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2018年3月 4日 (日)

『文学者』…直木賞&芥川賞の、両方で候補になる作家がぞくぞくと。

『文学者』

●刊行期間:昭和25年/1950年7月~昭和49年/1974年4月(24年)

●直木賞との主な関わり

  • 広池秋子(候補1回 第31回:昭和29年/1954年上半期)
  • 武田芳一(候補1回 第33回:昭和30年/1955年上半期)
  • 瓜生卓造(候補2回 第33回:昭和30年/1955年上半期~第38回:昭和32年/1957年下半期)
    ※ただし第38回は単行本作品による候補
  • 津村節子(候補3回 第41回:昭和34年/1959年上半期~第50回:昭和38年/1963年下半期)
  • 小堺昭三(候補1回 第44回:昭和35年/1960年下半期)
  • 林青梧(候補2回 第46回:昭和36年/1961年下半期~第63回:昭和45年/1970年上半期)
    ※ただし第51回と第63回は単行本作品による候補
  • 福井馨(候補1回 第49回:昭和38年/1963年上半期)
  • 太田俊夫(候補1回 第68回:昭和47年/1972年下半期)
  • 安達征一郎(候補1回 第70回:昭和48年/1973年下半期~第80回:昭和53年/1978年下半期)
    ※ただし第80回は単行本作品による候補

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『文学者』掲載作一覧

 これも、言わずと知れた大雑誌です。うちのブログでも何度も触れてきましたし、とくに付け加えるようなことはありません。

 だけど、「同人誌と直木賞」のテーマでやっているのに、これを取り上げないのは不自然ですよね。「出版社と直木賞」のテーマで、文藝春秋のことに触れないようなものですので(それは言いすぎか)、簡潔に振り返っておきます。というか、書いておかないと、主にワタクシが忘れてしまうからです。

 昭和20年/1945年、戦争に明け暮れる日々が終わり、海の向こうに行かされていた人たちが続々と帰ってきて、仕切り直しとばかりに出版の世界も盛り上がり、文学好きな紳士淑女の熱が、ふたたび燃えはじめたころ、昔から創作研究会「五日会」と称して集まっていた人たちを中心に、そろそろ自分たちも、何か新しく会を立ち上げてみようかと、昭和23年/1948年3月15日、有楽町の「レンガ」という店で第一回目の会合をひらいた「十五日会」。アドバイザー的に控えたのが、「五日会」時代からの参加者で、すでに流行作家の地位にあった丹羽文雄さんですが、実質的に会の運営に当たったのは、早稲田の後輩でもある石川利光さんでした。

 みんな集まえば、なにせ血の気の多い人たちですから、丁々発止の議論でやりあい、二次会では楽しく(あるいは、さらにケンカ腰で)飲み食いして……という感じで結束力を高めていましたが、やがてそれでは飽き足らず、機関誌のような雑誌が欲しい、と思い始めます。その意を汲んで、丹羽さんが手をまわし、世界文化社から新雑誌『文学者』を創刊(誌名を、戦前の同人雑誌『文学者』から継いだので、「復刊」とも言われます)。

 しかし、だいたい戦後まもなくに出発した雑誌は、1年、2年でつぶれる、と相場が決まっていて、いや、とくに決まっちゃいませんが、世界文化社はすぐさま経営難にあえぐこととなり、たった4冊で休刊の憂き目に。十五日会の人たちは、さあ困った、と頭を抱えながら、だけどみんな、新作を書いていきたい、とやたら意欲ばかりを募らせて、一時、『早稲田文学』の編集をそっくりそのまま受け持たせてもらったりしましたが、これも刊行元だった銀柳書房がつぶれて、3号でジ・エンド。んもう、こうなれば商業誌じゃなく同人雑誌にしてしまおう、カネはおれたちが援助するよ、と丹羽さんとか火野葦平さんなどが大枚をはたき、昭和25年/1950年7月に再出発を果たしました。これが「第一次」と呼ばれたりもする『文学者』です。

 ところが、会費を滞納するくせに、誤字ばっかりだとか、編集がなっていないとか、文句ばっかり言う同人たちに、編集委員たちは「じゃあ、おまえたちがやれよ」と憤然、あるいは辟易。どうにか5年間、64号まで続けましたが、こんなことなら一回やめちまおうと、丹羽さんの宣言で再び休刊すると、小田仁二郎さんと瀬戸内晴美さんによる『Z』、富島健夫さん、清水邦行さん、見島正憲さんたちによる『現実』、広池秋子さんや佐藤和子さんを中心とした『女流』などなど、おのおのの雑誌へと派生します。

 と思ったら、昭和33年/1958年には、新体制で第二次『文学者』が復刊することになり、こんどは、会費を払う払わないでモメゴトを起こすのもつまらないと、同人費なし、資金の一切は丹羽さんが面倒をみる、……ということを決めて、えんえんと月刊で出しつづけ、昭和48年/1973年、オイルショックによる紙不足をきっかけに、もう無理してやることもないだろう、という丹羽さんの判断のもと、終刊を迎えるまで生きました。

 その間、ここから巣立っていった作家や評論家に、どんな人がいたか。とか言って名前を挙げはじめたら、「『文学者』のすべて」みたいなサイトをつくったほうが早いんじゃないか、というくらい整理もつかなくなるので、やめておきます。とりあえず、直木賞と芥川賞の、候補に挙がったことがある人だけ書き出してみると、

●直木賞

中村八朗小泉譲新田次郎野村尚吾、瀬戸内晴美、広池秋子、武田芳一、瓜生卓造、津村節子、小堺昭三、林青梧、福井馨、梅本育子、太田俊夫、安達征一郎……

●芥川賞

石川利光、中村八朗、野村尚吾、近藤啓太郎武田繁太郎、小田仁二郎、富島健夫、西條倶吉、菊村到、塙英夫小島直記、広池秋子、瓜生卓造、中野繁雄斯波四郎吉村昭、津村節子、林青梧、小堺昭三、河野多恵子、小笠原忠山崎柳子須田作次、帯正子、高橋光子……

 これだけでも、もう整理がつきません。

           ○

 整理がつかない理由はまだあって、たとえば、小沼丹さんとか立原正秋さんとか、いっとき十五日会に出入りして『文学者』に書いていたけど、『文学者』出身と言うとカドの立つ人が、おそらくまだまだ幾人もいそうだからです。

 というところで、じゃあ、どうして直木賞と芥川賞の候補者リストを並べたかと言いますと、『文学者』と直木賞、の関係性を考えるとき、まず絶対に重要なのが、そこだからです。

 そこ。つまり、直木賞候補でもあるけど、芥川賞候補でもある。……いや、逆ですか。芥川賞で取り上げられる作家なのに、直木賞でも取り上げられる。両賞で候補になった同人が、この雑誌には異様に多いわけです。

 おカネを出しつづけた丹羽さんは、『文学者』は同人誌ではあるけど、そこを踏み台にして文壇に出たら、どんどん抜けて行ってもらって構わない、という考えの持ち主でした。『文学者』は文壇予備軍(あるいは二軍)、チャンスをつかむための場所、のびのびおやんなさい、といったところでしょう。

 そして丹羽さん自身、芥川賞の選考委員でしたので、群がってくる新人たちも、目線の先には芥川賞がある。自然なかたちです。

 第二次の編集に中枢人物として関わった中村八朗さんも、やっぱり、

「中村八朗は「芥川賞作家が出なかったら編集長をやめます」と丹羽に広言しているくらいで、いかに新人作家を育てるかを考えている人である。」(昭和51年/1976年6月・平凡社刊『共同研究 集団――サークルの戦後思想史』所収 小林トミ「『文学者』十五日会」より)

 と紹介されていて、要するにひとつの目標は、芥川賞の受賞者を出すことでした。

 なのにです。やたらと直木賞の候補者も多い。ほとんど、受賞までは行かなかったけど、芥川賞と直木賞の両方に取り上げられる人材の豊富さは、他の同人誌の追随を許しません。

 ひとつには、直木賞、また余計な出しゃばりやらしているな、ふふふふ、という側面があります。しかしいっぽうで、この雑誌のもつ、自由な気風といいますか、みんな売れてってほしいという、十五日会のおおらかな(?)精神が、文学愛好グループの集まった仲間内だけの趣味雑誌へと尖鋭化することなく、広く世間に通用する作品が生まれる土壌を、つくり出していったのかもしれません。

 そう見ると、候補にはするけど、受賞にまでは至らせない、直木賞という賞の最終的な間口のせまさも、あるいは浮き彫りになるところでしょうが、ひとりひとり、ひとつひとつの候補の行く末を、一括してまとめようとすると、失敗するだけでしょう。とりあえずここでやめておきます。

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