『VIKING』…昭和30年代、続々と加入した新顔が、直木賞からの息吹を送り込む。
『VIKING』
●刊行期間:昭和22年/1947年10月~(70年)
●直木賞との主な関わり:
一回のエントリー程度で、何ほども語れないことはわかっているんですが、日本の文学史にそびえ立つ巨大マガジン『VIKING』、あまりにそびえ立ちすぎて、なぜか芥川賞じゃなく直木賞界隈くんだりにまで顔をのぞかせてしまった、偉容にして偉観を誇る同人雑誌です。
創刊以来70年を超え、関わってきた作家、詩人、評論家、その他もろもろを挙げれば数知れず。ということで、いまさらこんなブログで、創刊までに至るプロセスとかに触れても仕方ありません。ここはひとつ、島尾敏雄さんたちの退会、あるいは小島輝正さんたちの脱退といった、解散・消滅にいたりかねない危機をひらりと回避したのちに、同誌から直木賞候補やら芥川賞候補やらが、ざっくざっくと誕生しはじめる、いわゆる「VIKINGルネサンス」と称された昭和30年代ごろの話題に、絞ってみたいと思います。
ところで、文学賞の候補作が、どの出版社から出たものか。どの雑誌に載ったものか。……というのは一般的に、文学賞を誰がとったか、というのと同じくらい、どうでもいいことでしょう。しかし、どうでもいい文学賞関連事項のなかでは、ある程度、意味のある事柄に属します。
少し前に取り上げた同人誌『小説会議』では、同人のなかから伊藤桂一さんや早乙女貢さんなど、直木賞の受賞者が生まれました。当然、そのつど同人仲間たちは喜んだんですが、しかし、その一方で「ただ、受賞作が、「小説会議」から出なかったことは、残念なことであった。」(『小説会議』40号・昭和49年/1974年11月「小説会議十八年の振幅」田島啓二郎)と、あとになって愚痴る人もいたぐらいで、自分たちの同人雑誌に載せた作品が、商業編集者に注目されて、出版社まわりの文学賞に選ばれる、というのはやはり、雑誌にとって一層の励みになることはわかります。
その伝でいうと、『VIKING』の場合、同人たちが他で発表したものが、賞の候補になったり受賞したりすることはあっても、この雑誌に載ったものが、そういうかたちで注目されることは、昭和30年代まで、ほとんどありませんでした。ワタクシの知っているのは、第2回戦後文学賞(昭和25年/1950年度)の候補になった、富士正晴さんによる「一駒」(『VIKING』19号)の一例ぐらいです。
そもそも、賞で扱われないような作品こそ好んで載せる、みたいな風合いの雑誌だったらしいので、賞に見向きもされないのは、むしろ願ったり叶ったりだったかもしれません。
しかし、そうはいっても、雑誌に載ったものが文芸誌に転載されたり、賞の候補になったりすれば、ワッと人の目が集まる。それを機に稿料の稼げる作家にもなれる。といったことに、興味のある同人がいたって、別にいいわけです。いつもワイワイガヤガヤ、冗談の掛け合いのような、怒鳴り合いのような同人例会に参加するだけじゃ満足できず、もう少し外界での評判ってやつを存分に浴びながらの同人活動もしたいものだ! ……という空気が出てきたのかどうなのか、編集および発行が、新しい人たちの手にどんどん引き継がれるうちに、少しずつ雑誌の性格にも変化が現われて、不思議ではありません。
そこに登場したのが、北川荘平さんです。ご存じ、と言いますか、また取り上げるのもためらわれるぐらい、何度もうちのブログに登場してもらっている、直木賞界きっての同人雑誌の雄です。
くどくなるので、ここはさらっと流しますけど、同人雑誌『状況』の行き詰まりを経て、高橋和巳さんの紹介で『VIKING』にやってきた北川さんは、加入して早速、『文學界』編集部からボツを食らって発表場所を失っていたという百数十枚の「企業の伝説」を115号(昭和35年/1960年3月)に発表。これが、『VIKING』誌上はじめて直木賞候補に選ばれることになります。ちなみに、そのときまだ、同誌の掲載作で芥川賞候補になったものはありません。
116号から加入を許された竹内和夫さんによれば、この当時、『VIKING』はそれまでになく同人の出入りが激しく、誌史において激動の、画期的な時代に突入していた……ということなんだそうです。
北川さんは、それから約3年後、『VIKING』の編集人をやらないか、という話が持ち込まれまして、150号(昭和38年/1963年5月)からその任を負うことに。そのころの、北川さんの編集人ぶりを、竹内さんはこう振り返ります。
「彼は当時『VIKING』の編集人をやっていて、「瀬戸内の航海を打ち切れ」などというVIKINGへの陰の評判を真に受けて、自らの作品を押し出すことによって、VIKINGを大海に漕ぎ出す一役を担おうとする、気負いに満ちた顔をしていた。そうした意味で彼は一種の野心家であったが、テレず、臆せず、気負いを素直に声や表情に出すのは、嫌みがなく、むしろ壮快であった。」(平成19年/2007年3月・編集工房ノア刊 竹内和夫・著『幸せな群島――同人雑誌五十年』所収「北川荘平『青い墓標』の発刊」より 初出:『関西文学』昭和56年/1981年10月)
仲間内だけでケナし合ってハイ終わり、というような狭い活動に甘んじずに、その誌面づくりや掲載作品によって『VIKING』をもっと広く世間に知らしめる。そういった気概が北川さんにはあったのだ、ということですね。
そしてその「野心」は大いに効果を上げた、と言っていいでしょう。北川さんが編集している時代に、次から次へと、この雑誌から直木賞候補作、あるいは芥川賞候補作が生まれました。
○
「野心」ということでいえば、いまひとり、昭和30年代の『VIKING』が生んだ直木賞候補者、川野彰子さんの野心も、かなりのものがありました。
学生時代から小説を書いていた川野さんが、『VIKING』に再加入したのが119号(昭和35年/1960年7月)から。3か月後の122号(昭和35年/1960年10月)には早くも「郭の灯」を書き、『文學界』の同人雑誌評コーナーでベスト5に選ばれるなど、好スタートを切ります。2度目の登場となった136号(昭和37年/1962年1月)の「色模様」は、第47回(昭和37年/1962年・上半期)直木賞の最終候補にまで残りまして、『VIKING』と直木賞予選との相性のよさを、厳然と周囲に知らしめることに。
まあ、知らしめたかどうかは異論のあるところでしょうけど、よーし、ここからだ、ここからどんどん小説を書いていっぱしの作家になるんだ、と川野さんにエンジンがかかったことは間違いありません。『群像』の新人賞に投じたり、あるいは『新潮』にも作品を送ったりするうち、『小説現代』からも声がかかって、いよいよ有望新人作家の仲間入り、というところで、『新潮』に採用された「廓育ち」(昭和38年/1963年7月号)が二度目の直木賞候補になったものですから大騒ぎ。遊郭を舞台にそこに生きる人たちを描く、というおのれの鉱脈を見つけて、筆もとどまるところを知りません。
でも、なにしろ『VIKING』の人です。世俗の文学賞など、大して気にもかけていなかったのでは。……とも思うんですが、どうもそんなことはなく、いまがとりどきだ、めぐってきたチャンスだ、とご本人は相当に発奮していたようです、と当時、身近にいた同人仲間の島京子さんは語ります。
川野さんは、直木賞をとることはつまり「日本一になること」に等しいという、かなり偏向した(いや、まっとうなのか)直木賞観を持っていた、といい、2度候補になって、2度とれなかったことは、どうも彼女に、余人にはうかがい知れないほどの挫折感をもたらしたようだ、というのです。
「当然日本一(直木賞をとることを彼女はそう表現した)になるつもりが、こんどはなれなかった。(引用者中略)作家として順調なスタートをきった彼女にまだまだつまずきの様相は見えなかった。だが廓という特異な世界を迫真の力で描いては好評を得つづけた彼女は、日本一になる期待をもち、それが実現しなかったのは傍から見れば何でもないようでも彼女にとってはひとつの挫折であったと思える。
「ここ半月ほどは、いらいらいらいらしてましてねえ」
御亭主は言った。」(平成4年/1992年6月・編集工房ノア刊 島京子・著『竹林童子失せにけり』所収「川野彰子の死」より 初出『VIKING』1964年11月)
いずれ時がたてば、文学賞をとれなかったとか、そんなのどうでもいいじゃないか、と他の『VIKING』同人たちのように達観できる日が、川野さんにも訪れたかもしれません。でも、訪れたかどうかは、もう誰にもわかりません。
わからないので、勝手なことを言うしかありませんけど、候補になって注目されただけでも、この賞には十分に効果がある、というのが直木賞の一般的な姿です。効果の大小や、種類は違えども、昭和30年代ごろでもそれは、いまとそんなに変わりません。100号を超えてから急にこの雑誌で活躍しはじめた北川荘平、川野彰子の両名のおかげで、ヘンクツ同人誌『VIKING』にやたら文学賞の風が吹き込むことになったのはたしかなことですし、いや『VIKING』のほうはともかく、直木賞のほうは、そのおかげでまた、彩り豊かな候補ラインナップを形成することができました。それが、ゆくゆくは津本陽さんの受賞へのつながっていくのですから、昭和30年代の息吹は、やはり見逃せないパワーだったと思います。
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