『暖流』…新橋遊吉の受賞の影で、ひっそり徳島に帰った中川静子の、その後。
『暖流』
●刊行期間:昭和36年/1961年10月~昭和52年/1977年12月(16年)
●直木賞との主な関わり:
- 中川静子(候補2回 第52回:昭和39年/1964年下半期~第53回:昭和40年/1965年上半期)
※ただし第52回は、別の媒体に掲載された作品によるもの
●参考リンク:『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『暖流』掲載作一覧
ああ、新橋遊吉さん。ついに帰らぬ人となってしまいました。
新橋さんといえば、同人誌の作品で直木賞を受賞した数少ない体験者ですから、当然、「同人誌と直木賞」のテーマのなかでは重要人物のひとりです。あまりに重要だったもので、『讃岐文学』のエントリーを書くときにさっさと触れてしまい、改めて語ることもないんですが、もう一誌、直木賞に関連した同人誌で、新橋さんと縁のあったものがあります。せっかくなので、今週はそれで。
昭和36年/1961年に創刊された『暖流』は、徳島出身の貴司山治さんが主宰格となって率いた雑誌です。徳島から日本の文壇に通用する作家を育てて羽ばたいていってもらおう、というのを目的のひとつに掲げ、当時なかなかキテた新進の佃実夫さん、岡田みゆきさん、近藤季保さんなどの参加を見て、同人からの会費徴収は0円、掲載にかかる費用も0円、お金は全部、貴司さんが負担するという、丹羽文雄さんみたいな太っ腹なことをしていました。その創刊理念や発刊経緯を見てもわかるとおり、徳島ラブな心を芯にもつ、徳島人のための同人誌です。
しばらくはそれで順調に号数を重ねていきますが、カネも払わず原稿だけを同人誌に書く、という構造が当事者意識の薄れにつながったものか、だんだん原稿の集まりが悪くなっていきます。これじゃいかんと貴司さん危機感を抱いて、同人たちに相談のうえ、ふつうの同人誌みたいに会費をとり、メンバーは徳島人だけで構成するという縛りもやめて、再スタートを切ったのが第6号(昭和41年/1966年1月)からでした。
そこで新規に加入してきたのが、お隣り香川県で自前の同人誌をやっていた永田敏之さんや亀山玲子さんで、これはもともと『四国文学』を主宰していた佃さんが、亀山さんの筆力と情熱に感心していたところ、『暖流』の門戸が開かれたタイミングで、彼女を誘ったそうです。また、佃さんと永田さんは旧知の間柄でしたから、二人の加入は何の障害もなかったものと見られます。
しかし、亀山玲子のいるところ、だいたい髪結いの亭主がくっついてくる……という法則が、あったわけじゃないんでしょうが、亀山さんの旦那、新橋遊吉さんは、妻が新たに入るという『暖流』の、同人の顔ぶれを見て、こんな立派な人たちがいる雑誌なら、おれも入りたいなあ、と口走ったとか何だとか。とはいえ、そのとき彼には『行人』に発表した「内輪外輪」と、『讃岐文学』の「八百長」ぐらいしか作品がなく、まだおれには『暖流』の仲間になるほどの資格はない、とあきらめますが、直後に「八百長」が第54回(昭和40年/1965年・下半期)直木賞の候補に選ばれたことがわかり、しかも誰もがびっくり仰天したことに、一発で受賞までしてしまいます。
そういった縁で、新橋さんは『暖流』のほうにも「『暖流』の人びとと共に」(7号・昭和41年/1966年7月)というエッセイを載せ、あるいは佃實夫さんによる「東京例会の記――新橋遊吉祝賀会――」(同号)や「『八百長』出版記念会の記」(8号・昭和42年/1967年4月)などの紹介文が載り、祝賀ムードを『暖流』に送り込みます。かつて、直木賞と芥川賞ができた当初、どうせこんな賞はすぐにやめるだろうと憎まれ口を叩いて菊池寛さんにムッとされた、『暖流』の親分、貴司さんとしても、やはりこうして縁のある人が直木賞受賞でパーッと騒がしくなることには、ご機嫌だったようです。
「受賞式の翌日の夕刻、内幸町もとのNHKの前あたりの地下レストランで「暖流」主催の受賞記念パーティが東京在住の同人によって催された。(引用者中略)新橋遊吉は名前を変え芥川賞を狙え、次は亀山が直木賞を獲れ。貴司先生がいったのか、佃氏がいっているのか、ビール瓶とコップのかち合う音とともに聞えて来たのがまだ耳もとに残っている。」(『讃岐文学』25号[昭和49年/1974年11月] 永田敏之「なつかしい貴司先生」より)
と、いや、これは佃さんのテンションが上がっただけかもしれませんが、貴司さんがこの受賞を歓迎したのは次の文章を読んでも間違いありません。
「暖流の会の改組は成功だったようだ。
新しい会員がいろいろはいってきて、それが新しい血液となり、徳島の同人の創作慾を刺戟もしたらしい。
ことにそういうイミの一と騒ぎが生じたのは新橋遊吉君の直木賞受賞事件だった。」(『暖流』7号[昭和41年/1966年7月] 貴司山治「暖流雑記」より)
ほとんど忘れられたプロレタリア作家、と見られておかしくなかった貴司さんが、ふるさと徳島のために私財を投じてつくった雑誌が、こうやって盛り上がって一つの成功を見たのですから、よかったよかった。とホッとしたのも束の間、創刊時から『暖流』を支えつづけてきた佃さんが、自作『阿波自由党始末記』について貴司さんから酷評のような私信が送られてきたことにブチ切れて、10号の編集途中で憤然と脱退。別のハナシによれば、「○○はおれが育てた」ふうの偉そうな姿勢をとりつづける貴司さんの傲慢さに耐えられなかったのでは、ともいいますが、ともかく10号以降は、有力な同人がごっそりと抜けて、なかなか苦しい同人誌活動となり、昭和48年/1973年11月、貴司さんが亡くなると、もはや立て直す余力もなく、昭和52年/1977年に3年半ぶりに第17号を出して、おそらく誌命も尽きたかっこうです。
などと、『暖流』の盛衰の流れを追っている場合ではありません。新橋さんの直木賞受賞の盛り上がりとは別に、やはり『暖流』といえば、中川静子さんが二期連続で候補入りした話題に尽きるでしょう。他人の不幸を見て喜ぶ人たちにとっては、きっと好物にちがいない、いわゆる文壇残酷物語的な、直木賞史上でも有数の悲哀に満ちた中川さんのエピソードについては、後半で触れてみようと思います。
○
新橋さんが直木賞を受賞した折りも折り、その受賞記念エッセイが載った『暖流』7号に、中川さんもひとつの小文を寄せました。「迷いの中の八ヵ月」です。
徳島生まれの中川さんは、小学校を出たあとは製紙工場に働きに出ますが、宮大工だった父が亡くなり、一家で神奈川県に転居。女中奉公としていくつかの家に勤めるうち、本を読ませてくれる環境を求めて、いきなり徳田秋声さんのもとを訪ね、そこから岡田三郎さんを紹介されて、岡田邸で働いたこともあったと言います。読むだけでなく、書くことに興味を惹かれた中川さんは、その後、職を変えながらコツコツ原稿を書き、何人かの男を愛し、しかし結婚は拒み、『炎』『文芸首都』『徳島作家』などに拠りながら、懸賞小説に応募して、いくつか成果を挙げました。そんな苦労の人、中川さんに光が当たったのは昭和39年/1964年、第25回オール讀物新人賞を受賞したときです。ときに、中川さん45歳。
独身をつらぬき、徳島の地で、ただ小説の世界にのめり込む女性の姿は、物珍しくゴシップジャーナリズムの観点で興味のある人物と見られたんでしょう、彼女を取材した『女性自身』によって、「清貧の中で書いた女の根性 月五〇〇〇円の生活費と中川静子さんの関係」(昭和39年/1964年11月2日号)という記事に仕立てあげられます。まもなく『オール讀物』に受賞作「幽囚転転」が掲載されると、これが第52回(昭和39年/1964年・下半期)直木賞の候補にもなって、いよいよ中川さんに風が来たか、という展開です。
まあ、小説の内容はともかくとして、そうやって生きてきたあなたの生きざまのほうが面白い、その経験を書くんならうちがお金を出しましょう、東京での生活も世話しますよ、と言いだす女性誌があったものですから、中川さん迷いに迷います。けっきょく決断し、昭和40年/1965年5月に、徳島から上京。秋から連載するという約束で、少し書いては編集者に見せますが、駄目だ駄目だ、地味すぎる、こんなんじゃ読者の興味に合わない、もっと自分をさらけ出せ、と突き返され、そんなことが繰り返されるうちに、まもなくノイローゼに。
中川さんのもとに、二度目の直木賞候補の報がもたらされたのは、こんな状況のころでした。
「文学振興会から思いがけず「白い横顔」が直木賞候補になったとの知らせを受けたのだが、私は卒直によろこぶ気持のゆとりもなかったし、受賞などとても考えられなかった。(引用者中略)七月十九日の直木賞選考の夜も、私はむし暑い下宿で一人机にうつぶしていた。」(中川静子「迷いの中の八ヵ月」より)
この当時の経験をもとにした小説「或る不安な状況」(『徳島作家』23号/昭和50年/1975年7月)が、のちになって書かれていますが、このあたりのことが小説ではもう少し詳しく描かれていて、週刊誌の連載(予定)原稿にケチばかりつけてくる編集者が、候補入りの報を知ったとたん、いそいそと自宅を訪ねてきて、賞をとってもうちの原稿は続けて書いてくださいよお、お願いしますよお、などと言って浮かれている場面も出てきます。
しかし「白い横顔」は直木賞に落選し、女性誌の編集者からの連絡もぱったり途絶え、事前の約束だった秋、その雑誌で別の人の連載がはじまっているのを目にして完全に心の折れた中川さんは、8か月の東京生活に見切りをつけて徳島に帰郷。以後は、福祉施設の事務の仕事をしながら、従前どおり同人誌とか、地元の媒体にものを書く道を歩んだ、ということです。
けっきょく直木賞は地道な文学営為というより、カネの稼げるアッパラパーな小説を書ける人材しか求めていないんだなとか、作家的な力量よりどんな数奇な経験をしてきたかで売り出そうとする出版業界の浅はかさは今に始まったことじゃないよねとか、いやそういう状況を合わせ飲んで、自分の書きたいものを書けなきゃ作家とは呼べないでしょ、中川静子なんて読んだことないけど、つまりは素人だったってだけのことじゃんとか、まあいろいろな感想を抱けるところでしょうが、中川さんの中川さんたるゆえんは、徳島に帰ってからの行動にあると思います。
失意の物書き、という自分を題材に、小説を書いてしまい、しかも昭和57年/1982年、自選で短篇集を編む機会が訪れると、なぜかこの「或る不安な状況」を収録作に選んでしまう(近代文藝社刊『鬼にもあらで』)。マスコミに興味本位で取り上げられたことが、その苦しい8か月につながったのに、昭和45年/1970年には『朝日新聞』の取材を、断ることもなく受けて、「昼は施設・夜は小説 “おばさん作家”中川静子さん」(昭和45年/1970年11月22日)として、またまた大きな記事にされることも厭わない。稿料の出ない同人誌の原稿を書くいっぽうでは、新人物往来社の歴史文学賞にも応募して、佳作に入ってしまったりしている。
おそらく、「文芸ジャーナリズムにつぶされた」みたいな人は、イヤになって筆を折ったとか、マスコミの注目を避けつづけて生涯を終えたとか、そんなイメージがありますが、中川さんは全然ちがいます。
どんな環境に置かれても書くことをやめられない、という段階を、さらに超えていて、神々しいというか、ちょっとコワくて震えます。この書き手を使いこなすことができなかった、商業出版界の未熟さを、じんわり感じるいっぽうで、しかし正直、使いこなせなくて当然かもしれない、という気を起こさせるのが、中川静子という作家の特異なところです。
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