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2018年4月 8日 (日)

『無頼』…同じ回で直木賞の候補になった草川俊と福本和也、二人で組んで同人誌を出す。

『無頼』

●刊行期間:昭和35年/1960年11月~昭和43年/1968年5月?(8年)

●直木賞との主な関わり

  • 草川俊(候補3回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第51回:昭和39年/1964年上半期)
    ※ただし第39回、第40回は、別の媒体に掲載された作品によるもの

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『無頼』掲載作一覧

 直木賞の候補一覧を見ていると、同じ回の候補に選ばれやすい作家ペア、というのが存在します。

 いちばん多いのが、61回、62回、65回、71回と、藤本義一さんが候補に挙がった4回すべてで、ともに候補になった阿部牧郎さん、というペアです。あまりにバッティングしすぎて、当時、二人のことを好敵手として比較する雑誌の記事まで書かれました。

 その他、同じタイミングで3度、候補に挙がったペアには、海音寺潮五郎×濱本浩とか、田岡典夫×神崎武雄とか、長谷川幸延×中村八朗とか、古川薫×もりたなるおとか、連城三紀彦×高橋治林真理子×落合恵子乙川優三郎×宇江佐真理東野圭吾×真保裕一、東野圭吾×伊坂幸太郎葉室麟×道尾秀介……といった組み合わせがあり、これが2回となると、さらにその数が急増します。今日は、たまたま直木賞で同じ回に候補になった、というそんな縁で結ばれた人たちの、同人誌にまつわるおハナシです。

 およそ同人誌が結成される背景といえば、「同じ学校に通っている」「同じ地域に住んでいる」というのが二大定番でしょう。そこにあとから「同じ小説教室に通っている」というのが三つ目の定番として加わりますが、マイナーな経緯のひとつに、同じ文学賞に関係した人たちの集まり、というのがあります。たとえば『小説会議』などがそうです。

 しかし、同人誌をつくりました、なかから直木賞の候補者が出ました、という順番はよく見かけますが、まず直木賞の候補になり、それがきっかけで同人誌結成の話が持ち上がった、などという例は、かなり稀だと思います。いや、この『無頼』の他にそんな例があるんでしょうか。

 『無頼』は、福本和也さんと草川俊さん、二人の作家によってつくられました。きっかけとなったのは正真正銘、直木賞……というかそれを取り仕切る文藝春秋の計らいだったと伝えられています。

 お互いに、二度ずつ直木賞の候補になってまもなくの昭和35年/1960年ごろ、文藝春秋がオール新人杯受賞者や直木賞の候補者などに声をかけて、懇談会を開いたことがあったんですけど、そこで隣の席になったのがご両人。後日、二人で酒を飲む機会を得たところ、福本さんから強引に同人誌の結成を誘われたのだ……と、『大衆文学研究』に(K)さん、おそらく草川さんが書き残しています。

「三人ぐらいで同人雑誌をやらないかといい出した張本人は、福本和也である。相談を受けたのは草川俊だった。この二人は全く未知の人間だった。どうやら意識の中に、お互いの名前を刻みつけたのは、三十三年の上期と下期に、つづけて同じく、直木賞候補に名を連ねて以来のことだろう。

(引用者中略)

草川は、実のところ福本をよく知らないので、半信半疑でいたが、思いがけず福本が積極的に動き出し、草川が引きずられる恰好になった。あとで草川が感心したことだが、若いからという理由ばかりでなく、福本は全てに積極的で、行動派の人間である。」(『大衆文学研究』7号[昭和38年/1963年7月] 「大衆文学・同人誌めぐり(その五) 無頼の六人」より ―署名:(K))

 創刊は昭和36年/1961年11月で、誌名の『無頼』は、『オール讀物』編集部の某氏にも相談して決まった、ということですから、商業出版の世界に片足を突っ込んだような成り立ちです。

 草川さん47歳、対して福本さん33歳。年齢層も経歴も作風もほとんど交わるところのない二人が意気投合して手を組み、数年、同人誌を出しつづけたのは、いかなるタマシイの交流があったものか。うかがい知れませんけど、明らかに雑食の傾向が強いと言っていい直木賞予選の特徴が、このときばかりはうまく働いたものでしょう。

 草川さんは『東北作家』や『下界』などで長く同人誌経験を積んだ人でもあります。年もくっています。そんなことから彼が、編集から経理処理などもろもろの雑誌づくりを担当、おかげで8年ぐらいは続いたようです。

 他の同人には、ゴルフ雑誌の編集者だった文芸評論の田野辺薫さん、サンケイ新聞に勤める戸山草二さん、花や虫や貝殻の収集・取引で生活している二宮泰三さん、電通の名古屋支社に籍をおく朝倉文治郎さんなどがいて、それぞれの文業をとらえようと思っても、なかなか困難が伴いますが、草川さんと福本さんに関しては、この『無頼』を十二分に活用し、次の新たな展開につなげることに成功しました。

           ○

 この同人誌に異常な熱意を見せていた福本さんは、酒に酔った勢いで、長篇だ、おれに長篇を書かせろと草川さんに要求。酔いがさめたあとは、そんなことはすっかり忘れたそうですが、酒に酔ったときだけデカいことを言う仲間を、冷静になだめすかし、励ましながら原稿を催促しつづける無償の営為を、何度でもやってのけてしまえるのは、これは草川さんの、同人誌編集者としての優秀さの証しでしょう。優秀さであり、ひとつの誇るべき才能です。

 それで福本さんは、うんうん苦しみながら『無頼』創刊号から「銭」を連載。これが完結を見るまえに、三一書房の編集者、井家上隆幸さんの目にとまり、大幅に書き足して『悪の決算』として出版の運びにこぎつけます。昭和38年/1963年のことでした。

 このころ福本さんはすでに、原稿だけで生活ができるプロ作家になりかかっていた時期ですが、しかしこのままでは早晩仕事もなくなるかもしれない、という危機感をもち、あれこれと足がかりを探していたと言います。そのひとつが、おそらく自腹を切って自分の鉱脈を試すという同人誌の創刊だった、と見てまず間違いはなく、しかも出版にまで至ったことで、とりあえずはこれは一つの成功だったと見ていいでしょう。

 あるいは、まだ誰も競合のいないジャンル、ということで福本さんが航空文学に目をつけたのも、直木賞の候補になったあとの、この時期でした。もともと空を飛びたいという望みが強く、小説を書くためにプロのパイロットになろうと考えますが、何よりそのためには費用と時間がかかる。先立つものはカネだ、カネだ、というこのタイミングで持ち込まれた仕事が、漫画の原作を書くお話。渡りに舟で、こころよく引き受けると、必死に勉強と研究を重ねて仕事に向き合い、見事、漫画の原作者という地位を獲得。稼いだお金はパイロットになるための訓練費に当てたそうです。

 小説も書かず、飛行機にうつつを抜かし、かたわらでマンガなんかの原作をして、あいつはもう小説家として終わった……と、白い眼で見られた、とも言います。

「文壇の会合などでは、ずいぶん屈辱的な気分を味わった。昔馴染の編集者の一部には、そっぽを向いて話しかけることすらしてくれない者もあった。(引用者中略)どうやら私は書けなくなったと烙印を捺されてしまったらしい。(引用者中略)

何れにしろ、この長期間の沈黙は、私にとっては宝石よりも貴重だった。まだ人生経験の浅かった私は、あのままチヤホヤされ続けていたら、潰れてしまったに違いないからだ。」(『小説CLUB』昭和53年/1978年4月号 福本和也「新リレー随筆 聞き上手」より)

 こういう経験を「宝石よりも貴重」ととらえるところが、福本さんの偉さだと思いますが、直木賞の候補にあがった直後、いろいろと自分の方向性を模索するなかで、時間をかけて育んだ一手が、のちに「航空小説の第一人者」としての稀有な業績を生む礎になったことに間違いはありません。

 いっぽう、草川さんのほうです。福本さんに比べて小説の題材も「戦前・戦中の中国モノ」と、かなり地味で、『無頼』に発表した「赤い運河」もそんな一篇でした。これが3度目の候補に選ばれ、しかし受賞はできず、作家としてはなかなか大成功の道とは言いがたい歩みを見せることになりますが、自然風土、動物、植物、これらに対する尋常ならざる情愛が、やがて物書きとして生きることになるのですから、何がどうつながるか、この世はよくわかりません。

 〈草川俊〉の名で刊行された本は数知れず、ワタクシも全部読んだわけじゃありませんけど、昭和58年/1983年6月・日本経済評論社刊『わが鳥獣虫魚たち』などは、アカガエル、アジ、イナゴ、イワナ、ほか27の鳥獣虫魚に関する章を立て、草川さんの来歴、楽しくも苦しい同人誌修業時代のことを差し挟みながら、『黄色い運河』刊行の際に推薦文を書いてもらった檀一雄さんとの交流など、ちょっと他では見かけないエピソードがふんだんに盛り込まれていて、ヒトゴトの文壇エピソードを読んでは興奮して鼻血が出てしまうワタクシのような人間にも、楽しく読めるエッセイ集になっています。

 と、出会う前も、別れたあとも、まったく異なる道を歩んだ作家二人だったんですけど、いっとき肩を組んだ同人誌『無頼』、それを結びつけた縁は、たしかに直木賞にありました。そう聞くだけで、今日もまた鼻血が止まりません。

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