『冬濤』…暗かったり重かったり、直木賞(の予選)はそういうものに目がありません。
『冬濤』
●刊行期間:昭和21年/1946年3月~昭和56年/1981年10月(35年)
●直木賞との主な関わり:
- 三好文夫(候補1回 第53回:昭和40年/1965年上半期)
●参考リンク:『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『冬濤』掲載作一覧
「冬濤」と書いて「ふゆなみ」と読みます。北海道の中央あたりに位置する旭川で産声をあげ、コツコツとつくられるうちに、作家・評論家が続々と輩出、いっときは東京の出版社のほうにも名を轟かせたという、なかなか恐るべき雑誌です。
佐藤喜一、高野斗志美、木野工、三好文夫……などなど、『冬濤』に所属した人たち。「まるでキラ星のごとく」と表現するのは確実に間違っていると思いますが、華やかではないけど、しっかり地に足のついた、それぞれイブシ銀の文筆的業績で、多少の名をなした面々です。
そして、やはり、といいますか、この雑誌もまた、直木賞の世界で輝いたというよりは、芥川賞とかそっちのほうの、文学か文学もどきかの口論で刃傷騒ぎが起きるような、ちょっとオッカない世界のほうで注目された、ヤクザな……いや、マジメな同人たちの集まりでした。
もともとは昭和21年/1946年、旭川にいた堀井更生(新川浩三)さんや吉柳元彦さんなどが『冬濤』誌を創刊、しかし同人会費の回収がままならず、経営に四苦八苦しながら、誌名を『朱塔』としてみたり『北方浪漫』としてみたり、何とか号数を継承して続けていたんですが、昭和28年/1953年に編集発行人を佐藤喜一さんとし、雑誌の名前ももとに戻して、再出発をはかります。通算第7号のときです。
そのころから、『文學界』の同人雑誌評でちょくちょく取り上げられるなど、少しずつ知られるようになりましたが、何といっても最初の爆発は、再出発をはかったこの年の年末、『冬濤』からの代表として木野工さんが『新潮』誌の企画に投じた「粧われた心」が、掲載対象12編のうちのひとつとして選ばれ、これがそのまま芥川賞の最終候補にまで残ったことでしょう。
「この小説は小山清らと二十八年下期(30回)の芥川賞候補となり、翌年の「新潮」六月号新人小説集に長谷川四郎、吉行淳之介、福永武彦らにまじって「軍艦忌」が発表されるなど、その登場は鮮やかであった。
(引用者中略)
のちに北海道新聞文学賞を得た「襤褸」も直木賞候補になったが、一時期を画した作家である。第二次「冬涛」の編集者として「冬涛」の黄金時代を築いてもいる。」(昭和57年/1982年4月・北海道新聞社刊 木原直彦・著『北海道文学史 戦後編』より)
と、木原さんによれば、『冬濤』には黄金時代というものがあったそうで、それを牽引したのは、実作者としても一躍名を知られるようになった木野さんの、編集力があったからだと解説しています。木野さんは、直木賞で2回、芥川賞で4回候補になりましたが、作品を読むかぎり、まずもって大衆文芸に進む気はなかったと見てよく、とりあえずチャラチャラした、流行の読み物の類いは、まったく鼻にもかけなかったことでしょう。
それで、木野さんというと、戦後まもないころから北海日日新聞で働き、やがて北海タイムス社の文化担当記者としてメキメキと出世、2度目の直木賞候補となった「襤褸」(『北方文芸』昭和45年/1970年7月号、昭和46年/1971年7月号)発表のころには、論説委員となって東京の支社に在籍し、なんだか気軽に近寄るのも憚られるような「文学しているお偉い人」となっていたんですが、「襤褸」は北海道新聞文学賞を受賞したおかげで、新潮社から単行本化の声がかかり、忙しい仕事のあいまに、改稿に励みます。
直木賞の候補に挙げられたのは、そんな折りのことでした。「襤褸」というのも、もうなかなかの、暗いハナシでして、旭川の遊郭で、まるで奴隷のように働かされた娼妓の世界を、ひたひたと克明に描いたもので、どこにいったいエンターテインメントの要素があるのか、これを堂々と候補に残す直木賞の、アンチ・エンタメな性格を感じ取らないわけにはいきません。
いっぽう木野さんのほうは、直木賞だとか芥川賞だとか、そんな賞の候補に挙げられるのは、もう慣れっこさ、と余裕の顔を見せ、その当落でいちいち一喜一憂しませんよ、と回想。たしかに、こういう文学賞みたいな浅はかな制度に、公然と取り乱すイメージは、木野さんにはなさそうだなあ、と思うんですけど、しかし事態は少しおかしなことになってしまいます。
この暗ーい「襤褸」が、あともう少しで受賞というぐらいに選考委員の一部に評価され、最終の二作にまで残ったからです。かなりの驚きです。
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