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2018年4月29日 (日)

『現代作家』『南方文学』『狼群』…大衆文芸の作家が同人誌をつくってもいいじゃないか、という福岡周辺での盛り上がり。

『現代作家』

●刊行期間:昭和37年/1962年6月~昭和42年/1967年8月(5年)

●直木賞との主な関わり

  • 中村光至(候補1回 第53回:昭和40年/1965年上半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『現代作家』掲載作一覧

『南方文学』

●刊行期間:昭和45年/1970年5月~昭和46年/1971年4月(1年)

●直木賞との主な関わり

  • 白石一郎(候補7回+受賞 第63回:昭和45年/1970年上半期~第97回:昭和62年/1987年上半期)
    ※ただし第63回以外は、別の媒体等に発表した作品での候補

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『南方文学』掲載作一覧

『狼群』

●刊行期間:昭和47年/1972年~昭和49年/1974年11月(2年)

●直木賞との主な関わり

  • 古川薫(候補9回+受賞 第53回:昭和40年/1965年上半期~第104回:平成2年/1990年下半期)
    ※ただし第72回(昭和49年/1974年下半期)以外は、別の媒体等に発表した作品での候補

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『狼群』掲載作一覧

 昭和30年代から昭和40年代の直木賞は(……いや、直木賞に限ったことじゃないですが)、とにかく中間小説誌が天下をとった時代です。と同時にいっぽうで、西のほうの地方で大衆文芸と同人誌の文化が融合、スパークを起こした時代でもあります。

 すでにこれまで、古川薫さんが出た下関の『午後』(昭和36年/1961年創刊)滝口康彦さんが加わった佐賀の『城』(昭和38年/1963年に第二次出発)を取り上げました。ここでもうひとつ、スパークへの導火となった雑誌があります。福岡の『現代作家』(昭和37年/1962年創刊)です。

 この雑誌については、福岡市文学館の『文学館倶楽部』16号[平成25年/2013年3月]に、坂口博さんの「福岡の文学雑誌「現代作家」」という丁寧な解説記事と、創刊号~最後の第11号までの総目次が載っていて、必見の資料なんですが、基本、大衆文芸とは遠い存在にあったことがうかがえます。その点では『午後』や『城』とも似たものがありますけど、「はじめから大衆文芸を目指すヤツなどいない」という、あからさまな偏見が、文学のまわりをぶ厚く覆っていた頃につくられた雑誌ですから、仕方がありません。

 それはそれとして、『現代作家』の中心人物のひとりだったのが中村光至さんで、福岡の地で『九州文学』から、『文學街』(昭和26年/1951年・以下創刊年)、『九州作家』(昭和28年/1953年)、『地標』(昭和29年/1954年)、『藝術季刊』(昭和30年/1955年)などなど、いくつもの同人誌に関わったり、みずからつくったりするうちに、昭和35年/1960年に応募した「交叉点」が〈オール新人杯〉の次席、半年後には「白い紐」が〈オール讀物新人賞〉と名称の変わったこの賞を受賞して、いよいよ筆も乗り始めるかと思われたのが、38歳のときでした。

 ただ、『オール讀物』の新人賞をとったぐらいで、すぐに筆一本で食えるようにはならない。という事情は、昔も今も違いません。中村さんも福岡県警に籍を置きながら、稿料の出る原稿から、同人誌用の無償の小説まで、いろいろと書きつづけます。すると、こんどは直木賞が今とは違って「新人賞をとっても次々と商業出版界に乗り出していけるわけではない人たちを、救済するシステム」という性格を内蔵していたおかげで、中村さんの場合も、商業誌に書いたものではなく、同人誌に発表した小説が、直木賞の予選を通過することになりました。昭和40年/1965年、『現代作家』9号全138ページの9割程度を使った長篇430枚の、「氷の庭」です。

 これが直木賞の候補となったことで、中村さんの文名が一気に上がったことは間違いありません。この年、講談社から単行本化されたこの作品が、中村さんの処女出版となり、福岡地域に居を構える大衆文芸(いや、中間小説)分野の作家のひとりとして存在感を示し始めます。

 しかし、根が純文学志向の高い同人誌出身の人でもあった。ということが、その後、直木賞に対して隠れた、だけども大きな功績を残すことにつながるのですから、何とも面白くてワクワクしてきます。おのずとテンションの上がるところでしょう。

 このときキーマンとなったのが、その『現代作家』に途中から加入し、中村さんとともに文学の熱を高め合っていた仲間、鵜飼光太郎さんです。本名は澤井覚、一般には推理作家の石沢英太郎として知られています。

 中村さんが、オール讀物新人賞受賞、直木賞候補入りで光を浴びたのと、ちょうど同じころ、鵜飼=石沢さんもまた、昭和37年/1962年にオール讀物推理小説新人賞の最終候補に残り、昭和38年/1963年には宝石短編賞で「つるばあ」が佳作、昭和41年/1966年に双葉推理賞を「羊歯行」で受賞と、かなりの猛ダッシュを見せます。さあ、原稿料を稼ぎながら作家としての腕を高めていかなければならない、そんな状況になったとき、石沢さんが思いついたのが、近くに住んでいる大衆文芸エリアの作家たちだけで、何か同人誌をつくれないかな……ということでした。

 おお、それはいい、やってみようか、と応じたのが、同人誌を何誌もつくっては渡り歩いてきた中村さんです。福岡にいた岩井護さん(昭和37年/1962年講談倶楽部賞佳作、昭和43年/1968年小説現代新人賞受賞)、白石一郎さん(昭和32年/1957年講談倶楽部賞受賞)、佐賀の滝口康彦さん(昭和30年/1955年講談倶楽部賞佳作、昭和34年/1959年オール新人杯受賞、他多数)という3人に声をかけ、そこに石沢さんと中村さんが加わり、昭和44年/1969年2月、西日本新聞の役員室で、新雑誌創刊の座談会をひらくまでにこぎつけます。

 まさに、これが九州北部+山口エリアの、大衆文芸でカネを稼ぎはじめた作家たちが、いっしょに同人誌をやる、というスパークの発火となった瞬間です。直木賞の歴史に燦然と輝く〈西国三人衆〉現象にまでつながる契機ともなった、「同人誌と直木賞」のテーマのなかでもとびきりの、思わず感動で震えてしまう一大事件と言っていいでしょう(と、震えているのは、ワタクシだけかもしれません)。

「この「南方文学」を出すまでに、一年半かかった。昨年のはじめには、秋に出そうと準備はしたのだが、誕生まで優に一年半はかかった。たいへんな難産であった。雑誌創刊の話が出てから、PRの方がむしろゆきとどいてしまって、発行がおくれていることにだいぶお叱りをちようだいした。」(『南方文学』第1集[昭和45年/1970年5月]「あとがき」より ―署名:(中村))

 ということで、この集まりを提唱した石沢さんだけでなく、そこに共感を示し、段取りをつけ、編集の責務を担って、どうにか刊行を実現させた中村さんの努力もまた、尊いものだと記しておきたいと思います。創刊時に5人だった同人は、まもなく下関の古川薫さん、佐賀の河村健太郎さんという、直木賞候補経験者の2人を迎えて7人となりましたが、中村さんによれば、『南方文学』は「二号出したが、これも経済的な理由で廃刊に追いこまれた」(昭和63年/1988年10月刊『石沢英太郎 追悼文集』)と、短命中の短命に終わってしまいます。

 しかし何といっても、倶楽部雑誌の出身で、どこぞの文学的師匠の庇護があるわけでもなく、直木賞みたいな文学賞には遠いところにいたはずの白石一郎さんが、『南方文学』発表の一作で、はじめて直木賞の候補に入り、その作家的環境を大きく変えることになったという、なかなかの成果を残しました。

           ○

 直木賞もヒトの子です。生きた人間たちがやっています。カネになる・ならない、という経済的な打算をひとまず忘れて、まず満足できる作品づくりを目指して無償での努力を怠らない、という同人誌の理念を、しっかり受け止めてあげたい。そう思ったとしてもおかしくはありません。現に直木賞では、昭和30年/1955年前後から昭和50年/1975年ごろまで、同人誌を予選対象の一角とする精神が、異様に栄えました。

 こういうなかで目をつけられた作家のひとりが、白石一郎さんです。『南方文学』での「孤島の騎士」以降は、文藝春秋の雑誌にも多く作品を発表するようになり、何度も直木賞の候補に挙がって、落とされて、という楽しくも煩わしかったと思われる時期を送ることに。しかし、それでも、きっかけをつくってくれた石沢英太郎さんに対して、

「石沢英太郎はこの世で私が出会った恩人の一人であり、その思いは今も変わらず、決して忘れない。

滝口康彦、古川薫を含めた私たち四人で同人雑誌「狼群」を創刊したのも今は懐かしい思い出である。これもプランナーとしての石沢さんの提唱であった。」(昭和63年/1988年8月・光文社/光文社文庫 石沢英太郎・著『さらば大連』所収 白石一郎「やってくれた」より)

 と感謝の意を表しているのは、やはり石沢さんがいたからこそ注目されることができた、自身の来歴をふまえてのことでしょう。

 さて、そういうことで言えば、上の引用文で出てきた『狼群』は、『南方文学』消滅後、そこで出会った4人が再結集して、「大衆文芸作家の同人誌を、まだまだやっていきたい」という思いを受け継いだ一誌です。白石さんの解釈では、『南方文学』が分裂してできたものだ、ともいいます(『オール讀物』平成3年/1991年3月号 古川薫との対談)。

 創刊号が確認できていないので、うかつなことは書けませんが、昭和49年/1974年に出た第4号を見るかぎりでは、B5判・角背の立派なつくりの雑誌で、「編集後記」に古川薫さんが明かしているところによれば、下関市の西日本教育図書という会社が金銭面をバックアップするかたちで刊行されているとのこと。一般にいう同人誌とは、少し様相は違うかもしれませんが、しかし同人として名を連ねた石沢、古川、白石、滝口の4人はほんとうに気が合ったらしく、当時も、あるいはのちに書かれた回想などでも、『狼群』の集まりは楽しい思い出として、たびたび目にすることができます。

 同人誌活動から出発した2人と、雑誌の懸賞応募から作家となった2人。このバランスがうまく行ったものか、東京の編集者には「あんたたちは仲がよすぎる」と呆れられながらも、誰かの家に集まったり、いっしょに旅館に泊まったり、付き合いはその後も続きますが、同人みんな、商業誌の仕事に忙しくなってきたことや、オイルショックに見舞われた影響で、印刷所のほうも、遊びのような出版を続けられなくなったこと、などなどが重なって『狼群』は自然と休刊してしまいます。

 昭和49年/1974年に『狼群』がなくなったとき、はじめて直木賞の候補になってから滝口さんは16年、古川さん9年、白石さん4年。プロの作家としての長い道のりが、そこからまだまだ待っています。

 彼らの活躍を追いかけるように、直木賞のほうも商業出版を重点的に対象する方向へとシフトしていき、〈西国三人衆〉伝説ができあがっていくわけですが、この歴史を可能にしたのは、明らかに同人誌という文化だった、と言う他ありません。そう考えると、「大衆文芸の作家たちで、同人誌をつくってしまおう」と、その苦難の道に足を踏み入れた中村光至さんと石沢英太郎さんの偉業に、直木賞ファンとしてあらためて感謝したくなるところです。

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