『小説と詩と評論』…木々高太郎がいてもいなくても、直木賞を彩ってくれた、そのしぶとさ。
『小説と詩と評論』
●刊行期間:昭和38年/1963年3月~(55年)
●直木賞との主な関わり:
これを「不幸」と言っていいのかどうか、よくわかりませんが、昭和38年/1963年に創刊して以来、やたらとたくさんの直木賞候補作を出し、いまもなお、かなり刊行の頻度を絞りながら誌命を保っている『小説と詩と評論』は、幾度も『文學界』同人雑誌評のベスト5に選ばれるような小説を掲載しながら、推薦作として同誌に転載されたことは一度もなく、また芥川賞にもまるっきり相手にされませんでした。なぜでしょう。あるいはこの雑誌を主宰した木々高太郎さんの祟り、なのかもしれません。
木々さんの祟り、というより、木々さんに対して憎悪や嫌悪感をもっていた人たちの恨み、かもしれませんが、とにかく木々さんは、人の言わないことを堂々と主張したうえで論争・闘争に持ち込むのが大好きな人でした。当然、敵も多くて、しかも「敵をつくることを恐れるな。十人の敵ができれば、かならず十人の味方を得る。逆に十人の敵をつくるまいとすれば、十人の味方も失う」といったような信条を繰り出す、強靭なハートをお持ちだった、というのですから手に負えません。
これまでもそんな話ばかり書いてきたので、また繰り返すことになりますけど、戦後に責任編集の一部を受け持った『三田文學』では、ここから芥川賞や直木賞の候補に挙がる作家を出していきたい、あわよくば受賞する人材も出していきたい、と高らかに宣言。じっさい、そのとおり実現させ、同時にまた敵をつくります。
昭和37年/1962年1月には、伊藤桂一さんが第46回の直木賞を受賞。このとき、木々さんは選考委員をしていましたが、なにしろ伊藤さんはオモテ文壇はもちろんのこと、地下文壇……いや、同人誌界隈にも広く知り合いの多い人でしたから、祝賀パーティーにも種々もろもの顔ぶれが集まったそうです。木々さんもそのひとりです。
その席で、だれかが「また同人雑誌やりたいなあ」と、つい声に出してしまったのがきっかけとなり、聞きつけた木々さんが、そうだ、やれやれ、おれが支援するから、とけしかけたところから、森田雄蔵、青木徹、伊東亨、城夏子、藤井千鶴子、渡辺祐一の6人が中心となって構想を練り、雪華社を発行所として昭和38年/1963年の創刊にこぎつけます。
創刊号の同人名簿に名前をのこした人数、ざっと60人。なかには、これがはじめての同人雑誌経験、という人もいたとは思いますが、大半が、これまでも他のグループで、おのおの抑えきれない文学衝動に身を焦がしていた面々です。
たとえば、木々さんの推輓で『三田文學』に作品を掲載していた藤井さんや渡辺さんは、そのまま木々さんを師と仰いで『小説と詩と評論』の中核メンバーになった人たちで、うちのブログでも何度か触れてきました。のちに直木賞の候補になる諸星澄子&加藤善也の夫婦は、もとは『文学四季』の同人だったところから、こちらに参加した人たち。夫のほうはともかく、妻の澄子さんは、それで運のめぐりが良くなったか、直木賞の候補に挙げられ、職業作家の道を切り開き、主にジュニア小説の分野で、超絶な売れっ子になっていきます。
浅田晃彦さんは、戦前、慶應義塾の学生だったころに、医学部の助教授だった木々高太郎=本名・林髞の生理学の講義を受け、医学のことだけじゃなく文学について議論を交わす師弟の間柄だった、という古くからの知り合いですが、全国的組織をもつ『作家』の同人として、医師をやりながら小説を書いていました。
いったい、どこに共通点があるんだ、という感じのバラバラな仲間たちです。こういう団体が、ひとつにまとまったかたちで船出し、刊行が続いていったのは、それだけ主宰・木々さんに求心力があったものかと思います。
○
その木々さんが17年間つとめた直木賞の選考委員から退いたのは(一説には、退かされたのは)、第54回(昭和40年/1965年下半期)が終わったあとなので、68歳のとき。亡くなったのは、それから3年少しした昭和44年/1969年10月のことです。『小説と詩と評論』の創刊から6年がたったころでした。
創刊当初からの編集同人のひとり、城夏子さんは、生前の木々さんがいかに文学賞に熱意を傾けていたか、追悼文に書き残しています。
「先生が「三田文学」の編集をしていらした間に、芥川賞を何人かの同人が受けた。「小説と詩と評論」からは、あんなに終始鞭撻して下すった先生の意も空しく、遂に一人の受賞者も出さなかった。」(『三田文学』昭和45年/1970年1月号 城夏子「「小説と詩と評論」のこと」より)
芥川賞のことしか触れていません。まあ、芥川賞のことを言うなら「一人の受賞者も出さなかった」どころか、「一人の候補者も出さなかった」と表現するのが正確で、ともかく純文芸の方面では、なぜなのか、華々しく取り上げられる機会の少ない雑誌でした。
いや、芥川賞みたいな偏狭なシロモノは、この際いいとしましょう。いっぽうの直木賞です。
この雑誌から直木賞の候補者が何人も選ばれたのは、おそらく、この人がいたからだ。……そう見られてもおかしくない、巨大な主宰だった木々さんがいなくなり、存続が危ぶまれた『小説と詩と評論』ですが、偉いことに、主宰制を廃したうえで編集委員会の合議でもって運営をつづける道を選びます。ここでつぶれず、いや、つぶれないどころか、〈木々抜き〉の期間のほうがはるかに長い誌齢を、いまもまだえんえんと重ねているのは、中心的人物となった渡辺祐一さんの、異様な熱意、森田雄蔵さんの、卓抜した同人誌運営能力なども大きかったと推察されますけど、しかし、余人にははかり知れない同人雑誌文化のしぶとい魅力、というものかもしれません。
じっさいには、掲載作品が文学賞の候補になるかならないか、そんなことは同人雑誌の価値とは何の関係もないのでしょう。木々さん亡きあとも、文学修業と発表の砦となりつづけている、それだけでも尊いことで、同人雑誌と文学賞の関係は、主に文学賞側の問題です。
木々没後も『小説と詩と評論』は健在。という姿があったおかげで、のちに直木賞は、浅田晃彦さんの「乾坤独算民」という、ユニークと呼ぶほかない歴史小説を候補リストに加えて、彩りが豊かになりましたし、加藤善也さんの「おきさ」とか「木煉瓦」という、これを大衆文学の仲間に迎え入れようと思った文春予選委員の気が知れない、昭和20年、30年代の同人雑誌テイストの、ねっとりとした作品を候補に選ぶことになり、〈地味な文学〉に対して、なかなかしぶとく食らいつこうとしている直木賞の不思議な性質を、あぶり出すのに一役買ってくれました。
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