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2017年12月24日 (日)

『秋田文学』…受賞者が出て、祝福とともに微妙な空気が流れた、不思議な瞬間。

『秋田文学』(第三次)

●刊行期間:昭和32年/1957年6月~昭和56年/1981年?(24年)

●直木賞との主な関わり

  • 津田信(候補6回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第52回:昭和39年/1964年下半期)
    ※うち第52回は別の媒体に掲載した作品での候補
  • 千葉治平(候補1回→受賞 第54回:昭和40年/1965年下半期)
  • 井口恵之(候補2回 第73回:昭和50年/1975年上半期~第77回:昭和52年/1977年上半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『秋田文学』掲載作一覧

 先週は『山形文学』だったので、今週はお隣り、秋田の雑誌『秋田文学』です。

 直木賞で同人雑誌の掲載作が、そのまま対象となって受賞した例は、第157回までで14件あります。そのうち6つは『大衆文藝』の掲載作、これは半商業誌だと言えなくもありませんから、これを除けば、たったの8例。今後増えていく未来は、なかなか思い描けないので、もはやどれもレジェンド的な受賞例、と言ってしまっていいでしょう。

 そのなかのひとつが、『秋田文学』に1年余り連載された千葉治平さんの「虜愁記」です。受賞当時ですら、いったいどうしてこれが受賞したのか、同じく候補に挙がった人たち、出版関係者、一般読者を含めて、みんな理解に苦しんだという、いわくつきの受賞作です。

 千葉さんのことは、うちのブログで取り上げたこともありますが、大正10年/1921年10月に生まれ、戦後、20代のときに、すでに名をなしていた秋田出身の先達、伊藤永之介さんのもとに通って、同人誌『秋田文学』を創刊。これが「第二次」だそうですので、復刊と言うべきかもしれません。

 しかし、昭和29年/1954年ごろにいったん途絶し、あらためて創刊号と銘打って再出発をはかったのが昭和32年/1957年。千葉さんは、ここに創作「早春」を寄せていることからもうかがえるように、同誌の創作メンバーのなかで柱をなす、中心的な存在でもありました。

 当然、その同人はほとんどが秋田県在住の面々です。金沢蓁さん、雨宮正衛さん、谷川真吾さん、ほんまよしみさん……と挙げていっても、ワタクシなど、どういう方たちかまったくわかりませんが、「自分たちは、自分たちの拠って立つ土地で、新しい文学を生み出していこう」と気合の乗った人たちであることは、当時の誌面をのぞくと、おぼろげにわかります。千葉さんもまた、そのなかの一人でした。

 ところが、この状況に突如、風穴を開けてしまった異端児が登場します。東京に住みながら『秋田文学』に参加した津田信さん 、という男です。

 津田さんのハナシも、やはりうちのブログで何度も触れてきたので、またかよ、という気はします。だけど、やっぱり『秋田文学』と直木賞の話題に、この人の存在は、絶対に欠かすことができません。

 日本経済新聞社の記者だった津田さんは、第35回(昭和31年/1956年・上半期)と第37回(昭和32年/1957年・上半期)、同人雑誌『貌』に書いた小説で二度、芥川賞の候補に挙がります。〈芥川賞候補〉というのは、当時でも一部の同人雑誌関係者たちにとっては、憧れの対象、一目おかれる存在だったらしく、同じ日経の秋田支局で働いていた小国敬二郎さんに、おれのやっている同人誌に参加してみない? と誘いの声がかかります。出された条件は、同人費は免除、枚数の制限もなし、書きたいものを書いてくれればよい、というもの。……同人仲間というよりは、外部からの有力な書き手として厚待遇で招聘された、といった感じです。

 ここに参加してからのことは、津田さんがのちに長篇小説『日々に証しを』(昭和53年/1978年10月・光文社刊)に書いています。『秋田文学』の合評会に参加したときの、いきなり東京からやってきた人間に対する、同人たちのよそよそしい、だけど東京の文壇への関心を隠せない雰囲気やら、ひとりの女性同人と深い仲になり、孕ませて、降ろさせて、また孕ませての、ナマナマしいなりゆきなど、そういうことが綴られた小説です。「私小説」に強い思い入れのあった津田さんですから、いくらかは(いや、ほとんどは)事実に即した内容かもしれません。

 ともかくも、とくに直木賞や芥川賞と縁のない、かなり地味な存在だった『秋田文学』に、〈文学賞〉という、騒がしい物体が通ずることになったきっかけを、外部からの参加者、津田信さんがもたらしたことはたしかです。

 このとき、同人たちは、この状況を歓迎しました。(K)という署名の、おそらく金沢さんの手になる編集後記を見ると、こう書かれています。

「勿論、文学賞受賞やその候補になることだけがぼくらの目指す到達線ではないのだが、受賞せぬより受賞した方がいいと、これは正直に言えると思うし、同人の士気を鼓舞することになるとも言える。

よく考えてみると、「日本工作人」は未完のため、今回は、厳密には候補ではなかったかも知れぬし、してみれば、完成次第再び銓衡対象ともなり得るのではないか。それを作者と共に期待したい。」(『秋田文学』5号[昭和33年/1958年9月] 「後記」より―署名:(K))

 けっきょくその後、「日本工作人」は完結後に現代社から単行本となり、盛大な出版記念会も開かれ、期待どおりに第40回(昭和33年/1958年・下半期)の候補に推され、選考委員の小島政二郎さんひとりにやたらと推奨されたものの、他の委員にはあまりピンとこなかったのか、受賞はならず。津田さん自身は、ここから書けども書けども受賞に届く日は訪れず、そうとうヤサぐれた気分にもなり、あきらめた境地と、悔しさとを混ぜ込んだ、まあ自分だったら味わいたくはないツラい時間を経ることになって、しかし書くことはやめず、もう一度、作家として復帰することになるんですが、ほかの『秋田文学』同人にとっては、自分の雑誌から候補が出たこだけで、かなり興奮し、テンションが上がった様子です。たとえば、先の金沢さんの「後記」もそうですし、千葉さんも、津田さんの作品が直木賞候補になったり本になったりしたことで、同人たちに勇気を与えた、と振り返っています。

 べつに、文学賞に取り沙汰されようが、されまいが、気にしない人はしないわけで、というか、そんなのを気にしていると軽蔑されるのが世の習いですから、それはどっちでも構わないんですけど、津田さんのせいで文学賞の匂いを嗅がされた『秋田文学』の同人たちも、それで文学に向かう姿勢が変わった感じは、うかがえません。……うん、そりゃそうでしょう。

           ○

 『秋田文学』に津田フィーバーが吹き荒れたあとも、古くからの同人、千葉さんは、ほとんど動じませんでした。会社勤めのかたわら、同人費も(おそらく)しっかりと払い続け、原稿用紙に文字を書き連ねることをやめません。同人誌に小説を連載したって、そうそう話題に上がることもなく、きっとこのまま、自分の書きたいことをポツポツ発表していく、一素人作家で終わるか、と思われていたところ、何と千葉さんの小説が第54回(昭和40年/1965年・下半期)直木賞の候補に選出される、という展開に。その通知を受け取った千葉さんは、マジ泣きしたそうです。

 しかし、さすがに千葉さんは、受賞するとは期待しませんでした。戦後に中国の地に残された元軍人たちと、地元の中国人たちとの交流を、とくに派手な事件も起こさずに描くという、地味な題材で、一般的に直木賞に対して抱かれている「大衆文芸」のイメージとは、かなり遠いものがあります。『秋田文学』の同人たちも、津田さんの例で慣れていたためか、千葉さんが候補になっても、さして舞い上がったりはしませんでした。

 それで、これが受賞してしまうんですから、直木賞というのは、ほんとに正体をつかませない、ユニークな文学賞だ、と言うしかありません。ワタクシはいつも、こればっかり言っていますが、事実なので仕方ありません。

 そして、このあたりのことは、以前紹介した山田幸伯さんの『敵中の人――評伝・小島政二郎』(平成27年/2015年12月・白水社刊)にも出てくるんですけど、同じく候補に挙がりながら受賞をさらわれた立原正秋さんは「どこの馬の骨かも分からない奴」と吐き捨てたと言い、どう見てもこれから中間小説誌で活躍していけるとは思えない千葉さんを選んだ選考委員、小島政二郎さんや木々高太郎さんは、これがきっかけで振興会=文春から委員を降ろされた、と噂される始末。

 千葉さんの受賞を祝う『秋田文学』28号[昭和41年/1966年4月]も、異様な状況に包まれます。過去、何度も落ちてとれなかった津田信さんが、まだ同人に名を連ねていたからです。

 津田さん本人が「ああ直木賞」という、自身の落選体験をふんだんに盛り込んだ、千葉さんの受賞にショックを隠せないと正直に吐露する文章を書けば、津田さんと親しい同人、こちらも日経に勤める直枝準一郎さんも、千葉さんを祝するというより、津田さんを気づかう「通る人・立つ人」なる一文を寄せています。

「受賞した千葉君に失礼な皮肉ととられては困るが、数年前、同じ直木賞の候補作として私どもの雑誌がおくった津田信の「日本工作人」と、こんどの千葉君の作と、小説としてどれほどの懸隔があるだろうか。競合する相手の作品、審査の経緯、あるいは主宰社の狙いなど、一人の人気作家を生みだすための文学賞というものの中に潜む運的なものを、やはり見ていて思わないわけにいかないのである。」(『秋田文学』28号[昭和41年/1966年4月] 直枝準一郎「通る人・立つ人」より)

 「運」と言ってしまえばそれまでで、それ以上のことは、とくに直木賞にはない気もしますが、しかしこれほどの状態……何度も落選した同人と、一発で受賞してしまった同人の両方を抱え、間近に接することのできた同人誌は、直木賞の世界では『秋田文学』ほど鮮烈な例は他にない、と言っていいと思います。

 あるいは、それを含めて外から風を吹き込んだ津田信さんの功績かもしれません。津田さんはそんなつもりはなかったでしょうし、それが『秋田文学』のためになったか、おいそれと答えは出せませんが、「芥川賞を目指している作家はいても、直木賞を狙うような作家は僅少」とも言える同人雑誌の世界で、こうやって動揺と混乱を与える直木賞。やはりユニークな文学賞です。

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