の編集者のほかには、『大衆文芸』ぐらいしかいなかったと思います。こんなに、ひんぱんに直木賞、直木賞とその話題を誌面に載せる他社の雑誌は、その当時、まず見かけたことがありません。

           ○

 1月がくる。7月の声を聞く。すると直木賞の予選通過作が発表される。はい、『大衆文芸』から候補作が出ました。はい、また選ばれました。

 と、そんなことが第30回(昭和28年/1953年・下半期)ごろから始まって、第32回(昭和29年/1954年・下半期)に新鷹会の村上元三さんが選考委員に就任したことが、多少は拍車をかける契機になったのか、第32回~第48回(昭和37年/1962年・下半期)までの全17回で、この雑誌から候補が選ばれなかったのは、わずか4に回のみ。しかも、そのうち第47回は、新鷹会の杜山悠さんが単行本作品で候補に入っているので、これを除くと、わずか3回。という恐ろしいまでの直木賞予選通過率を叩き出すことになります。

 その間には、おなじみの内紛といいましょうか、第46回(昭和36年/1961年・下半期)に「粟井宿の人足」で候補に挙がった杜山悠さんが、所属していた大衆文学研究会関西支部の人たちに声をかけ、いくばくかの資金を集めると、それを村上元三さんに贈り、直木賞で推薦してくれるよう頼んだのだ、何と腐敗した直木賞と大衆文壇だ……みたいな怪文書が、選考委員の面々や週刊誌に送りつけられる一幕もあり、じっさいに選評を読むと村上さんは、この杜山さんの作品を第一位に推している。ひょっとして……、とそれはそれで興奮する成り行きではあったんですが、当たり前ですけど島さんはこれを否定。事実無根のデマである、と火消しに乗り出します。

 だけど、残念なことに、このゴシップはいまいち弱い、という他ありません。仮に金を贈ったことが事実だとしても、けっきょく杜山さんが受賞できなかったからで、ひとりふたりの選考委員を懐柔することが、直木賞の当落にどれほど影響があるのか、効果に疑問を残してしまうのが、微妙に惜しいところです。

 ほんとうに金を積んだのか、単なるデマなのか。じっさい、そんなケチな不祥事が些細なことに思えるぐらい、だれか特定の人間の思惑などというものを超えて、出版経済全体はめまぐるしく変化しつづけます。『大衆文芸』と直木賞の関係を崩しかねない危機も、そういうなかから発生してきました。

 書籍(単行本)という商品形態の発展です。

 もはや雑誌だけが、新人作家の育成の場ではなくなったこの時代、直木賞の対象を雑誌に限定しないで書籍にも広げていこう、という動きが日本文学振興会=文藝春秋の予選のほうで浮かび上がります。まあ、それも仕方のないことだ、と外野から見れば思いますけど、これにはっきり疑義を呈し、食ってかかったのが、『大衆文芸』島源四郎さんでした。

「直木賞候補作品の選定に就いて一言。最近単行本が多くなって来て、雑誌に発表される作品が尠い。元来は半期々々に雑誌其他に発表されたものからと云う建前で、主に雑誌から採り上げられて来たが、その趣旨は変ったようだ。沢山の雑誌に毎月何百と小説が載っている、この方の作品向上の為めにも、雑誌から選ぶことに重点を置いて頂きたいものだと筆者は希うものである。」(『大衆文芸』昭和34年/1959年3月号「編集者の手帳」より ―署名:(G))

 これが第40回(昭和33年/1958年下半期)のときの、島さんの意見ですが、以降、今回は単行本が○篇、雑誌掲載が△篇、もっと雑誌掲載からの候補作を増やしてほしい、うんぬんと、何度も何度も声を挙げつづけます。ほとんど悲鳴のような声です。

 しかし、こういう外部からの意見を、なかなかストレートに受け入れたがらない、というのが直木賞の歴史を通じた特徴でもあり、単行本VS.雑誌掲載の一件も、時代の波にさらわれて、けっきょくは単行本のほうに重点を置くという方向に進んでいくことになります。

 直木賞の受賞者を何人送り出そうが、いつも候補作が選ばれるような編集をしていようが、『大衆文芸』はかなりカツカツの経営環境下にあり、つまりは売れ行きに苦しみ、昭和38年/1963年6月に長谷川伸さんが亡くなると、新小説社の島さんは『大衆文芸』の編集から離れ、前述のように発行元が新鷹会に。その後、しばらくは新小説社は発売元として同誌に関わりますが、昭和41年/1966年12月号からこれも完全に新鷹会が担当することになって、直木賞世界における雑誌文化の一角を築いた『大衆文芸』も、新たな同人誌として命をつなぐことになりました。

 昭和38年/1963年以降、ぱったりと同誌が直木賞の主流から外れたのは、長谷川伸さんがいなくなったからだ、という見方もあるかと思います。だけど同時に、あれほど直木賞に執念を燃やした島源四郎さんが『大衆文芸』の編集から離れたことが原因だった、と言ってもいいはずですし、むしろここでは、そっちの説を採用しておきたい気持ちです。

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