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2018年5月20日 (日)

『断絶』…平凡社・青人社の馬場一郎と、文学への情熱で結ばれたいろんな仲間たち。

『断絶』

●刊行期間:昭和29年/1954年1月~(64年)

●直木賞との主な関わり

  • 松本孝(候補1回 第45回:昭和36年/1961年上半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『断絶』掲載作一覧

 文学賞に限らず、何だってそうかと思いますが、ひとつのものには根っこが無数にあり、そこから追いきれないほどの枝葉が伸びています。『断絶』という同人誌もまた例外ではなく、調べれば調べるほど、まるで知らなかったことが次々に出てくるものですから、正直、困惑しているところです。

 昭和36年/1961年上半期、松本孝さんの「夜の顔ぶれ」という、一作の直木賞候補作を生んだ同人誌『断絶』は、昭和29年/1954年1月に、早稲田大学の学生だった春嶽哮、浅井良、藤井博吉、山本浩、水田陽太郎、この5人が始めたものだと言われます。当時、その界隈にはやたらと同人誌が群生し、掛け持ち、移籍、喧嘩別れ、幽霊同人、いろんな現象が華ざかり。すぐにつぶれては新しいグループが発生し、そしてまた闇のなかへ消えていくなど、あまり長続きするような雑誌は見られませんでした。

 『断絶』もやはり、3号を出したあたりのところで、いざこざが起こり、抜ける人、居残る人の二つに分かれます。残ったのが浅井さんと、彼に誘われて同人となっていた武山博さんでしたが、そこに、同じ早稲田でつくられた『波紋』(のち『破紋』)『斜線』『浪漫文学』などに属した馬場一郎さんが移ってきて、心機一転、立て直しをはかろうと画策。ところが、それに不満をもつ人がすぐに抜けてしまい……と、揺れは全然おさまらず、そのまま泡沫同人誌の足取りをたどるか、と思われました。

 しかし、ここからしぶとく誌歴を重ね、ついには100号を迎えて、創刊60年を超えてしまったのですから、敬服の二文字以外にどんな言葉が見つかるのでしょう。ここで多くの人が口々に語るには、第74号(平成5年/1993年3月)まで30年以上、多忙を極める会社勤めをまっとうしながら、同人費の徴収、原稿の催促、とりまとめ、印刷所との交渉などなどの実務を一手に引き受けた同人、馬場一郎さんの存在が大きかった、ということです。

 それだけでも馬場さんは、同人誌界の偉人と呼んで差し支えないと思いますが、あまりそちらでの逸話を見かけないのは、手間と時間を費やして雑誌を出し続けるぐらい、同人誌の人にとっては当たり前、ということなのかもしれません。

 じっさい馬場さんといえば、商業出版での活躍のほうが有名です。

 早稲田大学仏文科を卒業後、昭和28年/1953年に入った平凡社に長く勤め、一時は営業に回されて、つらい日々を送りながら、不屈の仕事ぶりで編集のフィールドに返り咲き、文芸誌『文体』の復刊なども手がけるうちに、『太陽』編集長として、多くの後輩や外部の書き手たちをたばねて、一大文化を築いたことは、いまも語り継がれる伝説となっていますし、昭和56年/1981年には社内のゴタゴタに巻き込まれるかたちで社を飛び出すと、仲間たちとともに青人社を起こして社長に就任、嵐山光三郎さんや筒井ガンコ堂さん、その他、クセしかないような面々に慕われながら、出版事業を展開していた矢先、平成5年/1993年4月に63歳で亡くなった有名編集者、ないしは有名出版人です。嵐山さんの『昭和出版残侠伝』(平成18年/2006年9月・筑摩書房刊)には重要な役どころの〈ババボス〉として登場します。

 そういう人の、もうひとつの顔が同人誌作家だった、というのですから、おのずと心が震わされます。もとより馬場さんは、学生時代から文学に強い情熱を抱き、サラリーマンとして不遇の身に甘んじたり出世したり、あるいはベンチャー的に新しい会社を立ち上げて、その経営に悪戦苦闘するあいだもずっと、『断絶』を刊行しつづけました。ときに、平凡社で知り合った人たちを同人活動に誘うこともあり、アルバイトをしていた吉田善穂さんとか、後輩社員だった高橋健さんや海野弘さんなども、馬場さんに声をかけられて『断絶』に参加しています。

 そういったなかで、没後には充実した編集の〈追悼・馬場一郎〉特集(第75号 平成5年/1993年10月)が編まれますが、そこに寄せられた武山博さんの、こんな一文を読むと、感傷的にうるっと来てしまうのは、ワタクシだけなのかどうなのか、さっぱりわかりませんけど、しかしどうにもせつなくて仕方ありません。

「葬儀の時、耳にした弔辞は、それぞれ心に迫るものがあった。事実、君(引用者注:馬場のこと)は編集者として大成され、多くの逸材を世に送り出した。だが、出棺にあたり、われわれの雑誌を胸に抱いている君に供華して別れを告げた時、死ぬに死にきれぬ君の無念さを思い、思わずぼくの胸はつまった。

どれほど、君は文学者として評価され、葬られることを望んだことだろう。」(『断絶』75号 武山博「原風景と私」より)

 平凡社から伸びる枝だけじゃありません。『断絶』には、先に書いたように早稲田の人たちとか、あるいは神田の「東京堂」、新宿の「紀伊國屋書店」などの店頭でも売っていたので、それを見て入会してきた一般の読者が同人の大半を形成し、詩人の廣田國臣さんから、久根淑江さん、小松文木さん、興津喜四郎さんなど、興味深い書き手が続々とうごめいています。これはこれで探索していきたい欲がムクムク沸いてくるところです。

 ただ、ここまでの概略を知るまでに、ずいぶん時間を使ってしまって、疲労困憊。あとはまたいずれ……としたかったんですが、やはり松本孝さんのことには、少し触れておきたいと思います。直木賞専門のブログですから、そこは避けて通れません。

           ○

 このあいだ、うちのサイトの一部を少し見直して、「候補作家」リストのページにいくつか種類を追加しました。そのうちのひとつが「初候補時の年齢順」というものなんですけど、こうして並べてみると直木賞の候補に、20代で選ばれた人は全体の一割にも満たないことがわかります。その稀なケースのひとりが、『断絶』の松本孝さんです。

 松本さんには、『断絶』100号(平成18年/2006年10月)を祝って同誌に寄稿した「私の誇り『断絶』」という、長めの回想文があることを、今回はじめて知りました。第45回(昭和36年/1961年・上半期)の直木賞は、下馬評では水上勉さん以外に授賞の芽はないだろう、テッパンだ、と言われ、じっさいにそうなった、ほぼ無風の回ですが、松本さんの「夜の顔ぶれ」がそれに次いで7票を獲得した、と報じられ、落選となったあとには、好意的だった選考委員の、吉川英治、村上元三、大佛次郎、小島政二郎の4人から、激励する直筆の手紙をもらったんだよ……と松本さんが自慢しているエッセイです。正直、もっともっと自慢してもいいと思います。

 それはそれとして、昭和40年代、新宿フーテン族の兄貴分とも教祖とも言われ、のちにエロい分野で(のみ)活躍することになった松本さんが、自分は新人賞をとったとか、業界人と仲がよかったとか、そういうきっかけではなく、同人誌から出た作家であることを、ずっと誇りにしている、と原稿を起こして、その来歴を綴っているなかなかの貴重な資料です。

 これによれば、松本さんは学生のころから、作家になりたい、と何となく希望しながら、卒業後は、妻の父親が経営する会社のビルに、間借りするかたちで学習塾を開塾、夜になると新宿をはじめとする歓楽街に繰り出すという毎日を送ったそうですが、そのうち、新宿という街に生きる人たちを書いてみたい! という思いが抑えきれなくなり、「夜空の果てに」を執筆すると、たまたま本屋で見かけた、尾崎士郎さん主宰の同人誌『文学四季』に入会。この作品はすぐに採用され、たちまち掲載の運びとなります。

 急激に創作欲に目覚めた松本さんは、さらに書く気まんまんでしたが、『文学四季』はけっこう同人の数も多くて、次にいつ掲載のチャンスがくるかわかりません。同誌の編集を担当していた加藤善也さんに相談してみると、どこか別の同人誌に参加してみたらどうか、と言われて、手もとにあった数々の同人誌を見せてもらえることに。ここで松本さんの目にとまったのが『断絶』でした。

 いっぽうでは、横溝正史さんの息子、亮一さんのやっていた同人誌『眼』にも参加、そちらの第2号(昭和35年/1960年夏)に「夜の部屋」を発表したところ、新たな書き手を求めて丹念に同人誌をチェックしていた〈新潮社のコワいヒト〉こと、齋藤十一さんのお眼鏡にピピンとひっかかり、「顔のない情事」と改題されて『週刊新潮』に再録。つづけて、新しいシリーズ企画があるんだが、君の筆が合っていると思う、やってみないかね、と発注されたのが、巷の犯罪事件を小説仕立てにして読者のノゾキ見欲求を満たす、「黒い報告書」シリーズです。のちに、あまりに好評を博したため、書き手がひとりでは足りなくなり、執筆陣を拡充することになる、この長寿企画を最初に手がけたのが、松本さんでした。

 「黒い報告書」の第一作「高利貸謀殺事件」の取材のために福島に滞在していたとき、ちょうど「夜の顔ぶれ」が『断絶』に掲載されることが決定、しかしページの都合上、20枚ぐらい削ってほしい、と馬場さんから連絡を受けた、と言います。しばらくのち、「夜の顔ぶれ」に対して日本文学振興会から直木賞予選通過の通知が届くことになりますが、そのときには、初の著書となる『黒い報告書』の書籍化をめざして、追加取材や加筆などで忙しくしていたそうです。

 20代の無名なライターをめぐって、同人誌からも積極的に候補に選ぼうとしていた直木賞と、同人誌の作品を読んではツバをつけていた新潮・齋藤十一さん、両者が繰り広げた、熾烈なる先物買い争い。という感じですが、けっきょく直木賞が授賞を見送るかたわらで、松本さんには「黒い報告書」の好評を見た他社の雑誌から、女やカネをめぐる事件モノの注文が続々と寄せられて、そちらのほうの人気作家になっていくのですから、先見の明という点では、直木賞より齋藤さんに軍配が上がるところかもしれません。

 いずれにしても、すぐに松本さんは『断絶』から巣立つことになるんですけど、しかし、そこで縁が切れないのが『断絶』のフトコロの深さ、とでも言うんでしょうか。とくに商業出版界に生きていた馬場さんとは、文壇のパーティーなどで何度も顔を合わせたそうですし、

(引用者注:馬場一郎が)(青人社)を設立されてからは、『DOLIVE』の姉妹誌の『遊び専科』に連載小説を書かせていただいた。二冊の単行本になったそれは、私の大切な著書である。」(『断絶』100号 松本孝「私の誇り『断絶』」より)

 と、一見、真面目な文学的営為とは結びつきそうもない、松本さんの『絶頂コレクター』(平成3年/1991年)『絶頂肌めぐり』(平成4年/1992年)の著作が、めぐりめぐって、ここにつながってきてしまいます。

 文学というと、いや文学賞というと、変におカタいもの、と見られがちで、現に文芸同人誌というのは、そういうおカタさを煮詰めたようなシロモノなのかもしれませんけど、『断絶』をとりまいている同人たちの背景や、創作観、作品は、そういう枠のなかに収めることができません。おそらく一生かかっても、この雑誌の全貌は把握しきれないだろうなあ、と困惑しているところです。

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