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2018年3月の4件の記事

2018年3月25日 (日)

『立像』…「森敦の手にかかれば直木賞も芥川賞も間違いなし」伝説の、一挿話。

『立像』

●刊行期間:昭和30年/1955年5月~平成13年/2001年6月(46年)

●直木賞との主な関わり

  • 今官一(候補1回+受賞 第34回:昭和30年/1955年下半期~第35回:昭和31年/1956年上半期)
    ※ただし第35回の受賞作は単行本作品によるもの

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『立像』掲載作一覧

 昭和20年代後半、〈カネはないが言うことはデカい男〉こと森敦さんは、東京の東大久保に下宿していました。その家には、日常生活に疲れ果てた人たちが、夜な夜な集結し、目を輝かせて文学談義に明け暮れていたそうですが、当の森さんが山形県の月山山麓に引っ越すことになったため、仲間たちは突如、行き場をなくしてしまいます。

 そのひとりが、毎日新聞社に勤めていた柴田四郎、筆名・斯波四郎さんです。どうにも寂しさに耐えきれず、自分で同人雑誌をつくってしまおうと思い立ち、森さんの他、今官一、河北倫明、島尾正、島田家弘、藤田博司、山内豊喜といった人たちを編集同人にして『立像』を創刊します。費用は斯波さんが全額を負担するという、もう心の寂しさがよくわかる成り立ちの雑誌でした。

 そこから斯波さんが代表として発刊した2年半、第7号までの歴史のなかで、最大にして奇天烈極まりない事件と言われたのが、今官一さんが第2号に発表した「銀簪」の、直木賞への候補入りです。つづいて今さんは、まず売れないのを承知のうえで芸術社から刊行した作品集『壁の花』が第35回(昭和31年/1956年・上半期)の直木賞を受賞する、という直木賞の振り切った天然ぶりに見事にマッチしてしまいます。

 何といっても、『立像』のメンバーがメンバーです。このような同人雑誌から、まず最初に直木賞のほうの受賞者が出てしまった、というのは、いま考えても痛快このうえありません。

 いっぽう、読みづらくて難解な作風、と言われた斯波さんのほうは、それでも引き続き読みづらくて難解な小説を書きつづけましたが、多少は読みやすい部類だという「山塔」が『早稲田文学』に載り、今さんの直木賞から遅れること3年、首尾よく第41回(昭和34年/1959年・上半期)の芥川賞を受賞。寂しい孤立から一転、もう同人誌をやっているどころではなくなって、自然と『立像』は休刊状態に入ります。

 と、ここで終わっていたらどうなっていたでしょう。「芥川賞の受賞者が出ると、その同人誌はだいたいすぐつぶれる」という都市伝説を補強する、恰好の事例になったかもしれません。しかし世の中そう単純なものでもなく、斯波さんのあとを継いで『立像』を続けていこう、と手を挙げる勇敢または無謀な男が登場します。桂英澄さんです。

 話によれば、もともと桂さんは、お互いに太宰治さんの信奉者、という太い(?)糸で結ばれた今官一さんの誘いに乗って、『立像』に参加。同誌の精神的支柱だった森敦さんとは、会ったことはなかったけれど、『立像』をきっかけに手紙でやりとりするうちに、その深淵な……ぶっちゃけて言うと、なまじの頭では理解の不能な文学理論に、すぐさま膝を屈することになり、尊敬の意を表します。森さんが山形を引き払って東京に戻ってくる、と聞けば、いろいろつてを頼って、森さんの働き先を探してまわるなど、人のよさもバツグンだった桂さんは、森さんからも大いに愛され、第二次『立像』をすくすくと育てていきました。その経費、運営費などに、桂さん、かなりお金をつぎ込んたとも言います。

 その当時、同誌の例会はどんな様子だったか。昭和46年/1971年から『立像』に参加した境経夫さんが回想しています。境さんは、以前に紹介した今官一さん主宰の同人誌『現代人』への参加経験もあったため、両者のことを比較しながら、こんなふうに語ります。

「今先生主宰の「現代人」の例会は、二の橋の先生宅の狭い茶の間で畳に座布団という、ごく家庭的な雰囲気の中でだった。「立像」の当初の同人で直木賞作家の今先生は、合評のやりとりに時たま言葉を挟む位だったが、書き手にとってはどんな作品も一期一会のものだと、訥々と説いたりもされた。(引用者中略)

一方、駅前の喫茶店での「立像」の例会は軽食に珈琲など啜りながらの同人諸氏の談論風発という形で、「現代人」とはまるで別世界のように明るかった。桂さんは当然ながら司会と一座のとりまとめをされていたが、歯切れのよい批評の後に、作者がそれからどう考えればよいかというアドバイスが繊細に裏打ちされていた。」(『立像』60号[平成13年/2001年6月] 境経夫「在りし日の記憶――桂先生と私」より)

 今さんが中心にいると重い、対して桂さんが取り仕切ると場が明るくなる……。『立像』がぎりぎり21世紀の平成13年/2001年まで続いたのは、桂さんの献身と人徳があったからだと、言ってしまっていいでしょう。

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2018年3月18日 (日)

『瀬戸内海文学』…没後の小林実に光を当てたのは、ふるさと山梨県。

『瀬戸内海文学』

●刊行期間:昭和30年/1955年2月~平成8年/1996年4月?(41年)

●直木賞との主な関わり

  • 小林実(候補1回 第38回:昭和32年/1957年下半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『瀬戸内海文学』掲載作一覧

 作家への光の当て方として、「地元出身の作家」という方法が存在します。そして、そこには、かなり不思議な臭味が漂っています。

 こういう取り上げ方は、21世紀の現在では、ほぼ無条件で許容され、生まれ故郷やゆかりの土地、いっとき育った地方などがあれば、積極的に作家や作品と結びつけて宣伝に励む、というのは当たり前です。特別、だれかに危害を加えるわけでもないので、お子様にもおすすめできる安心・安全の地方振興策として華やいでいます。いや、現在に限らずとも、昔からずっとそうだったじゃないか、と言われれば、たしかにそうかもしれません。

 それを「臭味」などと呼ぶと、語弊がありそうですけど、そこに直木賞や、もうひとつの文学賞が関わりはじめると、とたんに味わいが変わるのはたしかです。「直木賞をとった名作」とか「直木賞をとった素晴らしい人」とか、そういう表現だけでも、如実にうさん臭さがあるのに、「直木賞受賞者を生んだ○○県スゴい」とか、「ここ数年で○○人もうちの県から直木賞が出ている」とか、そういう煽り方をされると、ちょっと腰が引けてしまいます。

 たくましい郷土愛が、直木賞の「実態や実状はさておいての、知名度とブランド力の高さ」とドッキングしたときに起きる、微笑んだほうがいいのか、シラけても構わないのか、判断に苦しむこの現象。多くの人がそれで元気になったり、張り切ったり、お金が動いたりするんだから、文句いわずにそっとしておきたい……とは思いますが、少なくとも直木賞の特性のひとつとして、見過ごすことのできない社会的な様相です。

 と、だらだら書いてきたのは他でもありません。今週触れようと思った同人誌『瀬戸内海文学』について、正直あまり知っていることがないからです。

 戦後の昭和20年代、岡山県に住む文学愛にあふれた人たちが盛り上がってできた岡山県文学連盟という組織があり、そういうなかから中務保二さんあたりが中心となって『山陽文学』が創刊されたのが昭和29年/1954年のことでした。そこから枝分かれしたか、あとを継いだか、一部の同人が昭和30年/1955年に同人誌『瀬戸内海』を立ち上げることになり、40円の定価をつけて500部ほど刷って、岡山や倉敷の書店に置いてもらったところ、またたく間に全部売れてしまう! というロケットスタートに成功します。第2号から誌名を『瀬戸内海文学』とし、以来、こつこつと誌歴を重ねて、ン十年。地域で愛される同人雑誌に育っていったことでしょう、おそらく。

 岡山の同人雑誌、というと、これは無数に存在するでしょうが、下江巖さん、右遠俊郎さん、小野東さんといった錚々たる(?)メンツを生んだ『遠景』、赤木けい子さん主宰の『真昼』などが、ちょうど昭和30年代、芥川賞が同人雑誌界に対しても歓迎ムードを醸し出していたころに岡山でブイブイ言わせて、よく注目されていました。そのなかで『瀬戸内海文学』がどういう位置づけを持っていたのか。ワタクシの知るところはありません。

 そこに『瀬戸内海文学』第3号に載った、小林実さんの「白い太陽」が第38回(昭和32年/1957年下半期)直木賞の最終候補に選ばれました。正直、これは文藝春秋の下読み編集者の、ナイスな選択だったと思います。

 敗戦から10数年を経て書かれたこの作品も、これまで何度か触れてきた「戦争中や戦争直後に、戦地にいた人たちのドラマ」を描いたものですが、魅力的な要素を散りばめているおかげで、深刻ぶった鈍重さを感じさせません。昭和20年/1945年8月15日、中国大陸の張北の地で敗戦を知った医師、瀬崎俊作が、身重の妻、絹江とともに、ふるさとの岡山県白石島に帰るため、群盗や匪賊の出没するというトロン砂漠(多倫高原)を越えて承徳へ、そこから列車に乗って錦州へ、と移動する引き揚げの道のりが終盤まで描かれます。

 この瀬崎が単なる医師ではなく、戦時中には特務機関から命を受け、何人もの人間を死に送り込んできたスパイの元締め役だった、という話を最初に明かし、身もとがバレれば無事ではすまない、その緊張感を演出。また、張北で瀬崎の知り合いだった牧場経営者、筑波一家の娘、久美子を、道中なにくれと瀬崎やその妻に遭遇させながら、男女間に発する緊張感も高めていく、という心にくさです。

 作者の小林さんは、直木賞の候補にあがったあとに、いろいろ公募の賞にも応募して、昭和34年/1959年には講談倶楽部賞を受賞しました。それもうなずけるうまさが、「白い太陽」を読んだだけでも感じます。

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2018年3月11日 (日)

『小説と詩と評論』…木々高太郎がいてもいなくても、直木賞を彩ってくれた、そのしぶとさ。

『小説と詩と評論』

●刊行期間:昭和38年/1963年3月~(55年)

●直木賞との主な関わり

  • 諸星澄子(候補1回 第51回:昭和39年/1964年上半期)
  • 藤井千鶴子(候補3回 第37回:昭和32年/1957年上半期~第51回:昭和39年/1964年上半期)
    ※ただし第51回以外は他の媒体に発表した作品による候補
  • 津田信(候補6回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第52回:昭和39年/1964年下半期)
    ※ただし第52回以外は他の媒体に発表した作品による候補
  • 浅田晃彦(候補1回 第60回:昭和43年/1968年下半期)
  • 加藤善也(候補2回 第67回:昭和47年/1972年上半期~第69回:昭和48年/1973年上半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『小説と詩と評論』掲載作一覧

 これを「不幸」と言っていいのかどうか、よくわかりませんが、昭和38年/1963年に創刊して以来、やたらとたくさんの直木賞候補作を出し、いまもなお、かなり刊行の頻度を絞りながら誌命を保っている『小説と詩と評論』は、幾度も『文學界』同人雑誌評のベスト5に選ばれるような小説を掲載しながら、推薦作として同誌に転載されたことは一度もなく、また芥川賞にもまるっきり相手にされませんでした。なぜでしょう。あるいはこの雑誌を主宰した木々高太郎さんの祟り、なのかもしれません。

 木々さんの祟り、というより、木々さんに対して憎悪や嫌悪感をもっていた人たちの恨み、かもしれませんが、とにかく木々さんは、人の言わないことを堂々と主張したうえで論争・闘争に持ち込むのが大好きな人でした。当然、敵も多くて、しかも「敵をつくることを恐れるな。十人の敵ができれば、かならず十人の味方を得る。逆に十人の敵をつくるまいとすれば、十人の味方も失う」といったような信条を繰り出す、強靭なハートをお持ちだった、というのですから手に負えません。

 これまでもそんな話ばかり書いてきたので、また繰り返すことになりますけど、戦後に責任編集の一部を受け持った『三田文學』では、ここから芥川賞や直木賞の候補に挙がる作家を出していきたい、あわよくば受賞する人材も出していきたい、と高らかに宣言。じっさい、そのとおり実現させ、同時にまた敵をつくります。

 昭和37年/1962年1月には、伊藤桂一さんが第46回の直木賞を受賞。このとき、木々さんは選考委員をしていましたが、なにしろ伊藤さんはオモテ文壇はもちろんのこと、地下文壇……いや、同人誌界隈にも広く知り合いの多い人でしたから、祝賀パーティーにも種々もろもの顔ぶれが集まったそうです。木々さんもそのひとりです。

 その席で、だれかが「また同人雑誌やりたいなあ」と、つい声に出してしまったのがきっかけとなり、聞きつけた木々さんが、そうだ、やれやれ、おれが支援するから、とけしかけたところから、森田雄蔵、青木徹、伊東亨、城夏子、藤井千鶴子、渡辺祐一の6人が中心となって構想を練り、雪華社を発行所として昭和38年/1963年の創刊にこぎつけます。

 創刊号の同人名簿に名前をのこした人数、ざっと60人。なかには、これがはじめての同人雑誌経験、という人もいたとは思いますが、大半が、これまでも他のグループで、おのおの抑えきれない文学衝動に身を焦がしていた面々です。

 たとえば、木々さんの推輓で『三田文學』に作品を掲載していた藤井さんや渡辺さんは、そのまま木々さんを師と仰いで『小説と詩と評論』の中核メンバーになった人たちで、うちのブログでも何度か触れてきました。のちに直木賞の候補になる諸星澄子&加藤善也の夫婦は、もとは『文学四季』の同人だったところから、こちらに参加した人たち。夫のほうはともかく、妻の澄子さんは、それで運のめぐりが良くなったか、直木賞の候補に挙げられ、職業作家の道を切り開き、主にジュニア小説の分野で、超絶な売れっ子になっていきます。

 浅田晃彦さんは、戦前、慶應義塾の学生だったころに、医学部の助教授だった木々高太郎=本名・林髞の生理学の講義を受け、医学のことだけじゃなく文学について議論を交わす師弟の間柄だった、という古くからの知り合いですが、全国的組織をもつ『作家』の同人として、医師をやりながら小説を書いていました。

 いったい、どこに共通点があるんだ、という感じのバラバラな仲間たちです。こういう団体が、ひとつにまとまったかたちで船出し、刊行が続いていったのは、それだけ主宰・木々さんに求心力があったものかと思います。

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2018年3月 4日 (日)

『文学者』…直木賞&芥川賞の、両方で候補になる作家がぞくぞくと。

『文学者』

●刊行期間:昭和25年/1950年7月~昭和49年/1974年4月(24年)

●直木賞との主な関わり

  • 広池秋子(候補1回 第31回:昭和29年/1954年上半期)
  • 武田芳一(候補1回 第33回:昭和30年/1955年上半期)
  • 瓜生卓造(候補2回 第33回:昭和30年/1955年上半期~第38回:昭和32年/1957年下半期)
    ※ただし第38回は単行本作品による候補
  • 津村節子(候補3回 第41回:昭和34年/1959年上半期~第50回:昭和38年/1963年下半期)
  • 小堺昭三(候補1回 第44回:昭和35年/1960年下半期)
  • 林青梧(候補2回 第46回:昭和36年/1961年下半期~第63回:昭和45年/1970年上半期)
    ※ただし第51回と第63回は単行本作品による候補
  • 福井馨(候補1回 第49回:昭和38年/1963年上半期)
  • 太田俊夫(候補1回 第68回:昭和47年/1972年下半期)
  • 安達征一郎(候補1回 第70回:昭和48年/1973年下半期~第80回:昭和53年/1978年下半期)
    ※ただし第80回は単行本作品による候補

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『文学者』掲載作一覧

 これも、言わずと知れた大雑誌です。うちのブログでも何度も触れてきましたし、とくに付け加えるようなことはありません。

 だけど、「同人誌と直木賞」のテーマでやっているのに、これを取り上げないのは不自然ですよね。「出版社と直木賞」のテーマで、文藝春秋のことに触れないようなものですので(それは言いすぎか)、簡潔に振り返っておきます。というか、書いておかないと、主にワタクシが忘れてしまうからです。

 昭和20年/1945年、戦争に明け暮れる日々が終わり、海の向こうに行かされていた人たちが続々と帰ってきて、仕切り直しとばかりに出版の世界も盛り上がり、文学好きな紳士淑女の熱が、ふたたび燃えはじめたころ、昔から創作研究会「五日会」と称して集まっていた人たちを中心に、そろそろ自分たちも、何か新しく会を立ち上げてみようかと、昭和23年/1948年3月15日、有楽町の「レンガ」という店で第一回目の会合をひらいた「十五日会」。アドバイザー的に控えたのが、「五日会」時代からの参加者で、すでに流行作家の地位にあった丹羽文雄さんですが、実質的に会の運営に当たったのは、早稲田の後輩でもある石川利光さんでした。

 みんな集まえば、なにせ血の気の多い人たちですから、丁々発止の議論でやりあい、二次会では楽しく(あるいは、さらにケンカ腰で)飲み食いして……という感じで結束力を高めていましたが、やがてそれでは飽き足らず、機関誌のような雑誌が欲しい、と思い始めます。その意を汲んで、丹羽さんが手をまわし、世界文化社から新雑誌『文学者』を創刊(誌名を、戦前の同人雑誌『文学者』から継いだので、「復刊」とも言われます)。

 しかし、だいたい戦後まもなくに出発した雑誌は、1年、2年でつぶれる、と相場が決まっていて、いや、とくに決まっちゃいませんが、世界文化社はすぐさま経営難にあえぐこととなり、たった4冊で休刊の憂き目に。十五日会の人たちは、さあ困った、と頭を抱えながら、だけどみんな、新作を書いていきたい、とやたら意欲ばかりを募らせて、一時、『早稲田文学』の編集をそっくりそのまま受け持たせてもらったりしましたが、これも刊行元だった銀柳書房がつぶれて、3号でジ・エンド。んもう、こうなれば商業誌じゃなく同人雑誌にしてしまおう、カネはおれたちが援助するよ、と丹羽さんとか火野葦平さんなどが大枚をはたき、昭和25年/1950年7月に再出発を果たしました。これが「第一次」と呼ばれたりもする『文学者』です。

 ところが、会費を滞納するくせに、誤字ばっかりだとか、編集がなっていないとか、文句ばっかり言う同人たちに、編集委員たちは「じゃあ、おまえたちがやれよ」と憤然、あるいは辟易。どうにか5年間、64号まで続けましたが、こんなことなら一回やめちまおうと、丹羽さんの宣言で再び休刊すると、小田仁二郎さんと瀬戸内晴美さんによる『Z』、富島健夫さん、清水邦行さん、見島正憲さんたちによる『現実』、広池秋子さんや佐藤和子さんを中心とした『女流』などなど、おのおのの雑誌へと派生します。

 と思ったら、昭和33年/1958年には、新体制で第二次『文学者』が復刊することになり、こんどは、会費を払う払わないでモメゴトを起こすのもつまらないと、同人費なし、資金の一切は丹羽さんが面倒をみる、……ということを決めて、えんえんと月刊で出しつづけ、昭和48年/1973年、オイルショックによる紙不足をきっかけに、もう無理してやることもないだろう、という丹羽さんの判断のもと、終刊を迎えるまで生きました。

 その間、ここから巣立っていった作家や評論家に、どんな人がいたか。とか言って名前を挙げはじめたら、「『文学者』のすべて」みたいなサイトをつくったほうが早いんじゃないか、というくらい整理もつかなくなるので、やめておきます。とりあえず、直木賞と芥川賞の、候補に挙がったことがある人だけ書き出してみると、

●直木賞

中村八朗小泉譲新田次郎野村尚吾、瀬戸内晴美、広池秋子、武田芳一、瓜生卓造、津村節子、小堺昭三、林青梧、福井馨、梅本育子、太田俊夫、安達征一郎……

●芥川賞

石川利光、中村八朗、野村尚吾、近藤啓太郎武田繁太郎、小田仁二郎、富島健夫、西條倶吉、菊村到、塙英夫小島直記、広池秋子、瓜生卓造、中野繁雄斯波四郎吉村昭、津村節子、林青梧、小堺昭三、河野多恵子、小笠原忠山崎柳子須田作次、帯正子、高橋光子……

 これだけでも、もう整理がつきません。

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