『瀬戸内海文学』…没後の小林実に光を当てたのは、ふるさと山梨県。
作家への光の当て方として、「地元出身の作家」という方法が存在します。そして、そこには、かなり不思議な臭味が漂っています。
こういう取り上げ方は、21世紀の現在では、ほぼ無条件で許容され、生まれ故郷やゆかりの土地、いっとき育った地方などがあれば、積極的に作家や作品と結びつけて宣伝に励む、というのは当たり前です。特別、だれかに危害を加えるわけでもないので、お子様にもおすすめできる安心・安全の地方振興策として華やいでいます。いや、現在に限らずとも、昔からずっとそうだったじゃないか、と言われれば、たしかにそうかもしれません。
それを「臭味」などと呼ぶと、語弊がありそうですけど、そこに直木賞や、もうひとつの文学賞が関わりはじめると、とたんに味わいが変わるのはたしかです。「直木賞をとった名作」とか「直木賞をとった素晴らしい人」とか、そういう表現だけでも、如実にうさん臭さがあるのに、「直木賞受賞者を生んだ○○県スゴい」とか、「ここ数年で○○人もうちの県から直木賞が出ている」とか、そういう煽り方をされると、ちょっと腰が引けてしまいます。
たくましい郷土愛が、直木賞の「実態や実状はさておいての、知名度とブランド力の高さ」とドッキングしたときに起きる、微笑んだほうがいいのか、シラけても構わないのか、判断に苦しむこの現象。多くの人がそれで元気になったり、張り切ったり、お金が動いたりするんだから、文句いわずにそっとしておきたい……とは思いますが、少なくとも直木賞の特性のひとつとして、見過ごすことのできない社会的な様相です。
と、だらだら書いてきたのは他でもありません。今週触れようと思った同人誌『瀬戸内海文学』について、正直あまり知っていることがないからです。
戦後の昭和20年代、岡山県に住む文学愛にあふれた人たちが盛り上がってできた岡山県文学連盟という組織があり、そういうなかから中務保二さんあたりが中心となって『山陽文学』が創刊されたのが昭和29年/1954年のことでした。そこから枝分かれしたか、あとを継いだか、一部の同人が昭和30年/1955年に同人誌『瀬戸内海』を立ち上げることになり、40円の定価をつけて500部ほど刷って、岡山や倉敷の書店に置いてもらったところ、またたく間に全部売れてしまう! というロケットスタートに成功します。第2号から誌名を『瀬戸内海文学』とし、以来、こつこつと誌歴を重ねて、ン十年。地域で愛される同人雑誌に育っていったことでしょう、おそらく。
岡山の同人雑誌、というと、これは無数に存在するでしょうが、下江巖さん、右遠俊郎さん、小野東さんといった錚々たる(?)メンツを生んだ『遠景』、赤木けい子さん主宰の『真昼』などが、ちょうど昭和30年代、芥川賞が同人雑誌界に対しても歓迎ムードを醸し出していたころに岡山でブイブイ言わせて、よく注目されていました。そのなかで『瀬戸内海文学』がどういう位置づけを持っていたのか。ワタクシの知るところはありません。
そこに『瀬戸内海文学』第3号に載った、小林実さんの「白い太陽」が第38回(昭和32年/1957年下半期)直木賞の最終候補に選ばれました。正直、これは文藝春秋の下読み編集者の、ナイスな選択だったと思います。
敗戦から10数年を経て書かれたこの作品も、これまで何度か触れてきた「戦争中や戦争直後に、戦地にいた人たちのドラマ」を描いたものですが、魅力的な要素を散りばめているおかげで、深刻ぶった鈍重さを感じさせません。昭和20年/1945年8月15日、中国大陸の張北の地で敗戦を知った医師、瀬崎俊作が、身重の妻、絹江とともに、ふるさとの岡山県白石島に帰るため、群盗や匪賊の出没するというトロン砂漠(多倫高原)を越えて承徳へ、そこから列車に乗って錦州へ、と移動する引き揚げの道のりが終盤まで描かれます。
この瀬崎が単なる医師ではなく、戦時中には特務機関から命を受け、何人もの人間を死に送り込んできたスパイの元締め役だった、という話を最初に明かし、身もとがバレれば無事ではすまない、その緊張感を演出。また、張北で瀬崎の知り合いだった牧場経営者、筑波一家の娘、久美子を、道中なにくれと瀬崎やその妻に遭遇させながら、男女間に発する緊張感も高めていく、という心にくさです。
作者の小林さんは、直木賞の候補にあがったあとに、いろいろ公募の賞にも応募して、昭和34年/1959年には講談倶楽部賞を受賞しました。それもうなずけるうまさが、「白い太陽」を読んだだけでも感じます。
○
小林実。……『瀬戸内海文学』の創刊にも関わり、その後、長く同誌の中心的な存在だったそうですけど、さすがにこの作家のことに注目する人は多くないと思います。ひとりもいないんじゃないか、とさえ疑いたくなります。
だけど疑ったそばから、早々に謝らなきゃならないんですが、昭和59年/1984年に亡くなった小林さんの文業を掘り起こし、顕彰している人は、確実にこの世に存在しています。そういう人たちのおかげで、ワタクシみたいなもんが、直木賞候補者のことを詳しく知ることができるわけですから、もちろん感謝するしかありません。
『瀬戸内海文学』の発行地、岡山じゃなくて、ぐーっと東に移って山梨県。そこに山梨県立文学館がオープンしたのは平成1年/1989年11月ですけど、その数年前、山梨のタウン誌にこんなふうな特集記事が載りました。「山梨の文学者 小林實(塩山市出身)追悼特集」です。
「郷土山梨が産んだ文学者は、数あるが、少年時代から文学にあこがれ、進歩的な思想を持ち、軍国主義に反抗した少年期から、嵐の人生に、文学の道ひとすじに、直木賞作家として多くの作品を遺し終生した小林実氏は、県文学館の構想と共に、山梨県出身の第一号の文学者として顕彰される事になった。」(『情報山梨』昭和60年/1985年3月[通巻288号]より)
記事によれば、たしかに小林さんは塩山の生まれ、昭和11年/1936年に満州の部隊に入るまで、山梨の地で文学活動に勤しんでいたとのことで、山梨の作家と呼んでもいいのかもしれません。その後は、満洲、それから妻の郷里・岡山へと住まいを移し、昭和38年/1963年からは大阪でグロリヤインターナショナルに勤務、昭和49年/1974年からだを壊して退職すると、考古学研究に夢中になったそうです。
しかし、先に引用した特集記事のリード文は、何度も見返したんですけど、原文ママです。……小林さんは立派な人だったと言いたい気持ちが、ツンのめりすぎていやしないでしょうか。
これが「臭味」と思わせてしまう現象のひとつであることに、疑いはありません。小林さんの生涯をこんなに詳しく調べてくれる人がいたんだ、という点に、感動してしまうのは事実ですが、いっぽうでは、そんなに光を当てるほどの文業を残したんだろうかとも、正直、思います。
それもこれも、直木賞の候補に一回でもなったことが、大きく作用しているのは間違いないところです。直木賞って、そこまで大した文学賞だっただろうか。と、ふだんからずっと疑っている身にとっては、何というか、居たたまれなくなりますし、臭味とも香味ともない、不思議な味わいが残ります。
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