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2018年5月の4件の記事

2018年5月27日 (日)

『近代説話』…司馬遼太郎や寺内大吉、直木賞と結びつけられることを、ことさら嫌がる。

『近代説話』

●刊行期間:昭和32年/1957年5月~昭和38年/1963年5月(6年)

●直木賞との主な関わり

  • 寺内大吉(受賞 第44回:昭和35年/1960年下半期)
  • 伊藤桂一(候補1回→受賞 第33回:昭和30年/1955年上半期~第46回:昭和36年/1961年下半期)
    ※ただし第33回は別名義で別の媒体に発表した作品での候補

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『近代説話』掲載作一覧

 直木賞に関係した同人誌というテーマがあったとき、百人中百人が触れないわけにはいかず、いや、この一誌だけ紹介すれば事足りるんじゃないか、と考えてもおかしくはないほどに、昭和30年代に見られた直木賞の、同人誌文化に対する愛情を、やたらと多く浴びてしまった『近代説話』。同人だった尾崎秀樹さんは、奇妙な雑誌だった、とのちに回想していますが、ここから生まれた直木賞受賞者6人、候補になったけど結局とれなかった人1人。……どうしてここまで直木賞と相性のいい雑誌になったのか、たしかに奇妙といえば奇妙です。

 そんなの単なる偶然だ、という説はあり得ると思います。

 とくに、はじめのほうに受賞した司馬遼太郎さんや黒岩重吾さんは、『近代説話』とはほとんど関係ない方面で小説を書き、それが注目されて受賞に至っていますし、第44回(昭和35年/1960年・下半期)に寺内大吉さんと黒岩さん、同じ雑誌に属する作家が二人同時に受賞したのは、ほんのちょっと話題になったそうですが、はっきり言ってしまうと、たまたまです。

 しかし、「たまたま」で済ませてはいけない、というのは、直木賞(と、もうひとつの文学賞)の界隈では常識と言ってもよく、「やっぱり岩手には、優れた文学を生み出す風土があるのだ!」とか、「根本昌夫さんの小説指導力は恐るべきものがあるのだ!」とか煽りながら、たまたまで済ませられるところを、あえてそうは言わず、現象のつながりのなかで話題を盛り上げていくのが、この二つの賞の、正当な取り扱い方のようです。ときどき何かにスポットライトを当てて人の目を向けさせる、というのが、直木賞たちに備わった基本的な性質ですから、「たまたま」などという、つまらない考え方で白けさせるのは、御法度かもしれません。

 それでハナシを戻して『近代説話』のことですけど、直木賞と相性がよかった理由は、いくつか挙げられると思います。

 ひとつに、小説を書く勉強のために同人誌をやるのではない、という創刊同人の司馬さんの考えにより、ある程度、小説家として力の認められている人、つまり何かの新人賞をとった人だけを同人にしたおかげで、商業誌と遜色のない掲載作が並んだこと。

 ひとつに、何のツテもない世界でぽつんと始めたわけじゃなく、関西文壇の大職業作家・藤沢桓夫さん、直木賞をとったばかりの今東光さん、直木賞の選考委員になったばかりで選考に対する熱心さが満ちていた源氏鶏太さんや海音寺潮五郎さんなど、そういう人たちの支援を受けて、期待のなかでスタートを切ったこと。

 ひとつに、伊藤桂一さんや胡桃沢耕史(清水正二郎)さん、斎藤芳樹さんといった、雑誌づくりに欠かせない事務能力に長けた人が何人もいて、しかも胡桃沢さんは自分も直木賞をとりたいと強く希望していたことから、その希望をつなげるかたちで刊行がつづき、6年間、出しつづけたこと。

 そういったいくつかの要素が、明らかに直木賞(の運営母体)から好感を寄せられる流れを生んでいった……とは推測できるんですけど、この雑誌が10年後、20年後に創刊していたら、ここまで伝説化していなかっただろう、というのは当然のことで、となると、昭和32年/1957年から昭和38年/1963年というこの活動期間の時代性は、何より見過ごすことができません。

 もともと直木賞は昭和9年/1934年にできたころから、既成の商業誌、商業出版の潮流とは少し違うところから、新しい作家を見つけたい、という思いの強かった文学賞で、その風土が色濃く残っていた昭和30年代。文藝春秋新社の握っていた、作家を見つけるシステムに、同人雑誌を全国から送ってもらい目を通すルートと、雑誌で懸賞小説(新人賞)を企画するルートの二つがあり、昭和30年代というのは、その二つが、経済成長と社会基盤の整備に後押しされて、着々と進化していった時代に当たります。

 同人誌と懸賞入選、その両方のイイトコ取り、といいますか、美しい融合でもって産声を上げた『近代説話』が、直木賞にハマッたのは、やはりこの時代ならではの出来事と言うしかないでしょう。これを日本語では「たまたま」と言うのかもしれません。だけど、必然と見たっておかしくないと思います。

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2018年5月20日 (日)

『断絶』…平凡社・青人社の馬場一郎と、文学への情熱で結ばれたいろんな仲間たち。

『断絶』

●刊行期間:昭和29年/1954年1月~(64年)

●直木賞との主な関わり

  • 松本孝(候補1回 第45回:昭和36年/1961年上半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『断絶』掲載作一覧

 文学賞に限らず、何だってそうかと思いますが、ひとつのものには根っこが無数にあり、そこから追いきれないほどの枝葉が伸びています。『断絶』という同人誌もまた例外ではなく、調べれば調べるほど、まるで知らなかったことが次々に出てくるものですから、正直、困惑しているところです。

 昭和36年/1961年上半期、松本孝さんの「夜の顔ぶれ」という、一作の直木賞候補作を生んだ同人誌『断絶』は、昭和29年/1954年1月に、早稲田大学の学生だった春嶽哮、浅井良、藤井博吉、山本浩、水田陽太郎、この5人が始めたものだと言われます。当時、その界隈にはやたらと同人誌が群生し、掛け持ち、移籍、喧嘩別れ、幽霊同人、いろんな現象が華ざかり。すぐにつぶれては新しいグループが発生し、そしてまた闇のなかへ消えていくなど、あまり長続きするような雑誌は見られませんでした。

 『断絶』もやはり、3号を出したあたりのところで、いざこざが起こり、抜ける人、居残る人の二つに分かれます。残ったのが浅井さんと、彼に誘われて同人となっていた武山博さんでしたが、そこに、同じ早稲田でつくられた『波紋』(のち『破紋』)『斜線』『浪漫文学』などに属した馬場一郎さんが移ってきて、心機一転、立て直しをはかろうと画策。ところが、それに不満をもつ人がすぐに抜けてしまい……と、揺れは全然おさまらず、そのまま泡沫同人誌の足取りをたどるか、と思われました。

 しかし、ここからしぶとく誌歴を重ね、ついには100号を迎えて、創刊60年を超えてしまったのですから、敬服の二文字以外にどんな言葉が見つかるのでしょう。ここで多くの人が口々に語るには、第74号(平成5年/1993年3月)まで30年以上、多忙を極める会社勤めをまっとうしながら、同人費の徴収、原稿の催促、とりまとめ、印刷所との交渉などなどの実務を一手に引き受けた同人、馬場一郎さんの存在が大きかった、ということです。

 それだけでも馬場さんは、同人誌界の偉人と呼んで差し支えないと思いますが、あまりそちらでの逸話を見かけないのは、手間と時間を費やして雑誌を出し続けるぐらい、同人誌の人にとっては当たり前、ということなのかもしれません。

 じっさい馬場さんといえば、商業出版での活躍のほうが有名です。

 早稲田大学仏文科を卒業後、昭和28年/1953年に入った平凡社に長く勤め、一時は営業に回されて、つらい日々を送りながら、不屈の仕事ぶりで編集のフィールドに返り咲き、文芸誌『文体』の復刊なども手がけるうちに、『太陽』編集長として、多くの後輩や外部の書き手たちをたばねて、一大文化を築いたことは、いまも語り継がれる伝説となっていますし、昭和56年/1981年には社内のゴタゴタに巻き込まれるかたちで社を飛び出すと、仲間たちとともに青人社を起こして社長に就任、嵐山光三郎さんや筒井ガンコ堂さん、その他、クセしかないような面々に慕われながら、出版事業を展開していた矢先、平成5年/1993年4月に63歳で亡くなった有名編集者、ないしは有名出版人です。嵐山さんの『昭和出版残侠伝』(平成18年/2006年9月・筑摩書房刊)には重要な役どころの〈ババボス〉として登場します。

 そういう人の、もうひとつの顔が同人誌作家だった、というのですから、おのずと心が震わされます。もとより馬場さんは、学生時代から文学に強い情熱を抱き、サラリーマンとして不遇の身に甘んじたり出世したり、あるいはベンチャー的に新しい会社を立ち上げて、その経営に悪戦苦闘するあいだもずっと、『断絶』を刊行しつづけました。ときに、平凡社で知り合った人たちを同人活動に誘うこともあり、アルバイトをしていた吉田善穂さんとか、後輩社員だった高橋健さんや海野弘さんなども、馬場さんに声をかけられて『断絶』に参加しています。

 そういったなかで、没後には充実した編集の〈追悼・馬場一郎〉特集(第75号 平成5年/1993年10月)が編まれますが、そこに寄せられた武山博さんの、こんな一文を読むと、感傷的にうるっと来てしまうのは、ワタクシだけなのかどうなのか、さっぱりわかりませんけど、しかしどうにもせつなくて仕方ありません。

「葬儀の時、耳にした弔辞は、それぞれ心に迫るものがあった。事実、君(引用者注:馬場のこと)は編集者として大成され、多くの逸材を世に送り出した。だが、出棺にあたり、われわれの雑誌を胸に抱いている君に供華して別れを告げた時、死ぬに死にきれぬ君の無念さを思い、思わずぼくの胸はつまった。

どれほど、君は文学者として評価され、葬られることを望んだことだろう。」(『断絶』75号 武山博「原風景と私」より)

 平凡社から伸びる枝だけじゃありません。『断絶』には、先に書いたように早稲田の人たちとか、あるいは神田の「東京堂」、新宿の「紀伊國屋書店」などの店頭でも売っていたので、それを見て入会してきた一般の読者が同人の大半を形成し、詩人の廣田國臣さんから、久根淑江さん、小松文木さん、興津喜四郎さんなど、興味深い書き手が続々とうごめいています。これはこれで探索していきたい欲がムクムク沸いてくるところです。

 ただ、ここまでの概略を知るまでに、ずいぶん時間を使ってしまって、疲労困憊。あとはまたいずれ……としたかったんですが、やはり松本孝さんのことには、少し触れておきたいと思います。直木賞専門のブログですから、そこは避けて通れません。

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2018年5月13日 (日)

『大衆文芸』…直木賞はもっと雑誌掲載作に重点を置いてほしい、と懇願する雑誌編集者。

『大衆文芸』(第三次)

●刊行期間:昭和14年/1939年3月~(79年)

●直木賞との主な関わり

  • 村上元三(候補2回→受賞 第9回:昭和14年/1939年上半期~第12回:昭和15年/1940年下半期)
  • 河内仙介(受賞 第11回:昭和15年/1940年上半期)
  • 神崎武雄(候補1回→受賞 第12回:昭和15年/1940年下半期~第16回:昭和17年/1942年下半期)
  • 大林清(候補2回 第13回:昭和16年/1941年上半期~第17回:昭和18年/1943年上半期)
  • 長谷川幸延(候補7回 第13回:昭和16年/1941年上半期~第17回:昭和29年/1954年上半期)
    ※うち第13回・第14回以外は別の媒体に発表した作品での候補
  • 大庭さち子(候補2回 第10回:昭和14年/1939年下半期~第14回:昭和16年/1941年下半期)
    ※うち第10回は別の媒体に発表した作品での候補
  • 山手樹一郎(候補1回 第19回:昭和19年/1944年上半期)
  • 山田克郎(候補1回→受賞 第21回:戦後-昭和24年/1949年上半期~第22回:昭和24年/1949年下半期)
    ※うち第22回は別の媒体に発表した作品での受賞
  • 三橋一夫(候補1回 第27回:昭和27年/1952年上半期)
    ※ただし、雑誌掲載作を単行本化した段階での候補
  • 井手雅人(候補1回 第30回:昭和28年/1953年下半期)
  • 戸川幸夫(受賞 第32回:昭和29年/1954年下半期)
  • 邱永漢(候補1回→受賞 第32回:昭和29年/1954年下半期~第34回:昭和30年/1955年下半期)
  • 野村敏雄(候補1回 第34回:昭和30年/1955年下半期)
  • 小橋博(候補2回 第35回:昭和31年/1956年上半期~第48回:昭和37年/1962年下半期)
  • 赤江行夫(候補2回 第35回:昭和31年/1956年上半期~第36回:昭和31年/1956年下半期)
  • 穂積驚(受賞 第36回:昭和31年/1956年下半期)
  • 池波正太郎(候補5回→受賞 第36回:昭和31年/1956年下半期~第43回:昭和35年/1960年上半期)
    ※うち第43回は別の媒体に発表した作品での受賞
  • 平岩弓枝(受賞 第41回:昭和34年/1959年上半期)
  • 木本正次(候補1回 第43回:昭和35年/1960年上半期)
  • 夏目千代(候補1回 第44回:昭和35年/1960年下半期)
  • 杜山悠(候補3回 第45回:昭和36年/1961年上半期~第47回:昭和37年/1962年上半期)
    ※うち第47回は単行本作品での候補
  • 武田八洲満(候補4回 第64回:昭和45年/1970年下半期~第73回:昭和50年/1975年上半期)
    ※うち第64回以外は単行本作品での候補

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『大衆文芸』掲載作一覧

 今日は少しばかり番外編です。

 昭和14年/1939年に創刊された第三次の『大衆文芸』は、昭和38年/1963年9月号から発行元が新鷹会に変わり、一部を除いて書店売りから撤退、ほぼ他の同人誌と変わらない、ほそぼそとした姿になりました。その意味では、「同人誌と直木賞」のテーマで取り上げてもOKだと思うんですけど、じっさいそうなってからの『大衆文芸』は、ほとんど直木賞候補作を送り出していません。

 この雑誌が直木賞と密接にからみ、からまれ、両者そろって世間に流布する「大衆文芸」のイメージを覆そうと奮闘していた時代、昭和38年/1963年までの『大衆文芸』は、『オール讀物』とかそういう雑誌と同じく一般の読者を想定して市販されていた立派な商業誌です。なので本来であれば、同人誌を紹介する企画では、違和感があります。

 しかし、主要な執筆陣がだいたいヒモ付きの……と言いますか、新鷹会その他で長谷川伸さんを大将と仰いで創作の勉強に励む人たちだったことは、まぎれもない事実ですし、『早稲田文学』を同人誌だと見るなら『大衆文芸』だって同じ類いだろう、という極論もなくはないので、何だかんだと言い訳しながら今週は、この雑誌のことでいきます。正直、「同人誌と直木賞」にまつわるネタがいよいよ尽きてきた、という事情もあります。

 第三次『大衆文芸』の創刊経緯、といったようなハナシは、ネット上にゴロゴロ転がっているので、そこはすっ飛ばしますけど、何といっても『大衆文芸』は、直木賞エピソードの宝庫です。そして直木賞との関わりの、ほとんど大部分に顔を出す、と言っていいのが、商業誌だった時代に長く編集に携わった新小説社の島源四郎さんでしょう。

 生みも生んだり、直木賞の受賞者9名。落ちも落ちたり、直木賞の最終候補者11名。その全員を公然と励まし、大衆文芸界に(いや、文芸界全体に)新たな息吹となる作家を送り込みたいと、人生を賭けて、ほとんど儲けにもならない出版事業をつづけては愚痴り、愚痴っては雑誌づくりに邁進したという、相当に熱い人です。

 熱い。すなわち、少々鼻につく。……という状況は、どうしても避けがたく、ここで精進していた作家たちは、長谷川伸さんを慕ってはいても、島さんを慕って集まってきたわけじゃありませんから、いろいろ文句や不満を抱えていた様子が、各作家の回想などからもうかがえます。と、こんなハナシは、いつか以前にも触れた気がします。

 島さんと直木賞とのまじわり、ということでは、やはり第一に目につくのが『日本古書通信』の「出版小僧思い出話」(昭和59年/1984年7月号~昭和60年/1985年7月号)なんですが、こればかり紹介するのも芸がないな、と思い、とりあえず『大衆文芸』の毎号、あとがき代わりに載っていた「編集者の手帳」を読んでみたところ、これが素晴らしく鼻につく、……すなわち熱い雑誌編集者ダマシイに彩られた文章の数々であることに気づき、目をひらかれました。

 直木賞の歴史のなかでも、運営をになう文藝春秋社→日比谷出版社→文藝春秋新社→文藝春秋、これらの会社以外では最もこの賞に愛されたと言ってもいい「新小説社」という小さな出版社の、直木賞に対する情愛、もしくは情念といおうか執着が、毎年夏と冬になると必ずほとばしっている、島さんの個性そのものだと、たぶん呼んでも差し支えない第三次『大衆文芸』。この雑誌の直木賞ウェーブは、戦前と戦後、二つの山がありますが、今週は、その島さんが「編集者の手帳」を書いていた戦後のほうに絞ってみたいと思います。

 取り上げたい島語録はいろいろあるんですけど、直木賞について言えば、種類はそんなに多くないかもしれません。島さんの直木賞観は、ほとんどコレ一本と言ってもいいからです。

「今年も直木賞の選考会がやって来た(引用者中略)二百数十篇の中より予選されて、最後に残った作品は何れも優秀な作品であることは今更申上げるまでもない。本誌はその難関を突破した作品を毎回のように送って来ている、自慢ではない、本誌に寄せられる作者の並々ならぬ努力の賜物であると同時に根強く支持して下さる皆様方の御声援も大きな力を持っていることを感謝する」(『大衆文芸』昭和31年/1966年2月号「編集者の手帳」より ―署名:(G))

 決して自慢ではないけれど、言わずにはいられない、直木賞予選への揺るがぬ執念。コレ一本です。

 別の号では、直木賞の候補発表の季節がくると、われわれ雑誌編集者は、この半期にいい作品を掲載できたか試されている気分になる……といったようなことも言っています。でも、果たして『大衆文芸』の編集者以外に、半年ごとにそんな心境になっていた人が、他にいたでしょうか。直木賞と芥川賞の最大の違い、ともいえるのが、芥川賞はだいたい毎回、どういう雑誌から候補が選ばれるか、みんなわかっているけど、直木賞はそうではない、という点です。当時、昭和20年代後半から昭和30年代でも、その違いは確固たるものがあり、芥川賞はともかく直木賞のほうの予選を通過するのは、出合いがしらの事故のようなものでした。

 うちの雑誌から何が直木賞の予選を通るかな、といつもワクワクしていたのは、文春の編集者のほかには、『大衆文芸』ぐらいしかいなかったと思います。こんなに、ひんぱんに直木賞、直木賞とその話題を誌面に載せる他社の雑誌は、その当時、まず見かけたことがありません。

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2018年5月 6日 (日)

『玄海派』…どうせ虚栄心や嫉妬が渦巻いているに違いない、と小説のモデルにされた唐津の雑誌。

『玄海派』

●刊行期間:昭和41年/1966年8月~平成8年/1996年?(30年)

●直木賞との主な関わり

  • 河村健太郎(候補2回 第56回:昭和41年/1966年下半期~第62回:昭和44年/1969年下半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『玄海派』掲載作一覧

 古川薫さんは、同人誌『午後』に発表した「走狗」で初めて直木賞の候補になったとき、選考委員だった松本清張さんに注目され、「今回の候補作家の中で、最も将来伸びうる人ではないか」と激賞されました。遠く50年以上もまえのハナシです。昨日5月5日、その古川さんの訃報に接し、「同人誌と直木賞」のテーマで触れるような人たちは、もはや誰も生きていない時代になってしまった、と痛感しないわけにはいかないんですけど、と同時に、直木賞という事業の、無用に長くて、とりとめもない歴史を見ることの面白さを、改めて感じるところです。

 さらに前置きをつづけて、先週取り上げた同人誌のひとつ『南方文学』に、もう一度目を向けてみますと、古川さんが白石一郎滝口康彦のご両人と出会うきっかけになったこの雑誌は、それまで同人誌の経験のなかった白石さんが、いきなり初の直木賞候補入りを果たしたことで、この賞の歴史に大きな足跡を残しましたが、昭和45年/1970年に中村光至、石沢英太郎の二人に加えて、白石、滝口、岩井護という5人で創刊したあと、まもなく追加で加入したのが、下関の古川さんと、佐賀の河村健太郎さんです。合わせて「七人の会」と称することになります。

 みんな、その後に立派に小説家として立ち、賞をとったりとらなかったり、ともかく長いこと創作をつづけた人たちばかりです。おそらく小説家としての活躍がなかったのは、ただひとり、河村さんだけと言っていいでしょう。

 「七人の会」に参加したころ、すでに河村さんには、直木賞候補に2度挙げられた経験がありました。はじめての著書を出したばかりでもあり、さあ、これからだ、と創作意欲に燃えていたと思います。しかしまもなく、まったく創作をやめてしまう、というナゾの行動に出たことで、逆に直木賞の伝説として楔を打ち込んだ人です。

 その河村さんの本拠地ともいうべき同人誌が、今週取り上げる『玄海派』なんですが、昭和23年/1948年、笹本寅さんがいっとき佐賀県唐津に帰郷、そのときに同地で結成した松浦文化連盟という団体が、いろいろと活動するうちに、「文芸誌をつくろうよ」という強い声に包まれるようになったところで、果敢に立ち上がったのが、唐津文芸界のドンこと、松浦沢治(旧筆名は松浦沢二)さん。当時、佐賀県文学賞の審査員をしていた松浦さんは、応募者のなかに意外と唐津在住の人が多いのを知り、それなら唐津で作品主体の雑誌を出すのも意義があるだろう、と腰を上げたのだと言います。

 佐賀には、すでに『城』という有名(?)同人誌がありました。松浦さんも、もとはそこに属していたひとりでしたが、以前、滝口康彦さんと同誌のエントリーで、ちょこっと紹介したように、昭和38年/1963年に池正人さんのランボオの訳詩をめぐって、同人のあいだで犬も食わない大喧嘩が勃発してしまい、集団は分裂。ものの本によるとこの一件は、佐賀県あたりでは「文学・佐賀の乱」と、なかなかオーバーな呼称で知られているそうで、こういういざこざは、傍目から見ると異様に面白い、というのは多くの人が実感するところでしょうが、あまりに直木賞のハナシからかけ離れているので、泣く泣く割愛します。

 分裂後、『文学佐賀』の立ち上げに参加した松浦さんですが、まもなくそこも離れて、今度は地元・唐津で始めたのが『玄海派』です。「名ばかりの同人」なんて必要ない、きちんと作品を発表した者だけを同人とする、という実作主義を掲げたこの雑誌の第一集に載ったのが、『文学季節』同人の田中乙代さんに書いてもらった「おとずれ」と、貝原昭さんの詩「廃墟の朝焼け」、三浦外喜守さん「傷痕」、中村一三さん「白南天」、松浦沢二さん「滝」、そして河村健太郎さんの「大きな手」でした。

 このうち、原稿用紙で50枚程度に過ぎない「大きな手」が、いきなり第56回(昭和41年/1966年・下半期)の直木賞候補に選ばれてしまったのですから、驚きというしかありません。佐賀県下にも、ちょっとした衝撃が走ります。

「一番バッターがいきなり三塁打をかっ飛ばした感じで、当地方の有識者に与えた反響は大きかったようだ。」(三浦外喜守)「彼の健闘には郷土の期待が集っている。」(松浦沢二)(『玄海派』第2集[昭和42年/1967年5月]「編集後記」より)

 河村さんも、かつては松浦さんと同じく『城』の同人だった人ですが、これも途中で『城』を抜け『玄海派』の創刊に参加、最初の最初で大きな賞の候補になったことで注目され、このまま受賞していれば、さぞ面白い(いや、佐賀全体が盛り上がる)事態になっただろうと思います。というのも河村さんは、直木賞候補に挙がってしばらくのあいだ、『城』同人の何人かから目のカタキにされたか、目のカタキにされていると意識していたらしく、昭和46年/1971年『朝日新聞』に「文化における中央と地方」という文章を発表したところ、『城』の山本巖や都筑均が、これを勝手に曲解・誤読して難癖をつけてきた、ああ煩わしいことこのうえない、といったエッセイを書いているからです(『玄海派』9集「「地方」文化の「方法」について」)。単なるやっかみなのか、それとも都筑さんたちの意見のほうが正常なのか。ここも突っ込んでいくと面白いところかもしれませんが、あまりに直木賞のハナシからかけ離れているので、やはり泣く泣く割愛します。

 うちの雑誌には、嫉妬とか反目とか足の引っ張り合いとか、そういう陰湿なものは何ひとつない、と第2集の「編集後記」に書いたのは、『玄海派』の三浦外喜守さんですが、その言葉を疑う理由はなく、たしかにそうだったことでしょう。純粋にそれぞれの文学を高め合っていきたい、という気持ちを全員が共有している。素晴らしいと思います。

 やがて『玄海派』からは、山下惣一さんというバツグンにユニークな作家が登場し、もちろん同人たちにつぶされることもなく、農と文学の融合を、のびのびとやってのけます。残念ながら、これを賞賛できるほどの先見性が直木賞にはなく、候補に挙げながらも落としてしまい、直木賞にひとつの小さな汚点をつくってしまうんですが、山下さんは山下さんで、小説だけでなく、ノンフィクションやルポにも才を見せ、マスコミや出版界が、そういう方面からの書き手を欲していた時期にも重なって、まったく直木賞の出る幕はなくなりました。

 その他、病院長を務めていた同人の進藤三郎さんが資金を提供してS氏賞という賞をつくり、毎年松浦さんたちが運営して、佐賀県下の同人誌の作家たちに奮起の機会を与えるなど、せまい党派意識を捨てて、それぞれが前を向いていこうぜ……というのが、おおむね『玄海派』のたどった歴史だと思います。しかし、そうして着実にまっとうに刊行されつづけていた昭和51年/1976年、いきなり外部から見舞われた下品で下世話な視線もまた、同誌の歴史のひとつではあるので、すみません、後半は少しそのことに触れてみます。

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