« 『小説会議』…直木賞はなかなかとれず、でも賞を目標にはしないと言い切る大衆文芸グループ。 | トップページ | 『城』…プロ作家、直木賞候補6度、それでも最後まで同人をやめなかった滝口康彦。 »

2018年2月 4日 (日)

『文学世紀』…直木賞なんかはさておいて、何と言っても特筆すべきは、地味さと執念深さ。

『文学世紀』

●刊行期間:昭和38年/1963年9月~昭和53年/1978年?(15年)

●直木賞との主な関わり

  • 姫野梅子(候補1回 第58回:昭和42年/1967年下半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『文学世紀』掲載作一覧

 ちょうど50年まえに行われた第58回(昭和42年/1967年・下半期)の直木賞。1月に候補者が発表されたところ、野坂昭如さん、三好徹さん、筒井康隆さんという、すでに名の売れていた人が混ざっており、けっきょくそこから野坂&三好の二名が選ばれて、「冒険ぎらい」の直木賞クオリティをまざまざと見せつけることになるんですが、プロ作家だった早乙女貢さんは別として、いわゆる「同人誌作家」が、そこに3名含まれていました。神戸『風塵』の原田八束さん、京都『三人』の加藤葵さん、そして東京『文学世紀』の姫野梅子さんです。

 このうち、ナゾ中のナゾ、とも言うべき存在が『文学世紀』の姫野さんでしょう。新日本文学会に所属しながら、無報酬で書きたい小説を書く、あまたの同人誌作家のひとりだった、ということ以外、よくわかりません。目ぼしい発表作もなく、ワタクシも直木賞候補になった「首謀者」のほかには、読んだことがありません。

 「首謀者」は、だいたい150枚程度と、同人誌に載せるにはかなり長めの作品です。昭和20年/1945年の終戦直後、といいますから小説が書かれた頃から見て、約20数年前。大分県にある漁村S町で、とある事件が勃発します。町にはN鉱業の製錬所があり、敗戦によって一時、操業停止に陥っていて、そこにいた何百人という鉱員たちは日々、窮乏の生活にさらされていたんですが、一部の鉱員たちが、地元の漁師たちが手がける生け簀に夜な夜な侵入、魚を盗み出しているところを発見されたのです。

 盗みを働いた連中は、所内に逃げ帰りますが、漁師たちは、当然のこと激怒。警察が仲介に入り、話し合いを進めたものの、N鉱業側は、こんな不祥事を表立てたくはないので、穏便にお金を払うかたちでの示談を提案します。しかし漁師たちは、人の首をとらなきゃ収まりがつきません。ちゃんと首謀者を出頭させろ。じゃなきゃ許さん。と一歩も引かない構えです。

 N鉱業のほうでは、さんざん揉め、しかし最終的に自分が首謀者として名乗り出ようと手を上げる男が現れます。当時、主任の職にあった小郡富雄です。病弱な妻を抱える、責任感の強い男で、本人は盗みに加担していたわけではありませんが、部下たちの行動に事前に不審を抱いていながら、止めることのできなかった自責もあり、過去、自分のせいで事故を起こしたのに、戦時中だからと不問に付されたことが胸にわだかまってもいて、みずから首謀者と名乗り出ることを決意します。

 すると、その日から、小郡夫妻の家に、事情を知らない人たちによって、パシンパシンと石が投げつけられることに。けっきょく、S町を追われるかたちで小郡は異動。「S町事件の首謀者」というハナシは、行く先々にも付いてまわり、N鉱業にとっても、不祥事を救ってくれた英雄でありながら、しかし重職に就かせるわけにはいかない、ある意味でお荷物の社員となります。折りあれば辞表を出したいと願いながら、鉱山を転々とさせられる小郡でしたが、やがて、この夫妻にひとつの転機が訪れます。妻のおなかに、二人の子供がやどったのです。

 ……といったような内容なんですけど、会社の論理に翻弄される一労働者の、華やかではないが打ち捨てることのできない、生活・人生信条が全篇をとおして静かに通底していて、これぞ、ザッツ・地道、と呼んでいいでしょう。

 姫野さんの参加した『文学世紀』というのは、そもそも、新日本文学会とは一心同体の、日本文学学校から生まれた同人雑誌です。いまもある大阪の文学学校では、機関誌の『樹林』とは別に、受講生やOBたちがさまざまにグループとなって、いくつもの雑誌が誕生していますが、それと同様、東京のほうの文学学校でも、『新日本文学』という中核的な月刊誌だけじゃなく、やはり、把握できないほどのグループ雑誌がつくられました。『文学世紀』もそのひとつです。

 つくったのは、同校研究科の17期の受講生たち。チューターを務めた小沢信男さんは語ります。

「日本文学学校研究科の小沢組の人達が、修了後もグループを作って、定期に研究会をつづけ、同人誌「文学世紀」を出すに至った。それを幸いに、私はその後、何期か組会のチューターを勤めるたびに、終了後は有志の人を文学世紀の会に送りこんだのだ。アフタ・ケアの合理化。あとは皆さんでよいように切磋琢磨なさるだろう。

はたせるかな、この会は、ある時期を活発に活動して、雑誌も二十数号を重ねたのだ。研究会は回数が記録されていて、二百回に届いたのではなかったか。」(昭和61年/1986年3月・作品社刊 小沢信男・著『書生と車夫の東京』所収「微笑の人」より)

 別の文献では、研究会は300回を超えて続けられた、とも言います。15年も続いたグループは、日本文学学校のなかでも長寿の部類だったそうです。やはりこれは、中心となって支えた同人たちの熱意のたまものでしょう。直木賞の候補作に選ばれたことがある、という誌歴がその長寿にどの程度、影響していたのか、不明ではありますが、おそらくほとんど影響はなかったものと思います。

           ○

 この雑誌を支えた熱心な中心同人として、とりあえずワタクシでも何となくわかるのが、関柊子さんと林英樹さんです。ちなみに、姫野さんの作品が候補になった『文学世紀』12号[昭和42年/1967年7月]は、編集人が林さん、発行人が関さん、と奥付に書かれています。

 林英樹さんは、その第12号の編集後記に、燃えたぎる同人雑誌ダマシイを熱ーく書きつけている人ですが、『文学世紀』には初期から関わり、朝鮮戦争に材をとった「歴史は三度書きかえられる」を5号~16号に連載、昭和45年/1970年『遙かなる「共和国」』(三一書房刊)の題で一冊になっています。経歴ははっきりしていて、大正8年/1919年に朝鮮で生まれた〈朴甲東〉さんの筆名です。講談社の編集者だった近藤大介さんによる『北朝鮮を継ぐ男 革命家・朴甲東の80年の軌跡』(平成15年/2003年2月・草思社刊)という本まで出ている、ある種の有名人ですが、『文学世紀』の研究会では、

「林は、勉強会で出席者のほとんどが居眠りしてしまった深夜まで作品の朗読をつづけて、同人仲間をウンザリさせたこともある。」(『新日本文学』昭和53年/1978年10月号 関柊子・東山信子「「文学世紀」のこと」より)

 とオチョくられる、かわゆい一面をもった文学オジさんだったようです。

 いまひとりの同人、関柊子さんは、月に二回の研究会に、日暮里にあった自宅を提供していた人で、同人たちが集まれば遠慮会釈なく、批評の声をぶつけ合っていた、とのこと。そう考えると、関さんがいなければ直木賞候補作「首謀者」が生まれなかったというのは、まず確実なんですけど、関さんは本名を〈秋山照子〉といい、大正15年/1926年生まれですから、『文学世紀』創刊のころは30代なかば。日本文学学校には第1期から何度も入学しては卒業を繰り返したというツワモノの文学乙女で、後年、荒川シルバー大学の設立に奔走、のちに理事長にまでなったことから、いまでもネットで検索すれば、情報が出てきます。平成24年/2012年2月に他界されたそうです。

 先に引用した「「文学世紀」のこと」で、林さんのウンザリエピソードを暴露した書き手のひとりが、この関さんです。ほかにもワタクシなどは誌面で名前しか知らない同人たち、渡部芳紀、坂井教子、七五三掛誼、松島巖、野川記枝、小寺和平、などなどに関する愉快な(?)エピソードが語られているんですが、当然と言いますか、あえてと言いますか、自分の雑誌から直木賞の候補作が出たことには、そこではひとことも触れていません。姫野さんのことも、

「地味だが執念深く戦争体験や戦後の混乱期を題材にして、小説を書きつづけているのは姫野梅子である。」(同)

 と、あっさり紹介するにとどまっています。

 「おれたち・わたしたちは、何も文学賞のために小説を書いているんじゃない!」と叫ぶいっぽうで、うちの雑誌からは誰それが直木賞(あるいは芥川賞)の候補になった、とつい書いてしまうのも、同人雑誌には、じつによくある風景です。しかし、そういった空気は一切見せず、ただただ何十回、何百回と勉強会を開き、地味に執念深く書いている作家として、同人のことをとらえる。……『文学世紀』の骨太さ、まぶしすぎて、直視できません。

|

« 『小説会議』…直木賞はなかなかとれず、でも賞を目標にはしないと言い切る大衆文芸グループ。 | トップページ | 『城』…プロ作家、直木賞候補6度、それでも最後まで同人をやめなかった滝口康彦。 »

同人誌と直木賞」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『文学世紀』…直木賞なんかはさておいて、何と言っても特筆すべきは、地味さと執念深さ。:

« 『小説会議』…直木賞はなかなかとれず、でも賞を目標にはしないと言い切る大衆文芸グループ。 | トップページ | 『城』…プロ作家、直木賞候補6度、それでも最後まで同人をやめなかった滝口康彦。 »