『立像』…「森敦の手にかかれば直木賞も芥川賞も間違いなし」伝説の、一挿話。
『立像』
●刊行期間:昭和30年/1955年5月~平成13年/2001年6月(46年)
●直木賞との主な関わり:
- 今官一(候補1回+受賞 第34回:昭和30年/1955年下半期~第35回:昭和31年/1956年上半期)
※ただし第35回の受賞作は単行本作品によるもの
●参考リンク:『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『立像』掲載作一覧
昭和20年代後半、〈カネはないが言うことはデカい男〉こと森敦さんは、東京の東大久保に下宿していました。その家には、日常生活に疲れ果てた人たちが、夜な夜な集結し、目を輝かせて文学談義に明け暮れていたそうですが、当の森さんが山形県の月山山麓に引っ越すことになったため、仲間たちは突如、行き場をなくしてしまいます。
そのひとりが、毎日新聞社に勤めていた柴田四郎、筆名・斯波四郎さんです。どうにも寂しさに耐えきれず、自分で同人雑誌をつくってしまおうと思い立ち、森さんの他、今官一、河北倫明、島尾正、島田家弘、藤田博司、山内豊喜といった人たちを編集同人にして『立像』を創刊します。費用は斯波さんが全額を負担するという、もう心の寂しさがよくわかる成り立ちの雑誌でした。
そこから斯波さんが代表として発刊した2年半、第7号までの歴史のなかで、最大にして奇天烈極まりない事件と言われたのが、今官一さんが第2号に発表した「銀簪」の、直木賞への候補入りです。つづいて今さんは、まず売れないのを承知のうえで芸術社から刊行した作品集『壁の花』が第35回(昭和31年/1956年・上半期)の直木賞を受賞する、という直木賞の振り切った天然ぶりに見事にマッチしてしまいます。
何といっても、『立像』のメンバーがメンバーです。このような同人雑誌から、まず最初に直木賞のほうの受賞者が出てしまった、というのは、いま考えても痛快このうえありません。
いっぽう、読みづらくて難解な作風、と言われた斯波さんのほうは、それでも引き続き読みづらくて難解な小説を書きつづけましたが、多少は読みやすい部類だという「山塔」が『早稲田文学』に載り、今さんの直木賞から遅れること3年、首尾よく第41回(昭和34年/1959年・上半期)の芥川賞を受賞。寂しい孤立から一転、もう同人誌をやっているどころではなくなって、自然と『立像』は休刊状態に入ります。
と、ここで終わっていたらどうなっていたでしょう。「芥川賞の受賞者が出ると、その同人誌はだいたいすぐつぶれる」という都市伝説を補強する、恰好の事例になったかもしれません。しかし世の中そう単純なものでもなく、斯波さんのあとを継いで『立像』を続けていこう、と手を挙げる勇敢または無謀な男が登場します。桂英澄さんです。
話によれば、もともと桂さんは、お互いに太宰治さんの信奉者、という太い(?)糸で結ばれた今官一さんの誘いに乗って、『立像』に参加。同誌の精神的支柱だった森敦さんとは、会ったことはなかったけれど、『立像』をきっかけに手紙でやりとりするうちに、その深淵な……ぶっちゃけて言うと、なまじの頭では理解の不能な文学理論に、すぐさま膝を屈することになり、尊敬の意を表します。森さんが山形を引き払って東京に戻ってくる、と聞けば、いろいろつてを頼って、森さんの働き先を探してまわるなど、人のよさもバツグンだった桂さんは、森さんからも大いに愛され、第二次『立像』をすくすくと育てていきました。その経費、運営費などに、桂さん、かなりお金をつぎ込んたとも言います。
その当時、同誌の例会はどんな様子だったか。昭和46年/1971年から『立像』に参加した境経夫さんが回想しています。境さんは、以前に紹介した今官一さん主宰の同人誌『現代人』への参加経験もあったため、両者のことを比較しながら、こんなふうに語ります。
「今先生主宰の「現代人」の例会は、二の橋の先生宅の狭い茶の間で畳に座布団という、ごく家庭的な雰囲気の中でだった。「立像」の当初の同人で直木賞作家の今先生は、合評のやりとりに時たま言葉を挟む位だったが、書き手にとってはどんな作品も一期一会のものだと、訥々と説いたりもされた。(引用者中略)
一方、駅前の喫茶店での「立像」の例会は軽食に珈琲など啜りながらの同人諸氏の談論風発という形で、「現代人」とはまるで別世界のように明るかった。桂さんは当然ながら司会と一座のとりまとめをされていたが、歯切れのよい批評の後に、作者がそれからどう考えればよいかというアドバイスが繊細に裏打ちされていた。」(『立像』60号[平成13年/2001年6月] 境経夫「在りし日の記憶――桂先生と私」より)
今さんが中心にいると重い、対して桂さんが取り仕切ると場が明るくなる……。『立像』がぎりぎり21世紀の平成13年/2001年まで続いたのは、桂さんの献身と人徳があったからだと、言ってしまっていいでしょう。
○
桂さんは、歯車がうまく噛み合えば芥川賞のほうで取り上げられておかしくない、実直で、地味な小説を書いていた人ですが、輝かしい場面で評価されることはなく、まず文学賞とは無縁の人でした。
というところで、桂さんが『早稲田文学』に連載し、筑摩書房から単行本化された『寂光』が、昭和47年/1972年7月、第67回の直木賞で突如候補になったのはいったい何がどう噛み合ったのか。よくわかりません。あるいは直木賞お得意のご乱心、という風合いの濃い、どうしてこのタイミングで、こういう作風の人を、読み物雑誌あたりに書いている人たちと同列にして候補に挙げるのか、理解に苦しむ展開です。
この回の最終選考会では、かなり地味な味わいの『寂光』が、綱淵謙錠『斬』、井上ひさし「手鎖心中」とともに最後の三作にまで残り、とくに票の多かった『斬』が難なく授賞と決まったあとは、もう一作、どちらを(あるいは他の候補も含めて、どれを)二作目の授賞とするか、揉めに揉めた、と言われます。
けっきょくここで受賞を逃した桂さんは、その後はもう賞の機会は遠ざかってしまうんですが、まだ当時、影の影に隠れていた森敦さんは、その落選を心の底から悔しがったそうです。
『立像』での出会いが縁となって森さんの養女となった森富子さんによると、「桂くんにも、賞を取らせたいなあ」というのが森さんの口癖だったともいい(平成16年/2004年8月・集英社刊『森敦との対話』)、また、『寂光』が直木賞をとれなかったことで「森敦の悔しがりようは尋常一様ではなかった」(前掲『立像』60号 森富子「桂さんと森敦」)とのこと。
ともかく森さんの、桂さんにかける期待は並々ならぬものがありました。桂さん自身、こう思い返しています。
「森さんからは折に触れて電話を頂いた。地域文化の育成にかまけてエネルギーを注いだりしている私に、
「あなたの文章は天下を取れる文章だから、武田信玄にならないように」
そんな激をとばして下さったこともある。」(『立像』50号[平成2年/1990年7月] 桂英澄「斯波四郎さんと森敦さん――「立像」をめぐって」より)
天下を取れる文章。……さすが森さん、言うことが、とんでもなくドデカいです。
知る人ぞ知るウラ文壇の偉人と言われ、モリ・アツシなる人物の手にかかれば芥川賞も直木賞も間違いなし、小島信夫も斯波四郎も三好徹もみんなそうだった、と噂バナシばかりがひとり歩きしていた時代は、いったいいつのことでしょうか、間違いのないことなど、そんなに存在しないのかもしれません。森敦さんの薫陶を受けながら、ついに直木賞をとれなかった男、桂英澄。当然、桂さんに非があるわけでも、森さんの神通力が衰えたわけでもありません。今官一さんの『壁の花』とか桂さんの『寂光』とかを、思い出したように脈絡なく候補にする直木賞の気まぐれさが、何といってもひどすぎる。それに尽きるでしょう。
| 固定リンク
「同人誌と直木賞」カテゴリの記事
- 『全逓文学』…きっぱりと消えた各務秀雄、直木賞候補一覧に名を残す。(+一年のまとめ)(2018.06.03)
- 『近代説話』…司馬遼太郎や寺内大吉、直木賞と結びつけられることを、ことさら嫌がる。(2018.05.27)
- 『断絶』…平凡社・青人社の馬場一郎と、文学への情熱で結ばれたいろんな仲間たち。(2018.05.20)
- 『大衆文芸』…直木賞はもっと雑誌掲載作に重点を置いてほしい、と懇願する雑誌編集者。(2018.05.13)
- 『玄海派』…どうせ虚栄心や嫉妬が渦巻いているに違いない、と小説のモデルにされた唐津の雑誌。(2018.05.06)
コメント