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2018年4月 1日 (日)

『風群』…純粋芸術を指向する文芸同人誌が、いきなり直木賞のほうに巻き込まれる。

『風群』

●刊行期間:昭和42年/1967年4月~昭和50年/1975年9月?(8年)

●直木賞との主な関わり

  • 原田八束(候補3回 第58回:昭和42年/1967年下半期~第60回:昭和43年/1968年下半期)
    ※ただし第60回は、別の媒体に掲載された作品によるもの

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『風群』掲載作一覧

 今日は一日、うちのサイトの本体で「本屋大賞のすべて」というコンテンツを出しています。せっかくなので、ブログでも「同人誌と本屋大賞」みたいなことが書ければ美しいな。……とは思ったんですが、何といっても同人誌と本屋大賞では、まるでソリが合わないと言いますか、同人誌と最も離れたところにある文学賞、と言ってもいい本屋大賞を、このテーマで語るのはいくら何でも苦しすぎます。やはり今週も、最後まで直木賞の話題で押し通すつもりです。

 さて、50年ほどさかのぼって昭和42年/1967年、文学に取り憑かれた40代のひとりの男が、神戸の地で勢いよく立ち上がりました。同人誌『風群』の創刊です。

 集まった同人および会員は、合計34人。同人誌を、自己表現の研鑽の場にしていこうという人、あるいはスキあれば文壇進出を狙っている野心家、はたまた、ただ小説や評論を読むのが好きだから参加してみました、というけなげな読書家まで、来る者は拒まずの姿勢で、同人誌経営という荒波に果敢に挑みはじめたその男とは、だれでしょう。松田達郎さんです。

 ご出身は京都府ですが、昭和13年/1938年に彦根高商を卒業すると、住友銀行に入行。その後、三菱電機に移ってからもメキメキと働き、やがて松田土地建物や住友建設工業の設立に関わって、それぞれ社長に就任。という、ビジネスパーソンとして大活躍した人ですが、そのいっぽうで文学の世界にもハマり、自身でも小説だの何だのを書いていました。

 しかし、文学とは特定の好事家だけがひっそり愛でるようなものではない、広く一般の人たちが日常生活のなかで文学精神をはぐくみ、触れられるようなものでなければ……という強い考えがあったようで、『風群』の運営に際しても、まずはその立脚点から外れないよう、書きたい人も読みたい人も、みんな仲間だ、何だったら文学に関心があり、自分の文学ゴコロを高めていきたいと向上心をもつ人間は、誰だって仲間だ、というような熱い思いで雑誌づくりに乗り出します。

 目指したのは「純粋芸術を指向する作品の創造」(『読売新聞』昭和43年/1968年6月2日「われらのグループ」)。ということで、創刊号に小説5編、評論2編、詩3編、随想4編を掲載して以来、一年に二冊、三冊のペースで刊行を続けますが、なかでも、昭和39年/1964年に群像新人文学賞に当選していた評論家、松原新一さんが同人に加わり、その松原さんが評論はもちろん、小説や詩などを発表した、という点に注目が集まるところでしょう。

 ところが、スタートして間もなく、この雑誌は松田さんの思惑とは微妙に異なる事態に遭遇することになってしまいます。

 同人の原田八束さんが発表した「風塵」(第2号)が、『文學界』同人雑誌評で好評裡に扱われてベスト5入り。次の号の稲垣麻里さん「序章」(3号)は、これもまた高く評価されて『文學界』昭和43年/1968年1月号に転載されることに。……と、ここまでは、順調な運びです。

 これがそののち、原田さんの「風塵」が芥川賞じゃなくて直木賞の候補になり、稲垣さんにお声がかかったのが純文芸誌じゃなくて『小説現代』だったところから、何だか不穏な空気が漂いはじめます。

 松田さんには、同人誌はそれぞれが孤城を守るのではなく大同団結していかなければいけない、という持論があったそうなのですが、どうも原田、稲垣両同人への、急激な注目の集まり方に、松田さん自身、不快な経験をさせられたことが、その信念を固める一要因となった様子なのです。

 ある座談会での発言を引きます。

「極端にいえば、たとえば北川(引用者注:北川荘平さんが直木賞をとられた。直木賞作家になっちゃった、こういう仮定がありますね。そうすると、北川さんが直木賞作家になられたという底辺には、『VIKING』の異常な熱意と、異常な支持と異常な努力が積み重なって一人の作家が生まれるわけですね。それが生まれた瞬間から、大きな出版社が独占してしまうということ、これが現実なんです。それに対してわれわれ(引用者注:同人雑誌の側)は別に還元を要求はしないけれども、しかし、それでいいんだろうか。

(引用者中略)

ぼくらでも、早い話が、非常にむかつくのは、たとえば一人ちょっとこう、ピュッと顔を出すと、パーッと出版社から直通でまず発行所へ来よりますわ。そこまではよろしんやけども、あとはもう飛ばしてしもうて、本人に直結でパパパーッとこう、マスコミの線に乗せてしまいますわね。そういう非礼ですな、非礼を防止し、してやらんことには、あまりにも大出版社が気まますぎますね。」(『関西文学』昭和44年/1969年1・2月合併号 「座談会 同人雑誌を語る」出席者:北川荘平、松岡昭宏、松田達郎、尾下欣一、中川九郎、横井晃、司会:八橋一郎より)

 具体例は出していませんが「ぼくらでも、非常にむかつく」という表現をしています。出版社のやっている文学賞が、同人雑誌の人たちから見て、ある面で憧れの対象でありながら、ある意味で憎悪されているのは、このシステムを「非礼」だと見る感覚が、当時まだ、同人雑誌文化のなかに残っていたからかもしれません。いま、同じことを「非礼」と感じる人が、果たしているんでしょうか。

 そう考えると、純粋芸術を目指してやっている、と言っているのに、芥川賞ならともかく、そうでもない奴が、勝手に目をつけて、勝手に候補にして、勝手に落選させるというのは、非礼・オブ・非礼でしかない。と、直木賞のその立場が極めて悪く映ったとしても文句は言えません。しかも、二期も連続して、この雑誌から候補作を引き抜いているのですから、やりもやったり直木賞め、という状態です。

           ○

 原田八束さんは、ほとんど誰にも知られていなかった昭和42年/1967年~昭和43年/1968年、第58回から第60回まで3期連続で直木賞の候補に挙がった、なかなかの猛者ですが、神戸の企業に働いていた、という点では松田さんと同じ、一般社会のなかに暮らす文学好きの一人でした。

 働きながら、小説を習作し、そのうち懸賞小説に投稿しはじめ、昭和35年/1960年にはサンデー毎日小説賞で「白い谷間」が選外佳作、昭和37年/1962年「西域伝」のオール讀物新人賞の佳作入りを経て、同年後期のオール讀物新人賞を「落暉伝」で受賞。と着実に成果を上げていきます。

 しかしどうも、そこから数年、書きあぐねた時期があったらしく、せっかく新人賞をとったのにその先が続きません。そんな折りに、地元神戸で松田さんが立ち上がるのにつられて、原田さんも『風群』に加わり、まず発表したのが「風塵」でした。新人賞を受賞した「落暉伝」と同様、古代の中国に材をとった歴史物です。

 もとをたどれば原田さんは、10代の終わりから20代前半に中国で生活をしていた経験があり、そんなことから、とくに西域エリアの歴史や事物に関心があったんだそうで、遊牧の民、匈奴の部族に視点を据え、そこに生きる人々の話を詩情たっぷりに描いてみたところ、大評判をかっさらいます。筆力もさることながら、文芸同人誌に古代中国モノの創作、という物珍しさも、大きくポイントを稼いだ一因だったと思います。

 いまはもう、そんなことはないかもしれませんが、この当時、「古代中国を書いた」というだけで、すぐに中島敦のことを持ち出して講釈を垂れるイヤミな文学愛好者、みたいな人がけっこういた、と聞きます。あるいは、こんなもの井上靖の二番煎じじゃないかと、すべてを何かの枠組みに収めなければ気の済まない人たちが、猛然と食ってかかる、といった按配。

 こういう声に、しばらくひるまなかった原田さんも偉いと思いますが、つづけて『風群』に「河竜の裔」を書き、あるいは『オール讀物』に「玉妖記」を寄せ、どれもこれも古代中国の人物しか出てこない、というラインを貫いて、3期連続で直木賞の候補に選ばれました。

 「古代中国」とは言っても、どれも違う場所、違う時代の、違う話です。これで一つのものしか書けない作家と見られるのは、酷なことだと思いますが、酷なことをしてしまった代表格が、このときの直木賞で、西域物以外を読ませてもらわなければこの作家には賞はあげられない、という意見まで出て、この逸材をしりぞけてしまいます。残念なことです。

 その後、『風群』は、あるいは原田さんはどうなったんでしょうか。

 意気軒昂に創刊し、80名程度にまで膨れ上がった同人組織をまとめることになった松田さんは、

「ぼくはいま率直にいって、風群という同人雑誌づくりに疲れている。」(『風群』15号[昭和47年/1972年4月] 松田達郎「編集後記」より)

 と、創刊5年目にして弱音を吐き、それでも数年は続刊したようですが、ぱったり刊行が止まり、森下節さんには「近頃、さっぱり音沙汰がないのはさびしい」(昭和55年/1980年9月・原生林刊『新・同人雑誌入門』)と悲しまれることに。

 いっぽう原田さんも、ほとんど創作という創作はなく時は過ぎていきました。いったいどうやって暮らしていたのか。昭和47年/1972年6月から昭和49年/1974年2月まで『神戸新聞』夕刊で連載した「虹と落日」が、平成4年/1992年9月、ふるさと伯方町の教育委員会によって単行本化された折りに、当時の伯方町長、渡辺誠司さんが寄せた一文が、その一端を明かしてくれています。

 それによると、長く神戸に住んだ原田さんは、昭和62年/1987年ごろ伯方へ帰ってくることになり、翌年から伯方町の広報紙の編集者として嘱託で働くことになった、とのこと。

「原田さんの筆力には定評がありますが、その一端を『広報はかた』に見ることができます。『広報はかた』はコンクールでたびたび賞を受けていますが、これはしっかりした編集方針と、原田さんの筆力におうところが大きい――と私は思っております。」(『虹と落日』 渡辺誠司「原田八束さんと伯方島のこと」より)

 晩年は地に足のついた仕事ぶりで、その地域でバツグンの存在感を示したようです。素晴らしいことだと思います。

 何より、「古代中国ものばっかりじゃん」と、直木賞の選考委員や批評家たちにさんざん言われて、(おそらく)イラッと来た原田さんが、次に興味をもって書いた小説が村上海賊モノの『虹と落日』。やがてこの路線が時を超え、めぐりめぐって21世紀、今度は直木賞で落選させられた和田竜さんが、『村上海賊の娘』を書いて本屋大賞をとるという展開の、ひとつの足がかりになったのです……という落とし方は、まあどう考えても強引でしたね。思いつくとすぐ書きたくなる悪いクセが出ました。すみません。

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