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2018年4月の5件の記事

2018年4月29日 (日)

『現代作家』『南方文学』『狼群』…大衆文芸の作家が同人誌をつくってもいいじゃないか、という福岡周辺での盛り上がり。

『現代作家』

●刊行期間:昭和37年/1962年6月~昭和42年/1967年8月(5年)

●直木賞との主な関わり

  • 中村光至(候補1回 第53回:昭和40年/1965年上半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『現代作家』掲載作一覧

『南方文学』

●刊行期間:昭和45年/1970年5月~昭和46年/1971年4月(1年)

●直木賞との主な関わり

  • 白石一郎(候補7回+受賞 第63回:昭和45年/1970年上半期~第97回:昭和62年/1987年上半期)
    ※ただし第63回以外は、別の媒体等に発表した作品での候補

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『南方文学』掲載作一覧

『狼群』

●刊行期間:昭和47年/1972年~昭和49年/1974年11月(2年)

●直木賞との主な関わり

  • 古川薫(候補9回+受賞 第53回:昭和40年/1965年上半期~第104回:平成2年/1990年下半期)
    ※ただし第72回(昭和49年/1974年下半期)以外は、別の媒体等に発表した作品での候補

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『狼群』掲載作一覧

 昭和30年代から昭和40年代の直木賞は(……いや、直木賞に限ったことじゃないですが)、とにかく中間小説誌が天下をとった時代です。と同時にいっぽうで、西のほうの地方で大衆文芸と同人誌の文化が融合、スパークを起こした時代でもあります。

 すでにこれまで、古川薫さんが出た下関の『午後』(昭和36年/1961年創刊)滝口康彦さんが加わった佐賀の『城』(昭和38年/1963年に第二次出発)を取り上げました。ここでもうひとつ、スパークへの導火となった雑誌があります。福岡の『現代作家』(昭和37年/1962年創刊)です。

 この雑誌については、福岡市文学館の『文学館倶楽部』16号[平成25年/2013年3月]に、坂口博さんの「福岡の文学雑誌「現代作家」」という丁寧な解説記事と、創刊号~最後の第11号までの総目次が載っていて、必見の資料なんですが、基本、大衆文芸とは遠い存在にあったことがうかがえます。その点では『午後』や『城』とも似たものがありますけど、「はじめから大衆文芸を目指すヤツなどいない」という、あからさまな偏見が、文学のまわりをぶ厚く覆っていた頃につくられた雑誌ですから、仕方がありません。

 それはそれとして、『現代作家』の中心人物のひとりだったのが中村光至さんで、福岡の地で『九州文学』から、『文學街』(昭和26年/1951年・以下創刊年)、『九州作家』(昭和28年/1953年)、『地標』(昭和29年/1954年)、『藝術季刊』(昭和30年/1955年)などなど、いくつもの同人誌に関わったり、みずからつくったりするうちに、昭和35年/1960年に応募した「交叉点」が〈オール新人杯〉の次席、半年後には「白い紐」が〈オール讀物新人賞〉と名称の変わったこの賞を受賞して、いよいよ筆も乗り始めるかと思われたのが、38歳のときでした。

 ただ、『オール讀物』の新人賞をとったぐらいで、すぐに筆一本で食えるようにはならない。という事情は、昔も今も違いません。中村さんも福岡県警に籍を置きながら、稿料の出る原稿から、同人誌用の無償の小説まで、いろいろと書きつづけます。すると、こんどは直木賞が今とは違って「新人賞をとっても次々と商業出版界に乗り出していけるわけではない人たちを、救済するシステム」という性格を内蔵していたおかげで、中村さんの場合も、商業誌に書いたものではなく、同人誌に発表した小説が、直木賞の予選を通過することになりました。昭和40年/1965年、『現代作家』9号全138ページの9割程度を使った長篇430枚の、「氷の庭」です。

 これが直木賞の候補となったことで、中村さんの文名が一気に上がったことは間違いありません。この年、講談社から単行本化されたこの作品が、中村さんの処女出版となり、福岡地域に居を構える大衆文芸(いや、中間小説)分野の作家のひとりとして存在感を示し始めます。

 しかし、根が純文学志向の高い同人誌出身の人でもあった。ということが、その後、直木賞に対して隠れた、だけども大きな功績を残すことにつながるのですから、何とも面白くてワクワクしてきます。おのずとテンションの上がるところでしょう。

 このときキーマンとなったのが、その『現代作家』に途中から加入し、中村さんとともに文学の熱を高め合っていた仲間、鵜飼光太郎さんです。本名は澤井覚、一般には推理作家の石沢英太郎として知られています。

 中村さんが、オール讀物新人賞受賞、直木賞候補入りで光を浴びたのと、ちょうど同じころ、鵜飼=石沢さんもまた、昭和37年/1962年にオール讀物推理小説新人賞の最終候補に残り、昭和38年/1963年には宝石短編賞で「つるばあ」が佳作、昭和41年/1966年に双葉推理賞を「羊歯行」で受賞と、かなりの猛ダッシュを見せます。さあ、原稿料を稼ぎながら作家としての腕を高めていかなければならない、そんな状況になったとき、石沢さんが思いついたのが、近くに住んでいる大衆文芸エリアの作家たちだけで、何か同人誌をつくれないかな……ということでした。

 おお、それはいい、やってみようか、と応じたのが、同人誌を何誌もつくっては渡り歩いてきた中村さんです。福岡にいた岩井護さん(昭和37年/1962年講談倶楽部賞佳作、昭和43年/1968年小説現代新人賞受賞)、白石一郎さん(昭和32年/1957年講談倶楽部賞受賞)、佐賀の滝口康彦さん(昭和30年/1955年講談倶楽部賞佳作、昭和34年/1959年オール新人杯受賞、他多数)という3人に声をかけ、そこに石沢さんと中村さんが加わり、昭和44年/1969年2月、西日本新聞の役員室で、新雑誌創刊の座談会をひらくまでにこぎつけます。

 まさに、これが九州北部+山口エリアの、大衆文芸でカネを稼ぎはじめた作家たちが、いっしょに同人誌をやる、というスパークの発火となった瞬間です。直木賞の歴史に燦然と輝く〈西国三人衆〉現象にまでつながる契機ともなった、「同人誌と直木賞」のテーマのなかでもとびきりの、思わず感動で震えてしまう一大事件と言っていいでしょう(と、震えているのは、ワタクシだけかもしれません)。

「この「南方文学」を出すまでに、一年半かかった。昨年のはじめには、秋に出そうと準備はしたのだが、誕生まで優に一年半はかかった。たいへんな難産であった。雑誌創刊の話が出てから、PRの方がむしろゆきとどいてしまって、発行がおくれていることにだいぶお叱りをちようだいした。」(『南方文学』第1集[昭和45年/1970年5月]「あとがき」より ―署名:(中村))

 ということで、この集まりを提唱した石沢さんだけでなく、そこに共感を示し、段取りをつけ、編集の責務を担って、どうにか刊行を実現させた中村さんの努力もまた、尊いものだと記しておきたいと思います。創刊時に5人だった同人は、まもなく下関の古川薫さん、佐賀の河村健太郎さんという、直木賞候補経験者の2人を迎えて7人となりましたが、中村さんによれば、『南方文学』は「二号出したが、これも経済的な理由で廃刊に追いこまれた」(昭和63年/1988年10月刊『石沢英太郎 追悼文集』)と、短命中の短命に終わってしまいます。

 しかし何といっても、倶楽部雑誌の出身で、どこぞの文学的師匠の庇護があるわけでもなく、直木賞みたいな文学賞には遠いところにいたはずの白石一郎さんが、『南方文学』発表の一作で、はじめて直木賞の候補に入り、その作家的環境を大きく変えることになったという、なかなかの成果を残しました。

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2018年4月22日 (日)

『日輪』…将棋の世界を描いた吉井栄治、何の奇跡か直木賞候補になる。

『日輪』

●刊行期間:昭和24年/1949年10月~昭和25年/1950年8月?(1年)

●直木賞との主な関わり

  • 吉井栄治(候補1回 第23回:昭和25年/1950年上半期)

 昔の直木賞のことなど調べて何の意味があるんだ。と、よく言われます。

 いちいち意味を考えて、そこに価値があると判断してから動くような、スマートな生きかたがどうしてもできません。何の意味があるのか、自分でもいまだに不明です。

 ……ということを改めて思い返したのは、春日井ひとしさんが平成25年/2013年から作成されている冊子《昭和八年 文学者のいる風景》シリーズというものがあり、少し前に、その8編目に当たる『昭和八年の織田作之助・上 三高の青春』(平成30年/2018年1月)を頂戴したんですが、うはあ、細かいところまで調べ上げているぞ、さすがだなあ、と感嘆しながら読んでいたところ、織田作之助さんの高津中学時代の親友、吉井栄治さんのハナシがそこに出てきたからです。

 吉井さんという人は、直木賞の候補一覧の、第23回(昭和25年/1950年・上半期)のところに登場する人物ですけど、ふつうに暮らしていて、まず目にする名前ではありません。いったいこの人は何者なのか。候補作はどんな作品なのか。どうしても知りたくなって、やむにやまれず調べたことがあります。

 いまだったら、このブログに書くところですが、当時はまだ本体のサイトしかなかったので、「小研究」コーナーに「将棋・オダサク・直木賞~吉井栄治メモリアル」という調査ページをつくりました。かれこれ10数年前のことで、まだ『文学雑誌』に杉山平一さんが存命だったころです。問い合わせの手紙を送ってみたら、ご返信があったんですが、そこに杉山さんがこんなふうに書かれていたことを思い出します。どうして、いま吉井栄治などに興味をもったんですか――と。

 どうしてなんでしょう。答えは見つかっていません。だけど、いつの時代の直木賞でも、それに関わるあれこれを知るのは無上に楽しい、というたしかな実感だけはあります。それで十分といえば十分です。

 と、10数年前にやっていたレベルから、いまも全然成長していなくて、まあこれが自分の限界だから仕方ないんですが、吉井さんの候補作が載った同人誌『日輪』を、いま一度「同人誌と直木賞」のテーマのなかに置いてみると、他とは明らかに違う様相、性格、歴史的背景をもった一誌だと、これは断言することができます。

 直木賞が同人誌の、とくに東京以外で発行されている同人誌の掲載作を当たり前のように候補に挙げはじめるのは、昭和30年/1955年前後からです。ちなみに『文學界』で同人雑誌評がスタートしたのが昭和26年/1951年、『新潮』で全国同人雑誌推薦小説特集をやり出したのが昭和25年/1950年で、文芸出版社の同人誌に対する注目度が勢いよく増していた状況が、なぜか大衆文芸を標榜していたはずの直木賞にも波及したという、なかなか震える展開を見せた一現象ではあるんですが、『日輪』から候補が選ばれたのは、それよりもっと前の時代です。

 関西方面でこっそり出された、有名でも何でもないこの同人誌が、日本文学振興会の予選の人たちの知るところとなったのは、何の風が吹いたのでしょう。たまたまだとしたら奇跡に近く、やはりこれは当時、候補作選びの参考アンケートを依頼される立場だった藤沢桓夫さんが、推薦したのに違いない。可能性としては、それぐらいしか思い浮かびません。

 『日輪』は、そのころ芦屋市に住んでいた中野繁雄さんと吉井さんが、おそらく戦後に湧き上がったお互いの創作欲をぶつける場として創刊したものと思われる、ほんとうに小規模な雑誌です。じっさい創刊経緯は不明なんですけど、編集兼発行人は最初から最後まで中野さん、ただし創刊号のみ、編集部は吉井さんの自宅に置かれたようです。

 中野さんのほうはともかく、吉井さんは昭和14年/1939年に織田さんに誘われて『海風』に加わると、『大阪文学』(昭和16年/1941年~昭和18年/1943年)へと移り、戦後には、藤沢桓夫さんが中心となった『文学雑誌』(昭和22年/1947年~)に同人として参加、『文学雑誌』が休刊していた昭和24年/1949年から昭和25年/1950年のほんのいっとき、『日輪』を興して作品を発表しました。『文学雑誌』はまもなく復刊して、のちにまで残りましたが、『日輪』のほうはすぐにつぶれてしまった、と見られます。

 かたや、戦後ぐずぐずしながら昭和24年/1949年にようやく復活した直木賞ですが、復活の第1回(通算第21回)が富田常雄、第2回が山田克郎と、選考委員のお仲間か、ちょっと後輩ぐらいの、作家歴の古い人に贈られ、第23回(昭和25年/1950年・上半期)にいたってその路線がくっきり明瞭になってしまいます。「今さらか、みたいな人ばかりが受賞して、つまらないな」という感情は、いまの直木賞をリアルタイムで見ている人たちには共感できるものかと思いますが、当時もそういう批判が直木賞に対して結構飛びました。

 だけども、そういうなかで、吉井栄治という、世間でおなじみじゃない人を、しれっと候補に選ぶこの心意気。単に藤沢桓夫さんの(文藝春秋周辺における)存在感が、当時は尋常じゃないぐらい重かった、ということかもしれませんが、大衆文芸の新人を同人誌から発掘しようという風潮のまだ薄かった昭和25年/1950年に、それをやってのけた直木賞の姿を見て、ワクワクと心弾まない人がいるのだとしたら、そういう人はどうかしていると思います。

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2018年4月15日 (日)

『暖流』…新橋遊吉の受賞の影で、ひっそり徳島に帰った中川静子の、その後。

『暖流』

●刊行期間:昭和36年/1961年10月~昭和52年/1977年12月(16年)

●直木賞との主な関わり

  • 中川静子(候補2回 第52回:昭和39年/1964年下半期~第53回:昭和40年/1965年上半期)
    ※ただし第52回は、別の媒体に掲載された作品によるもの

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『暖流』掲載作一覧

 ああ、新橋遊吉さん。ついに帰らぬ人となってしまいました。

 新橋さんといえば、同人誌の作品で直木賞を受賞した数少ない体験者ですから、当然、「同人誌と直木賞」のテーマのなかでは重要人物のひとりです。あまりに重要だったもので、『讃岐文学』のエントリーを書くときにさっさと触れてしまい、改めて語ることもないんですが、もう一誌、直木賞に関連した同人誌で、新橋さんと縁のあったものがあります。せっかくなので、今週はそれで。

 昭和36年/1961年に創刊された『暖流』は、徳島出身の貴司山治さんが主宰格となって率いた雑誌です。徳島から日本の文壇に通用する作家を育てて羽ばたいていってもらおう、というのを目的のひとつに掲げ、当時なかなかキテた新進の佃実夫さん、岡田みゆきさん、近藤季保さんなどの参加を見て、同人からの会費徴収は0円、掲載にかかる費用も0円、お金は全部、貴司さんが負担するという、丹羽文雄さんみたいな太っ腹なことをしていました。その創刊理念や発刊経緯を見てもわかるとおり、徳島ラブな心を芯にもつ、徳島人のための同人誌です。

 しばらくはそれで順調に号数を重ねていきますが、カネも払わず原稿だけを同人誌に書く、という構造が当事者意識の薄れにつながったものか、だんだん原稿の集まりが悪くなっていきます。これじゃいかんと貴司さん危機感を抱いて、同人たちに相談のうえ、ふつうの同人誌みたいに会費をとり、メンバーは徳島人だけで構成するという縛りもやめて、再スタートを切ったのが第6号(昭和41年/1966年1月)からでした。

 そこで新規に加入してきたのが、お隣り香川県で自前の同人誌をやっていた永田敏之さんや亀山玲子さんで、これはもともと『四国文学』を主宰していた佃さんが、亀山さんの筆力と情熱に感心していたところ、『暖流』の門戸が開かれたタイミングで、彼女を誘ったそうです。また、佃さんと永田さんは旧知の間柄でしたから、二人の加入は何の障害もなかったものと見られます。

 しかし、亀山玲子のいるところ、だいたい髪結いの亭主がくっついてくる……という法則が、あったわけじゃないんでしょうが、亀山さんの旦那、新橋遊吉さんは、妻が新たに入るという『暖流』の、同人の顔ぶれを見て、こんな立派な人たちがいる雑誌なら、おれも入りたいなあ、と口走ったとか何だとか。とはいえ、そのとき彼には『行人』に発表した「内輪外輪」と、『讃岐文学』の「八百長」ぐらいしか作品がなく、まだおれには『暖流』の仲間になるほどの資格はない、とあきらめますが、直後に「八百長」が第54回(昭和40年/1965年・下半期)直木賞の候補に選ばれたことがわかり、しかも誰もがびっくり仰天したことに、一発で受賞までしてしまいます。

 そういった縁で、新橋さんは『暖流』のほうにも「『暖流』の人びとと共に」(7号・昭和41年/1966年7月)というエッセイを載せ、あるいは佃實夫さんによる「東京例会の記――新橋遊吉祝賀会――」(同号)や「『八百長』出版記念会の記」(8号・昭和42年/1967年4月)などの紹介文が載り、祝賀ムードを『暖流』に送り込みます。かつて、直木賞と芥川賞ができた当初、どうせこんな賞はすぐにやめるだろうと憎まれ口を叩いて菊池寛さんにムッとされた、『暖流』の親分、貴司さんとしても、やはりこうして縁のある人が直木賞受賞でパーッと騒がしくなることには、ご機嫌だったようです。

「受賞式の翌日の夕刻、内幸町もとのNHKの前あたりの地下レストランで「暖流」主催の受賞記念パーティが東京在住の同人によって催された。(引用者中略)新橋遊吉は名前を変え芥川賞を狙え、次は亀山が直木賞を獲れ。貴司先生がいったのか、佃氏がいっているのか、ビール瓶とコップのかち合う音とともに聞えて来たのがまだ耳もとに残っている。」(『讃岐文学』25号[昭和49年/1974年11月] 永田敏之「なつかしい貴司先生」より)

 と、いや、これは佃さんのテンションが上がっただけかもしれませんが、貴司さんがこの受賞を歓迎したのは次の文章を読んでも間違いありません。

「暖流の会の改組は成功だったようだ。

新しい会員がいろいろはいってきて、それが新しい血液となり、徳島の同人の創作慾を刺戟もしたらしい。

ことにそういうイミの一と騒ぎが生じたのは新橋遊吉君の直木賞受賞事件だった。」(『暖流』7号[昭和41年/1966年7月] 貴司山治「暖流雑記」より)

 ほとんど忘れられたプロレタリア作家、と見られておかしくなかった貴司さんが、ふるさと徳島のために私財を投じてつくった雑誌が、こうやって盛り上がって一つの成功を見たのですから、よかったよかった。とホッとしたのも束の間、創刊時から『暖流』を支えつづけてきた佃さんが、自作『阿波自由党始末記』について貴司さんから酷評のような私信が送られてきたことにブチ切れて、10号の編集途中で憤然と脱退。別のハナシによれば、「○○はおれが育てた」ふうの偉そうな姿勢をとりつづける貴司さんの傲慢さに耐えられなかったのでは、ともいいますが、ともかく10号以降は、有力な同人がごっそりと抜けて、なかなか苦しい同人誌活動となり、昭和48年/1973年11月、貴司さんが亡くなると、もはや立て直す余力もなく、昭和52年/1977年に3年半ぶりに第17号を出して、おそらく誌命も尽きたかっこうです。

 などと、『暖流』の盛衰の流れを追っている場合ではありません。新橋さんの直木賞受賞の盛り上がりとは別に、やはり『暖流』といえば、中川静子さんが二期連続で候補入りした話題に尽きるでしょう。他人の不幸を見て喜ぶ人たちにとっては、きっと好物にちがいない、いわゆる文壇残酷物語的な、直木賞史上でも有数の悲哀に満ちた中川さんのエピソードについては、後半で触れてみようと思います。

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2018年4月 8日 (日)

『無頼』…同じ回で直木賞の候補になった草川俊と福本和也、二人で組んで同人誌を出す。

『無頼』

●刊行期間:昭和35年/1960年11月~昭和43年/1968年5月?(8年)

●直木賞との主な関わり

  • 草川俊(候補3回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第51回:昭和39年/1964年上半期)
    ※ただし第39回、第40回は、別の媒体に掲載された作品によるもの

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『無頼』掲載作一覧

 直木賞の候補一覧を見ていると、同じ回の候補に選ばれやすい作家ペア、というのが存在します。

 いちばん多いのが、61回、62回、65回、71回と、藤本義一さんが候補に挙がった4回すべてで、ともに候補になった阿部牧郎さん、というペアです。あまりにバッティングしすぎて、当時、二人のことを好敵手として比較する雑誌の記事まで書かれました。

 その他、同じタイミングで3度、候補に挙がったペアには、海音寺潮五郎×濱本浩とか、田岡典夫×神崎武雄とか、長谷川幸延×中村八朗とか、古川薫×もりたなるおとか、連城三紀彦×高橋治林真理子×落合恵子乙川優三郎×宇江佐真理東野圭吾×真保裕一、東野圭吾×伊坂幸太郎葉室麟×道尾秀介……といった組み合わせがあり、これが2回となると、さらにその数が急増します。今日は、たまたま直木賞で同じ回に候補になった、というそんな縁で結ばれた人たちの、同人誌にまつわるおハナシです。

 およそ同人誌が結成される背景といえば、「同じ学校に通っている」「同じ地域に住んでいる」というのが二大定番でしょう。そこにあとから「同じ小説教室に通っている」というのが三つ目の定番として加わりますが、マイナーな経緯のひとつに、同じ文学賞に関係した人たちの集まり、というのがあります。たとえば『小説会議』などがそうです。

 しかし、同人誌をつくりました、なかから直木賞の候補者が出ました、という順番はよく見かけますが、まず直木賞の候補になり、それがきっかけで同人誌結成の話が持ち上がった、などという例は、かなり稀だと思います。いや、この『無頼』の他にそんな例があるんでしょうか。

 『無頼』は、福本和也さんと草川俊さん、二人の作家によってつくられました。きっかけとなったのは正真正銘、直木賞……というかそれを取り仕切る文藝春秋の計らいだったと伝えられています。

 お互いに、二度ずつ直木賞の候補になってまもなくの昭和35年/1960年ごろ、文藝春秋がオール新人杯受賞者や直木賞の候補者などに声をかけて、懇談会を開いたことがあったんですけど、そこで隣の席になったのがご両人。後日、二人で酒を飲む機会を得たところ、福本さんから強引に同人誌の結成を誘われたのだ……と、『大衆文学研究』に(K)さん、おそらく草川さんが書き残しています。

「三人ぐらいで同人雑誌をやらないかといい出した張本人は、福本和也である。相談を受けたのは草川俊だった。この二人は全く未知の人間だった。どうやら意識の中に、お互いの名前を刻みつけたのは、三十三年の上期と下期に、つづけて同じく、直木賞候補に名を連ねて以来のことだろう。

(引用者中略)

草川は、実のところ福本をよく知らないので、半信半疑でいたが、思いがけず福本が積極的に動き出し、草川が引きずられる恰好になった。あとで草川が感心したことだが、若いからという理由ばかりでなく、福本は全てに積極的で、行動派の人間である。」(『大衆文学研究』7号[昭和38年/1963年7月] 「大衆文学・同人誌めぐり(その五) 無頼の六人」より ―署名:(K))

 創刊は昭和36年/1961年11月で、誌名の『無頼』は、『オール讀物』編集部の某氏にも相談して決まった、ということですから、商業出版の世界に片足を突っ込んだような成り立ちです。

 草川さん47歳、対して福本さん33歳。年齢層も経歴も作風もほとんど交わるところのない二人が意気投合して手を組み、数年、同人誌を出しつづけたのは、いかなるタマシイの交流があったものか。うかがい知れませんけど、明らかに雑食の傾向が強いと言っていい直木賞予選の特徴が、このときばかりはうまく働いたものでしょう。

 草川さんは『東北作家』や『下界』などで長く同人誌経験を積んだ人でもあります。年もくっています。そんなことから彼が、編集から経理処理などもろもろの雑誌づくりを担当、おかげで8年ぐらいは続いたようです。

 他の同人には、ゴルフ雑誌の編集者だった文芸評論の田野辺薫さん、サンケイ新聞に勤める戸山草二さん、花や虫や貝殻の収集・取引で生活している二宮泰三さん、電通の名古屋支社に籍をおく朝倉文治郎さんなどがいて、それぞれの文業をとらえようと思っても、なかなか困難が伴いますが、草川さんと福本さんに関しては、この『無頼』を十二分に活用し、次の新たな展開につなげることに成功しました。

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2018年4月 1日 (日)

『風群』…純粋芸術を指向する文芸同人誌が、いきなり直木賞のほうに巻き込まれる。

『風群』

●刊行期間:昭和42年/1967年4月~昭和50年/1975年9月?(8年)

●直木賞との主な関わり

  • 原田八束(候補3回 第58回:昭和42年/1967年下半期~第60回:昭和43年/1968年下半期)
    ※ただし第60回は、別の媒体に掲載された作品によるもの

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『風群』掲載作一覧

 今日は一日、うちのサイトの本体で「本屋大賞のすべて」というコンテンツを出しています。せっかくなので、ブログでも「同人誌と本屋大賞」みたいなことが書ければ美しいな。……とは思ったんですが、何といっても同人誌と本屋大賞では、まるでソリが合わないと言いますか、同人誌と最も離れたところにある文学賞、と言ってもいい本屋大賞を、このテーマで語るのはいくら何でも苦しすぎます。やはり今週も、最後まで直木賞の話題で押し通すつもりです。

 さて、50年ほどさかのぼって昭和42年/1967年、文学に取り憑かれた40代のひとりの男が、神戸の地で勢いよく立ち上がりました。同人誌『風群』の創刊です。

 集まった同人および会員は、合計34人。同人誌を、自己表現の研鑽の場にしていこうという人、あるいはスキあれば文壇進出を狙っている野心家、はたまた、ただ小説や評論を読むのが好きだから参加してみました、というけなげな読書家まで、来る者は拒まずの姿勢で、同人誌経営という荒波に果敢に挑みはじめたその男とは、だれでしょう。松田達郎さんです。

 ご出身は京都府ですが、昭和13年/1938年に彦根高商を卒業すると、住友銀行に入行。その後、三菱電機に移ってからもメキメキと働き、やがて松田土地建物や住友建設工業の設立に関わって、それぞれ社長に就任。という、ビジネスパーソンとして大活躍した人ですが、そのいっぽうで文学の世界にもハマり、自身でも小説だの何だのを書いていました。

 しかし、文学とは特定の好事家だけがひっそり愛でるようなものではない、広く一般の人たちが日常生活のなかで文学精神をはぐくみ、触れられるようなものでなければ……という強い考えがあったようで、『風群』の運営に際しても、まずはその立脚点から外れないよう、書きたい人も読みたい人も、みんな仲間だ、何だったら文学に関心があり、自分の文学ゴコロを高めていきたいと向上心をもつ人間は、誰だって仲間だ、というような熱い思いで雑誌づくりに乗り出します。

 目指したのは「純粋芸術を指向する作品の創造」(『読売新聞』昭和43年/1968年6月2日「われらのグループ」)。ということで、創刊号に小説5編、評論2編、詩3編、随想4編を掲載して以来、一年に二冊、三冊のペースで刊行を続けますが、なかでも、昭和39年/1964年に群像新人文学賞に当選していた評論家、松原新一さんが同人に加わり、その松原さんが評論はもちろん、小説や詩などを発表した、という点に注目が集まるところでしょう。

 ところが、スタートして間もなく、この雑誌は松田さんの思惑とは微妙に異なる事態に遭遇することになってしまいます。

 同人の原田八束さんが発表した「風塵」(第2号)が、『文學界』同人雑誌評で好評裡に扱われてベスト5入り。次の号の稲垣麻里さん「序章」(3号)は、これもまた高く評価されて『文學界』昭和43年/1968年1月号に転載されることに。……と、ここまでは、順調な運びです。

 これがそののち、原田さんの「風塵」が芥川賞じゃなくて直木賞の候補になり、稲垣さんにお声がかかったのが純文芸誌じゃなくて『小説現代』だったところから、何だか不穏な空気が漂いはじめます。

 松田さんには、同人誌はそれぞれが孤城を守るのではなく大同団結していかなければいけない、という持論があったそうなのですが、どうも原田、稲垣両同人への、急激な注目の集まり方に、松田さん自身、不快な経験をさせられたことが、その信念を固める一要因となった様子なのです。

 ある座談会での発言を引きます。

「極端にいえば、たとえば北川(引用者注:北川荘平さんが直木賞をとられた。直木賞作家になっちゃった、こういう仮定がありますね。そうすると、北川さんが直木賞作家になられたという底辺には、『VIKING』の異常な熱意と、異常な支持と異常な努力が積み重なって一人の作家が生まれるわけですね。それが生まれた瞬間から、大きな出版社が独占してしまうということ、これが現実なんです。それに対してわれわれ(引用者注:同人雑誌の側)は別に還元を要求はしないけれども、しかし、それでいいんだろうか。

(引用者中略)

ぼくらでも、早い話が、非常にむかつくのは、たとえば一人ちょっとこう、ピュッと顔を出すと、パーッと出版社から直通でまず発行所へ来よりますわ。そこまではよろしんやけども、あとはもう飛ばしてしもうて、本人に直結でパパパーッとこう、マスコミの線に乗せてしまいますわね。そういう非礼ですな、非礼を防止し、してやらんことには、あまりにも大出版社が気まますぎますね。」(『関西文学』昭和44年/1969年1・2月合併号 「座談会 同人雑誌を語る」出席者:北川荘平、松岡昭宏、松田達郎、尾下欣一、中川九郎、横井晃、司会:八橋一郎より)

 具体例は出していませんが「ぼくらでも、非常にむかつく」という表現をしています。出版社のやっている文学賞が、同人雑誌の人たちから見て、ある面で憧れの対象でありながら、ある意味で憎悪されているのは、このシステムを「非礼」だと見る感覚が、当時まだ、同人雑誌文化のなかに残っていたからかもしれません。いま、同じことを「非礼」と感じる人が、果たしているんでしょうか。

 そう考えると、純粋芸術を目指してやっている、と言っているのに、芥川賞ならともかく、そうでもない奴が、勝手に目をつけて、勝手に候補にして、勝手に落選させるというのは、非礼・オブ・非礼でしかない。と、直木賞のその立場が極めて悪く映ったとしても文句は言えません。しかも、二期も連続して、この雑誌から候補作を引き抜いているのですから、やりもやったり直木賞め、という状態です。

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