『一座』…けっきょく無名作家で終わることを敢然と受け入れる、大人な同人たち。
『一座』
●刊行期間:昭和26年/1951年11月~昭和42年/1967年5月(16年)
●直木賞との主な関わり:
- 鬼頭恭而(候補2回 第33回:昭和30年/1955年上半期~第57回:昭和42年/1967年上半期)
※ただし第57回は別の同人誌に発表した作品
●参考リンク:『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『一座』掲載作一覧
直木賞史に出現した『一座』……というと、その主役は鬼頭恭而さんなんでしょうが、ハナシの順番からして、やはり同誌の主宰者のことから触れなきゃなりません。
森田雄蔵さんです。明治43年/1910年東京生まれ、法政大学英文科を卒業後、岩手の釜石に行ったり満洲で暮らしたりと青年期の自由な生活を謳歌しながら、終戦を迎えた外蒙古で俘虜となり、昭和22年/1947年に帰国。九段の料亭「いちまつ」を経営するかたわらで、もとより文学に対する関心が高く、『一座』と題する同人雑誌を始めたころには、40歳を超えていました。
これがまあ、当時『文學界』の同人雑誌評を受け持った山本健吉さんからは、ボロカスに言われまして、
「私が編集委員に加はつてゐる雑誌にも五十を越した社会人が何を発心したのか、暇と金が出来たせいか、小説を持込んでくるが、年だけは取つたがいつかう利口にならないと言つた俗臭の強い作品が多い。(引用者中略、注:『一座』創刊号のうち)一つ『蘇苔』(森田雄蔵)といふのを読んだが、案の定であつた。お妾小説で、所々性描写を交へ、年を取つて世間の裏だけは憶えましたと言つた大人らしい嫌らしさと、「手紙を、ふてくされて、投げ棄てると、畳の上に、気弱な短音となつて、醜く姿をさらした」といつた幼稚な文学青年的表現と混り合つてゐて滑稽でもある。
ジイドは「物を書かないといふ屈辱に堪へられないから書くのだ」といふ意味のことを言つたが、この人たちには「物を書くといふ屈辱」を教へた方がよささうである。」(『文學界』昭和27年/1952年2月号 山本健吉「同人雑誌評」より)
と、360度どこから見ても、完全なるボロカス評です。
山本健吉さんはこのとき40代半ば、同世代でしたから、オジさん世代はこんなふうに批判されてもさしてヘコまない、ということはわかっていたと思います。森田さんはまったくめげずに、ここからえんえんと、創作や同人雑誌運営に没入することになるわけです。
捨てる神あればナントヤラで、昭和29年/1954年には、『一座』に発表した「はがゆい男」が芥川賞の候補に。昭和33年/1958年、やはり『一座』に書いた「岳父書簡撰」が、久保田正文さんの目にとまり、ちょうど久保田さんが日本文芸家協会『創作代表選集』の編集委員をしていたものですから、そこに推薦されたところ、同じく編集委員だった正宗白鳥さんも大絶賛、『読売新聞』で正宗さんに激賞されるという思いがけない展開に。
昭和36年/1961年には、とにかくスキさえあれば人に推理小説を書かせようと目論んでいた江戸川乱歩さんから、とある短篇について、長篇に書き直したらいいと勧められ、森田さん悪戦苦闘、ようやく河出書房新社から『あたしが殺したのです』として上梓されると、森田さんの文芸ものを高く買っていた中島河太郎さんが、ぜひともどうぞと日本探偵作家クラブへの入会を承認。以来、同会の会員として名を連ねます。
『一座』の刊行は徐々に、年一回出せればいいぐらいに減っていき、森田さんの主戦場は、師事していた木々高太郎さん主宰の『小説と詩と評論』に移行。昭和44年/1969年に木々さんが没すると、すでに還暦近い森田さんの、同人誌に賭ける熱烈さ、東京の真ん中で料亭を経営するところから湧き出る(?)経済力、仲間たちをまとめて事業を持続させる統括力、などもろもろの理由から、『小説と詩と評論』の中心人物へと押し上げられ、これを亡くなるまで守りぬきました。
同人誌『藝文』代表の森下節さんも、この森田さんのオトナな人格(山本健吉さんに「年を取つて世間の裏だけは憶えましたと言つた大人らしい嫌らしさ」と言われた、例のアレ)には、敬服の言葉を送っています。
「同人はそれぞれが一家言を持った、一匹狼的個性の強い集団であってみれば、それを巧みにリードしながら運営して行かなければならない。へたをすれば忽ち空中分解する運命を、同人雑誌は宿命として持っている。あちら立てればこちら立たずという現実のはざ間に立って、大所帯を切り盛りしてゆくだけの能力がなければ、文学集団は永続しない。
森田雄蔵は作家としての地歩も確立したが、それと同時に人間としての人生の表裏にもたけた人物像を確立した。」(森下節・著『新・同人雑誌入門』「第三章 風土の下の地方文壇」より)
それで、昭和50年/1975年に、数多くの同人誌・同人グループが集まってできた「全国同人雑誌作家協会」(現・全作家協会)の、初代理事長に推薦されることになり、のちには会長に就任。商業誌ではほとんど名前を見ないが、同人雑誌界ではいわゆるカオ、というまぎれもない同人雑誌史の偉人として、年を重ねても書くことはやめず、平成1年/1989年『小説と詩と評論』11月号に、自身の来歴や女遍歴などを織り交ぜた「虚妄」を発表。これを置き土産のようにして平成2年/1990年に死の床に就く、という同人誌作家の鑑のような終焉を迎えました。
この「虚妄」のハイライト版、として『新潮45』平成2年/1990年2月号に掲載されたのが「文学八十年のなれの果て」。ついに文学賞をもらうことができなかった作家人生を、
「私の関係した同人誌の仲間は次々と直木賞とか芥川賞になった。ずっと後でプロ作家になった人たちを数えてみたら若い人をふくめて数十人はいた。いかに自分がおいてき堀=江戸の言葉=の人間であったかが判ったが、すべて後の祭りで、アンフェイマスオーサーという、英文学史の中の人間みたいになってしまった。」(『新潮45』平成2年/1990年2月号 森田雄蔵「文学八十年のなれの果て」より)
と総括するに至っているんですが、そのアンフェイマスオーサー仲間、と言いますか、森田さんの小説などに「K」とか「K・K」とかの名でよく出てくる、東京都庁に勤める地方役人が鬼頭恭而さんです。なぜか芥川賞ではなく直木賞の候補に二度もなった、なんとも古風で骨太な小説を書く、森田さんに負けず劣らずの無名作家です。
○
鬼頭さんは、生年は森田さんより若干あとですが、法政大学では、森田さんの一年先輩に当たるそうで、ともに文学にかぶれ、また探偵小説好き。大学の卒論では、鬼頭さんが「探偵小説概論」と題したものを提出、翌年森田さんが「探偵小説における探偵の性格について」を出した、という縁でも結ばれていました。
卒業後、お互いにそれぞれの道を歩みはじめますが、東京市に雇われることになった鬼頭さんは、同じ職場にいた梅崎春生という文学青年と親しくなります。戦後、メキメキと頭角を表わし、果ては芥川賞をすっとばして直木賞をかっさらう、爽快なことをやらかしたあの梅崎さんです。
鬼頭さんと梅崎さんはずっと交流があったらしく、法政大で卒論のテーマに探偵小説を選んだやつが二年連続いた、ということを知った梅崎さんは、その話を乱歩さんにご注進。おおっそれは! と当然、乱歩さん大喜びしまして、ちょっと一献もうけようか、と声がかかったところから、森田さんも、乱歩さんと面識を得ることになったようです。それが『あたしが殺したのです』、日本推理作家協会入会へと展開していくんですから、縁はつながるもんですね。
それはそうと、梅崎さんですが、前掲の「文学八十年のなれの果て」で森田さんが書くところによれば、梅崎さんの口癖といえば「賞を貰わにゃ損だよ」。いや、森田さんや鬼頭さんだって、文学賞、くれるもんなら喜んでもらったでしょう。二人を前に、そういうことを口走るとは、なかなかイジワルな人ですよ、梅崎さんも。
しかし森田さん、鬼頭さんとも、それこそオトナです。「賞は欲しかった、候補にまでなった、でももらえなかったオレたち無名♪」と、その件をネタにするぐらいはお手のもの、とは言えるでしょう。鬼頭さんが、川村晃さんの芥川賞受賞式に招かれたときのことを綴った「芥川賞こぼれ話」(『都政人』昭和37年/1962年10月号)などは、まさにそういう一編ですし、あるいは鬼頭さんが東京公文書館編纂室に勤めているときに『朝日新聞』東京版で大きく取り上げられた「都政・現場の顔 編集一筋 文学青年の30年」(昭和46年/1971年8月18日)でも、文学賞のハナシが出てきます。
「作家でもある。直木賞候補になった。局長になりたいとは、一度も思わなかったが、芥川賞にはあこがれ続けた。」
直木賞の候補になった、って言っているのに、あこがれ続けたのが芥川賞だと、さらりと断言されているところが、戦前からの文学青年の、ひとつの特徴かもしれません。
しかし「文学青年」とはいえ、ここで文学賞を完全悪ととらえてやみくもに拒絶したりはしません。そこがやはり、大人だなあ、と言いますか。山本健吉さんあたりには、こっぴどく唾棄されそうですけど、「賞は貰わなきゃ損だ」ぐらいの感覚で、もらえなかった自分の(屈辱に満ちた)作家人生を自嘲ぎみに語ることができる、そっちのほうが、心ふるわされます。
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