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2018年2月11日 (日)

『城』…プロ作家、直木賞候補6度、それでも最後まで同人をやめなかった滝口康彦。

『城』

●刊行期間:昭和29年/1954年12月~平成20年/2008年?(54年)

●直木賞との主な関わり

  • 滝口康彦(候補2回 第55回:昭和41年/1966年上半期~第57回:昭和42年/1967年上半期)
    ※他、別の媒体での発表作で合計6回の候補

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『城』掲載作一覧

 何か月前に、古川薫さんの、長い長い直木賞候補歴の始まりとなった同人誌『午後』を取り上げました。その古川さんの、盟友とも言うべき直木賞候補者が、二人います。言わずもがな、白石一郎さんと滝口康彦さんです。

 三人ともに、同人雑誌とゆかりの深い作家でありながら、関わり方は当然、三者三様、ひとつの類型にくくれないところが、同人雑誌界の豊潤さ、と言いますか、正解のない直木賞の手広い性格を物語っています。

 古川さんと違って滝口さんは、同人雑誌で注目された人ではありません。20代、自身も病弱で、家族を養いながら、炭鉱での貧乏暮らし、そんな折りに雑誌の浪曲台本の募集記事を見て、試みに応募してみたところ見事に入選、何か月分かの稼ぎを一気に賞金で得ることができたのに味をしめて、投稿生活に入ったのだとか。そのうち、何度めかの挑戦で、第10回オール新人杯(昭和32年/1957年)でいいところまで行き、受賞は佐藤明子(のちの来水明子)さんの「寵臣」に譲りましたが、「高柳父子」が佳作に入って、『オール讀物』に掲載されますと、これが運よく第38回(昭和32年/1957年・下半期)の直木賞候補に挙げられます。

 住んでいたのは佐賀県多久。当時、県内でもこの作家のことを、ほとんど知る者はいなかった、ということです。いまとは微妙にその盛り上がり方も違っていたでしょうが、しかし、選考会の日が近づけば候補者に記者やら何やらが接触し、選考会当日には受賞の会見をやる、という文化はすでに芽生えていて、佐賀のほうでも新聞各社の記者が集まって、滝口さんの共同会見を用意していた……と、当時、西日本新聞佐賀支局にいた桐原一成さんは回想しています。

 けっきょく第38回は、該当作なしの結果となったので、記者たちの興奮もスッと引いたと思いますが、このとき滝口さんが記者たちに語った言葉が、桐原さんによって残されています。

「少しもしょげていなかった。「直木賞は受けられなくても、まだあとに機会があるだろう。これまでの苦しい歩みが世間に認められる。苦労したかいがあった。これからは、文学だけに生死をかけて生きていける」と、少しほおを赤らめて淡々と語る滝口さんからは、自信に似たものがうかがえた。」(『城』89号[平成16年/2004年9月] 桐原一成「作家デビューその夜」より)

 このとき滝口さん33歳。直木賞の候補を機に文筆一本で食っていく決心をし、「佐賀に在住する唯一の職業作家」と呼ばれる、なかなかのイバラの道を選んで歩きはじめました。

 しかし、です。何十(あるいは何百)と出ている数々の雑誌に、作家として原稿を書いて稿料を得る人たちは、昭和30年代のころにも何百人といて、それはそれでいいんですが、一度候補になったからといって、直木賞の候補にふたたび顔を出すのは、かなりの難関です。「職業作家としてやっていけているんだから、もう直木賞はいいだろう」という考え方も、当然あります。別に直木賞は、がんばっている職業作家の背中を押すために始めた賞じゃありません。そのまま行って、滝口さんが二度目の候補に挙がるのは、何か奇跡でも起きないかぎり、まず無理でした。

 というところで、奇跡が起きてしまいます。なかなか文学活動が育たないと言われていた佐賀の地で、純文学の方面に熱をあげる人たちがつくり、どうにか続けていた『城』という同人誌に、時代小説作家の滝口康彦さんが、ついつい幸運にも出会ってしまったからです。

 『城』が生まれたのは、さかのぼって昭和29年/1954年の終盤ごろ。それまで、佐賀県下の文学青年たちは、いくつか雑誌をつくっては長く続かず、お隣り福岡の『九州文学』に参加したりしていましたが、やはり自分たちの地元で自前の同人雑誌をつくりたい、という熱が高まり、1号でつぶれてしまった『未知派』同人の田中艸太郎、都筑均、大塚巖などなどと、佐賀大学の教授を務めていた内山良男、松田又七、水之江有義などなどの、二つのグループが中心となって合体。ここから『城』創刊へと至ります。

 スタート以降、『城』同人の活躍は順調に注目されていき、昭和33年/1958年に田内初義さんの『文學界』同人雑誌優作作転載と芥川賞候補に湧くと、田中艸太郎さんは群像新人文学賞の最終候補入り、昭和34年/1959年その田中さんの評論「地方在住作家、芸術家についての覚書」が『文學界』に転載され、井原淳子さんは女流新人賞候補、昭和35年/1960年に山田敦心が『新潮』全国同人雑誌推薦小説特集に採用されるあいだ、松浦沢治さんは『村芝居』『熊襲部落』を刊行する、といった按配。

 ところが、ただ同じ地域に住んでいる、というだけで集まったグループですから、ちょっと火種がくすぶれば、ハナシがこじれることもあるでしょう。昭和38年/1963年、池正人さんから提出されたランボオの訳詩が、何だこれは誤訳ばっかりじゃないか、こんなもの掲載するな、と木元光夫さんと白川正芳さんが主張したにもかからわず、けっきょく編集委員たちの判断で掲載されてしまったものですから、総会の席で口論となり、こんな同人誌やめてやる、じゃあこっちも、などとヒートアップ。同人は二派に分裂し、第二次『城』と『文学佐賀』に分かれてしまいます。

 滝口さんが、第二次『城』の田中艸太郎さんと知り合ったのは、そのころだったそうです。

           ○

 すでにプロの作家として認められ、あるいは『城』の目指すような、バリッバリの、ビシッビシの文学世界とは、一見、相容れなさそうな読みもの時代小説を書いている滝口さんが、すんなりと『城』に加わったのは、金を稼ぐとか稼がないとか、文学とか文学じゃないとか、そういうところに評価軸を置かずに、人知れずに苦労しながら報われなくても生きていく、そういう世界とともに歩く滝口さんの性格があったから、なんでしょう。心の内は、はっきりとはわかりませんが、ここから滝口さんが、家族を食わせるための原稿とは別に、一銭にもならない小説を書き始めたのは、たしかです。

 田中艸太郎さんに言わせれば、滝口さんの作品は、

「お前さんの作品は純文学的テーマを大衆小説的方法で処理しているようなところがあるから中途半端なのだ」(『九州文学』昭和48年/1973年1月号「書評」より)

 ということなんだそうで、だとしたら、直木賞なんかぴったりじゃないか、と思います。そして現実に、滝口さんの、いわゆる中途半端な(……)時代小説「かげろう記」と「霧の底から」が、同人誌の『城』に発表されると、まさかの二度目、三度目の直木賞候補の報が、滝口さんにもたらされることになります。

 単なる大衆向けの小説ではない。という風合いは、明らかに直木賞の好むところです。いまでもそうです。基本的にずっとそうでした。

 ここで、すんなり賞をあげないところが、直木賞のオクテな消極性、と言いましょうか。とくに歴史もの、時代小説については、だいたい「新しさ」とか「清新さ」を感じさせにくいジャンルでもあり、選考委員たちもそうやすやすと授賞に踏み切れないものがあります。

 しかも滝口さんの作品は、そういうなかでも、とびきりに「いつも同じようなハナシばかり書いている」時代小説の急先鋒でもある。選考委員の人たちも、選評のたびに言っていますし、滝口さん本人も、そこははっきり自覚していたところだったようです。第81回(昭和54年/1979年上半期)に『主家滅ぶべし』で6度目の候補となったとき、こんなふうに書いています。

「さて七月。候補作品が正式に発表された。田中小実昌阿刀田高中山千夏といった顔ぶれで、評判をきけばいずれもユニークな作品ばかりらしい。ひるがえって自分のはとなると、時代小説で五百枚をひとまず読ませるおもしろさはあると思うものの、新鮮さを求められれば薬にしたくもない。新しさという物差しで判断されたら九分九厘勝ち目はなさそうだった。」(『小説新潮』昭和54年/1979年11月号 滝口康彦「すってんてん」より)

 そして、やはりこの回も駄目でした。

 いま少し滝口さんが頑強で、生き延びて、また違った世界観の小説を次々と発表できていれば、きっとそのうち直木賞のほうが折れるときがくる。と、まわりの人たちはみんな思っていたでしょう。しかし、昭和60年/1985年ごろに体調を崩して闘病生活に入ると、もはやほとんど物を書けなくなって、新作は絶えてなくなってしまいます。

 直木賞との縁ももはやそれまで。という感じではあるんですが、ふとひるがえって見ると、滝口さんの描く小説世界あるいは登場人物たちが見せる苦難のなかの矜持を髣髴させることがあります。滝口さんが、ずっと『城』の同人でありつづけた、ということです。

 同人になったのが昭和39年/1964年から、と言いますから、以来40年。没した直後の平成16年/2004年9月には『城』89号として、滝口さんに関する充実した追悼号も出されました。そこでは古川薫さんはじめ何人かが、一度は授賞を決めておきながら最後にくつがえった、第68回(昭和47年/1972年・上半期)の直木賞の変節ぶりを、チクチクと問題視したりしているのをはじめ、新味がない、変わり映えしないと、えんえんと言われながら、それでも地元の(無名の)書き手たちといっしょにあることを選んだ滝口さんの、無骨で器用でない姿が感じ取ることのできるつくりになっています。

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