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2017年12月17日 (日)

『山形文学』…「直木賞の候補」程度では道を踏み外さない、硬派な同人雑誌。

『山形文学』

●刊行期間:昭和31年/1956年~(61年)

●直木賞との主な関わり

  • 柴田道司(候補1回 第53回:昭和40年/1965年上半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『山形文学』掲載作一覧

 次の第158回(平成29年/2017年・下半期)は、1月16日が選考会で、候補作の発表が12月20日。と、まだ先の話でもあり、うちのブログで触れるタイミングではないんですが、とりあえず先週、直木賞界隈でとうてい無視できない事象が発生したものですから、今週はまずそこから行きます。

 12月15日、〈サイゾーウーマン〉が「セカオワ・Saori、『ふたご』直木賞ノミネート決定! 『火花』の再来狙う文藝春秋の思惑」という記事をネット配信しました。

 直木賞(と芥川賞)の候補作というのは、下半期であれば12月の上旬のうちには、日本文学振興会という名の、文藝春秋の外郭団体みたいなところが最終決定をくだします。それぞれの候補者に「候補入りを承諾するか」連絡をとったのち、報道各社にリリースが流されるのは、およそ12月の半ばごろです。ただ、振興会・報道各社・関係する候補者や担当編集者、お互いの約束ごととして、振興会の決めた発表日(今回は12月20日の、新聞朝刊、ネットであれば朝5時)までは、情報を洩らさないように、と決められているので、誰の、何という作品が候補になったのか、事前に公になることは、まずありません。

 しかし「極秘」とはいえ、日本中ですでに何百人(いや、何千人?)規模の人間は、知っています。洩れることは当然あり得るでしょう。しかも今回のように、その対象が芸能人ですと、「報じる人たちの文化」もまた文芸界隈とは違うらしく、こういうかたちで取り上げられてしまいました。公式の発表を待たずして、「(何だか知らないけど)文学賞の候補なんて、スゴい!」「直木賞おめでとう」「さすがにルールを破って、事前にリークするのはマズいのでは?」「芸能人への注目度に頼る文芸界の、哀れな末路だ」うんぬんと、いろいろな声が出はじめるという、楽しい直木賞の姿が、早くも展開されているわけです。

 この記事に書かれていることが、ほんとうに正しいのか。それは、うちのブログのテーマとは、あまり関係ないので(どうせ12月20日になれば、みんなの知ることですし)無視することにして、ここで取り上げたいハナシは別にあります。「文学賞の候補を、そもそも選考日よりも前に発表する」という慣例についてです。

 日本にある文学賞のすべてが、こうやって候補作を事前に公表するわけではありません。直木賞も芥川賞も、この制度を採りはじめたのは、だいたい戦後になってから。昭和20年代ごろには、両賞ともある程度の(ベタ記事程度の)ニュース価値をもつ存在でしたから、1月・7月になると、「予選通過作一覧」がちょくちょくと新聞に現われはじめます。

 しかし、どんな施策にも、メリットとデメリット、両面があります。「事前に候補を発表する、それが新聞で報道される」というこの直木賞・芥川賞のかたちは、多くの悲劇や喜劇(?)を生んだと伝えられ、人権を踏みにじる悪のシステムとして、両賞を批判する声が挙がることにもなりました。そこで思い出されるのが、同人雑誌からの声です。

 鹿児島で長くつづいている同人雑誌『火山地帯』に、島比呂志さんという主宰者がいましたが、猛烈に批判の声を上げたひとりが、その島さんです。

 以前も、うちのブログで触れたことがあります。選考会の前に、候補作を明らかにすることには、そこに名前の挙がった人間に、望まぬ動揺と混乱をもたらすという害が、確実にある。真摯にひたむきに文学に向き合おうとする人間に、そんな一過性の騒ぎが、益になるとはとうてい考えられない。日本文学振興会よ、候補作の事前発表をやめろ。絶対にやめたほうがいい。……といった感じの、一理も二理もある、まっとうな意見を表明しています。

 たしかに、候補が発表されてから当落が出るまでの、アノ(あるいは、いまワタクシたちが直面しようとしている)騒がしい時間は、果たして必要なんでしょうか。

 とくにこれまで、芥川賞のほうでは、川端康成さん、遠藤周作さん、池澤夏樹さんなどの選考委員が、選評で「候補が発表されてからの、あまりに騒ぎすぎる世間の風潮」に、ことあるごとに苦言を呈してきました。しかし、いまのいままで、それで報道側が委縮したり、主催者が反省して、候補発表と事前の盛り上げをなくそう、ということにはなっていません。

 ワタクシなどは、さらにその外側にいる、ただ文学賞を観戦して楽しみたいだけの、いわゆる外道というか、「悪のシステム」の保全を支える一般大衆のひとりです。島さんみたいな人に叱られると、身を縮こませるしかありませんけど、しかし、文学賞を外から見て味わうこの楽しい感覚は、どこまで害悪なんでしょうか。……当事者でない立場で、いかに「節度ある楽しみかた」ができるのか、それを考えつづけていくしかなさそうです。

 それで、このまま『火山地帯』の話題に入っていけたらいいんですが、残念なことに、この雑誌は芥川賞とは縁があっても、一度も直木賞の候補作を出したことがありません。ブログのテーマは「同人誌と直木賞」ですので、ここは泣く泣く、『火山地帯』ではない別の雑誌に目を向けたいと思います。

 ……と、本題に入るまでが長すぎて、今週もまたとっ散らかりそうな不安ばかりが募りますが、『火山地帯』の硬派なイメージにも似て、直木賞史にいくつも現われてきた同人雑誌のなかでも、とくに硬派……候補に挙がったからといって浮かれ騒がず、コツコツ自分たちの文学追求に邁進し尽くす集団、と勝手にワタクシが思っている同人雑誌が、『山形文学』です。

 一発屋ばかりを出す、出す、言われている芥川賞のなかでも、受賞してまもなく小説を書くのをやめてしまった後藤紀一さんという受賞者を、昭和38年/1963年上半期(第49回芥川賞)に送り出し、その意味では芥川賞によってパッと光の当たった感のある同人雑誌ですが、栄誉だの名誉だのを振り返らず、地道に刊行をつづけて平成23年/2011年に100号を突破、おそらく現在でも続刊中です。

 おちゃらけた気分ではとうていその小説世界に入り込めない、まじめな作品が並ぶなかで、そういうものをけっこう好む直木賞が、ついつい手を伸ばしたのは昭和40年/1965年のこと。『山形文学』が『ひろば』という名で創刊してから10年ほどの誌歴を積んだころでした。

           ○

 山形の地で昭和29年/1954年3月に創刊されたサークル文芸誌『ひろば』が、わずか1年半、6冊を刊行したところで休刊に陥ります。しかし、せっかくの執筆・発表・批評の場をこのまま消してしまってはいけないと、栖坂聖司さんや村岡勇次さんなどが話し合い、山形周辺の詩人、作家、あるいは画家などを集めて、昭和31年/1956年11月に『山形文学』と改題し、第7集を発行します。同人の数47人、うち31人が原稿を寄せたものだったそうです。

 ここを発表媒体として、新関岳雄、真壁仁、かむろたけし、小倉俊生、森岡諒、高橋菊子、李相哲、笹沢信、しん・りゅうう、有松周などなど、数多くの書き手が活動。まあワタクシは勉強不足で、ほとんどの人の作品は読んだことがありませんが、出せば『文學界』の同人雑誌評で誰かしらの作品が取り上げられる、という注目の同人誌としてひた走ります。

 すると、第18集(昭和37年/1962年11月)に発表された、後藤紀一さんの「少年の橋」が、『文學界』に気に入られ、そのまま芥川賞を受賞。

「家庭崩壊、人間破壊の原因として党(引用者注:共産党)への批判が籠められている。(引用者中略)だが、この程度の批判は、結局常識の域以上を出ていないとも言える。あるエネルギーは感じられるが、精神の高さは感じられない。その常識性が、河野氏(引用者注:同時に芥川賞を受賞した河野多恵子)の作品と同じく、これも直木賞作品的な感じを私に抱かせるのである。

「純文学の変質」が、こういうところにも現われていると言うべきだろうか。」(『小説新潮』昭和38年/1963年10月号 山本健吉「文壇クローズアップ 芥川賞の二作家」より)

 と、山本健吉さんには軽くイナされ、しかし「直木賞作品的な感じ」をいかにも低質の代名詞のように使う山本さんの、批評の限界を明らかにもしてしまっている気持ち悪い文章ではありますが、だけど、ざっくり言えば昭和なかばの、時代の限界かもしれません。

 後藤さん自身、なにしろ『山形文学』の同人です。芸術とか文学とか、そういう概念に強く引きつけられていた人とも言え、芥川賞受賞を機に、続々と原稿の注文を受け、どうにか純な文学を目指して書こうとしますが、どうにもジャーナリズムの波に乗ることができず、やがて、もうオレは小説を書かない、と言って創作からは離れてしまいました。

 その2年後、今度は第20集(昭和39年/1964年12月)に載った、柴田道司さんの「川の挿話」が、芥川賞のほうでも全然問題なかったんですけど、直木賞の純文学好きが過ぎて、第53回(昭和40年/1965年・上半期)の直木賞の候補に残ります。すると、同じく同人雑誌『作家』に発表された、藤井重夫さんの「虹」と競りに競り……、惜しくも次点にとどまって、『オール讀物』に転載されるという、純文学を志す人にとって、喜ばしいことなのかどうなのか、微妙な措置をとられたのが、昭和40年/1965年の秋のことでした。

 とりあえず、これで柴田さんと『山形文学』に注目が当たったのは間違いありません。『山形文学』の同人たち、山形文学会に昭和40年/1965年度の齋藤茂吉文化賞が贈られたのも、明らかに直木賞の候補に挙がったおかげです。柴田さんのもとにも、どうですか、原稿書きませんか、みたいな話が持ち込まれるチャンスがめぐってきました。

 ところが、ここで、ほいほいとカネになる小説の道に、足を踏み入れようとしないところが、『山形文学』同人の矜持、なんでしょうか。栖坂聖司さんは、「処世が下手」な男、と評しています。

「私は「やまがた散歩」二月号後記に、柴田道司は「寡作なうえ処世が下手で、古風に言えば、討死した」と書いた。思い出すのは、直木賞を惜しくも逸した直後、駒田信二さんから中間小説誌Gならいつでも紹介しようというお話があり、すぐそのことを伝えて遣ったのだったが、とうとうそのご好意に応えずにしまった。そして優れた無償の原稿を、本誌と「やまがた散歩」に送りつづけてきた。」(『山形文学』73集[平成12年/2000年5月] 栖坂聖司「編集後記」より)

 たしかに柴田さんは東京の商業誌で活躍することはなく、しかし「候補」として浴びかかった騒がしい注目に、惑わされずに、えんえんと同人誌に作品を発表。これが「芥川賞の候補」だったら、また違ったのかもしれませんが、少なくとも「直木賞の候補」程度では、あまり乱されなかった、やはり硬派な作家だと思います。

 ……最後、「候補が事前に発表されることの、馬鹿らしさ」みたいなことに、つなげようとも思ったんですが、うまくいきませんでした。これらの賞のまわりには、まじめにやっている人もたくさんいるようなので、「直木賞のことなんかで、そうカリカリしなくても……」とこっそり思いながら、一介の部外者として、ただ楽しんで傍観しつづけていくことにします。

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