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2018年1月28日 (日)

『小説会議』…直木賞はなかなかとれず、でも賞を目標にはしないと言い切る大衆文芸グループ。

『小説会議』

●刊行期間:昭和31年/1956年11月~昭和56年/1981年11月(25年)

●直木賞との主な関わり

  • 金川太郎(候補2回 第38回~第54回:昭和32年/1957年下半期~昭和40年/1965年下半期)
  • 左舘秀之助(候補1回 第43回:昭和35年/1960年上半期)
  • 畷文兵(候補1回 第44回:昭和35年/1960年下半期)
  • 早乙女貢(候補2回+受賞 第56回~第60回:昭和41年/1966年下半期~昭和43年/1968年下半期)
    ※ただし第60回受賞は単行本として発表した作品

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『小説会議』掲載作一覧

 今週の主役『小説会議』は、これまで取り上げてきた同人雑誌とは、画然たる違いがあります。「大衆文芸」の同人誌であることを、声高らかに標榜していたからです。

 いまとなっては、「もうそんなのどっちでもいいじゃん」とツッコみたくなる案件ですけど、しかし出版事情も、人間の心理も、この何十年かで大きく変わったはずなのに、いまだに「純文学と大衆文学の区分けなど、何の意味もない!」と、どこか不愉快そうに言い募る人が、けっこう居残っています。こう発言したがる、ということは、「現実に、純文学と大衆文学は区分けされている」と、認識している人がいまでもいるんですね。当然、こういう議論は、ただボーッと80ン年の直木賞史を眺めているだけでも、気持ちわるくなるほど数多く目に入ってきますので、よっぽど、みんな口を出したくなるテーマなのでしょう。

 まあ、ワタクシもそのひとりなので、人サマのことを言えた義理じゃないんですが、とりあえず、大衆文芸というものの立ち位置の歴史は、たしかに、見ているだけでエキサイティングです。無数にある直木賞の魅力のなかでも、この「大衆文芸が負ってきた歴史」からくる面白さは、相当な量を占めていると思います。「文学といえば別に本道がある、大衆ナンチャラなんか傍流中の傍流じゃないか」と、意識裡に、無意識裡に思われていたさなか、文学のほうの芥川賞に比べて何百分の一、何千分の一程度しか注目されずに誕生した、という経緯からして、バツグンの魅力を放っています。

 そして、昭和30年代から昭和40年代、直木賞は同人雑誌に積極的に手を伸ばそうとします。この時期、同人雑誌界の充実ぶりは右肩あがりで、数も種類も増えつづけていました。なかで、ひとつの特徴と言っていいのが、大衆文芸の世界にも有力、有望視される同人誌が生まれたことでしょう。双璧をなすのが、『近代説話』(昭和32年/1957年創刊)と、『小説会議』(昭和31年/1956年創刊)です。

 『近代説話』については、いずれ触れる機会もあるので、ここでは深く立ち入りませんが、どちらの雑誌も、「すでに懸賞小説で選ばれた実績のある、新人の若手たちが集まってできた」という共通項があり、また、直木賞に何度も何人も候補に挙げられた、という点でも肩を並べました。両方を掛け持ちした同人もいます。

 しかし、両者のその後の道のりは、大きく変わっていきます。『近代説話』からは、そこに掲載された作品で直木賞を受賞する人が続出、直木賞史上もっとも愛された同人雑誌の地位を確立し、いまも語り継がれる存在にまでなりました。

 当時の、同誌の勢いはすさまじいものがあり、同人だった尾崎秀樹さんなどは、大衆文芸や直木賞受賞者の素顔を語れる稀有な人材としてフル回転。ライバル誌、というか類似の雑誌として、こちらも何度か直木賞の候補を出していた『小説会議』も、メディアの注目を集めるほどの『近代説話』の活躍に脱帽、改めてお礼を語っているほどです。

「それにしても、志を同じくしている「近代説話」の躍進程心強いものはない。われわれの前途に、大きな光明と自信とを植えつけてくれる結果になったことに対し、ここにお礼を申述べたい。われわれも似た山道を、営営として死ぬまで登り続けてゆきたい。」(『小説会議』13号[昭和36年/1961年5月]「編集後記」より ―署名:谷中初四郎)

 しかし、こちらの『小説会議』は、候補になれどもなれども賞を贈られることはなく、創刊時の同人20人のうち、直木賞候補になった人は7人、うち2人しか受賞しませんでした。賞の面では大きな差がつき、それが影響してか、いまにいたっても『近代説話』に比べて顧みられる機会のかなり少ない雑誌となっています。

 せっかくなので、ここに創刊時の同人名を挙げておくことにします。生田直親、井口朝生伊藤桂一、池上信一、氏家暁子、太田久行(童門冬二)、小橋博、阪本佐多生、早乙女貢、高村暢児、田島啓二郎、豊永寿人、畷文兵、中川童二、福島郁男(赤江行夫)、福本和也、松浦幸男、村上尋、森山俊平(川上直衛)、輪田加寿子。

 ……読んだことのない作家ばっかり、といえば、ばっかりです。

           ○

 もとをたどると、『講談倶楽部』の編集をしていた高橋加寿男さんが、自誌が主催する講談倶楽部賞から、一人立ちできる作家を育てたいという熱意をもち、受賞者の池上信一さん、伊藤桂一さん、赤江行夫さんを自宅に招いては、小説についての講釈を垂れ、意欲をかき立てていたことが、きっかけになったと言います。

 そのうち、池上さんと伊藤さんが中心となって、この賞の有望な応募者に声をかけ、小説研究の会を開くようになったのが「泉の会」です。雑誌づくり(同人雑誌づくり)に経験もある、ウラの仕事もきちんとデキる男こと、伊藤さんが尽力したことで、この会の同人雑誌として『小説会議』ができました。

 掲げた目標は「純正ロマンの伝統を守っていく」。

 同人雑誌ももっと後の時代になると、文学賞を受賞することを目標に掲げる雑誌が出てきたりして、文学賞との関係性も変化を遂げていくんですが、さすがに昭和30年代、そこまで両者の関わりは進化しきっていません。

 『小説会議』も、集まったきっかけが文学賞(懸賞小説)にあったというのに、とにかく文学賞を目標に作品を書くのは愚の愚だ、という姿勢を崩しませんでした。

 あるいは、その考え方こそが、同人雑誌と文学賞とのあいだの、根幹をなす関係性なのかもしれません。目標にはしないが、候補に選ばれるというかたちで評価されたならうれしい、受賞すればもっとうれしい、という温度感は、あまりに常識的すぎて面白くはありませんけど、こんなことで面白い・つまらない、と言っていてもしかたありませんね。『小説会議』は、この常識的な立ち位置で、文学賞――とくに直木賞と向き合い、勝手に候補にされては落とされ、頼んでもいないのに選考にかけられては選評でケナされる経験を何度も積み、しかしそれでも腐らずに刊行を重ねていきます。

 やがて、同誌の支柱ともいえる編集兼発行人、池上信一さんが、昭和45年/1970年3月4日、58歳の若さにして、勤務先の都立第四商業高校で急死。池上さんはつねづね「百号まではつづける」と宣言していたそうで、その後は息子の池上研司さんが参加、どうにか刊行を続けていきますが、昭和56年/1981年11月の第43号が、確認できる最後の号になっています。道なかばでの消滅、といったところかもしれません。

 第43号の同人は、中川童二、金川太郎、鈴木五郎、野秋達道、業中耕、松本剛、浅川竜、田島啓二郎、石井冨士弥、土門毅男、高原弘吉、池上研司、船山光太郎。……と、読んだことのない作家ばっかりすぎて、コメントもしづらいですが、創刊から25年で相当に変わったことはわかります。

 途中から伊藤さんに誘われて参加し、途中で抜けた尾崎秀樹さんは、当時の『小説会議』について、こんな回想を残しています。

「いわゆる純文学の同人誌とはちがい、いずれも社会人としての経験ゆたかな連中ばかりで、あつまっても芸術論などはあまりやらない。」(尾崎秀樹・著『歳月 尾崎秀樹の世界』「作家誕生」より)

 ただ、どうやら『小説会議』にまったく議論がなかったわけではなく、初期のころは、井口&早乙女の組と、福本&赤江の組が、相譲らずに丁々発止で議論をかわし、やがて後者のほうが同誌から離れていく、というぐらいの闘争はあったそうです。社会人としての経験がゆたかだからといって、意見の不一致がないわけがありません。そりゃそうでしょう。仲良しグループで終わらず、燃えたぎる思いを内に隠しておけずに、出会っては別れていく。同人の顔ぶれが幾度となく変転としていく『小説会議』という雑誌の、人間くさくて魅力的な点だと思います。

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