『状況』…直木賞と芥川賞の同時候補で、一気に注目を浴びた北川荘平の、矜持の会社員生活。
『状況』
●刊行期間:昭和33年/1958年6月~昭和34年/1959年?(1年?)
●直木賞との主な関わり:
- 北川荘平(候補4回 第39回:昭和33年/1958年上半期~第55回:昭和41年/1966年上半期)
※ただし第39回以外は別の同人誌に発表した作品
●参考リンク:『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『状況』掲載作一覧
朝日新聞に野波健祐さんという記者がいます。
前回第157回(平成29年/2017年・上半期)の直木賞が決まるまえ、話題のひとつは、宮内悠介さんという、直木賞と芥川賞の候補を行ったり来たりしている(させられている)作家がいよいよ受賞するんだろうか……ということでした。そこで果たして、この二つの賞にはいかなる違いがあるのか、昔はどうだったのか、今後はどうなるのか、などなど、あまりに深淵すぎて絶対に答えの出ないことが確実視されるテーマで、何か記事が書けないだろうか。そんなことを野波記者が考えた、としておきましょう。
そんな折り、直木賞の「すべて」などという、大風呂敷も甚だしいサイトの名前を見た野波さんが、ここの管理人ならきっと両賞の違いについてスッキリした見解を持っているんじゃないか、と期待したのかどうなのか、秋葉原の喫茶店で直接会ってお話しすることになったんですけど、なにしろこちらは文学に興味がありません。大衆文学と純文学の違いなんて何ひとつわかりません、わかるわけがありません、すみません、と延々と謝ることに終始。あとは、「両賞の交差」についての雑談を少しして別れました。
このときの雑談に、当然出てきたのは、柳本光晴さんの『響~小説家になる方法~』の話題です。二つの賞で同時に候補になるとかあり得るんですかねえ、昔は何人かいたようですけどねえ、みたいな話です。
同一作品で同時に候補、というのを経験した人は、これまで4人いますが、いま一般的に名前が通じるのは、柴田錬三郎さんぐらいでしょう。『響』の作中でも、芥川賞受賞者の鬼島仁が、テレビ番組での解説で、唯一、過去の例として名前を挙げているのがシバレンぐらいですから、その通じやすさは相当だとわかります。ただ、じっさいその候補作「デスマスク」は、さほど面白い小説ではありません。
小説の面白さからいって、同時候補になったのも当然だ、といまでも思えるのは、第39回(昭和33年/1958年・下半期)北川荘平「水の壁」しかない、これに尽きる。とワタクシはかねがね思っています。しかしキタガワソウヘイなどと言っても、たいがい話は通じず、言ったこちらが変人扱いされるのが関の山でした。ところが、野波記者、「水の壁」を読んでいたらしく、「あれは面白いです、絶対に復刊すべきです」と語りはじめたので、正直こちらが驚く展開に。じっさい後日、『朝日』の紙面で「古い候補作を読む」(平成29年/2017年7月21日大阪夕刊)と題する、「水の壁」礼讃の記事を書いてしまうぐらいの熱い思いに、たじろぎながらも、まさか北川荘平の話でだれかと盛り上がることができるなんて、長生きはするもんだな、と思わぬうれしさを噛みしめた夜でした。
……と、心温まる(?)思い出はそのくらいにして、北川さんの「水の壁」ですが、昭和33年/1958年に『状況』という、大阪で創刊されたばかりのチッポケな同人誌に発表されたものです。その後何号まで出たのかも判然としない、正真正銘、チッポケな雑誌です。
いったい『状況』とは何なのか。どんな経緯で創刊されたのか。北川さんの「長篇小説の鬼――小説高橋和巳」(『別冊文藝春秋』117号[昭和46年/1971年9月]、のち『孤高の鬼たち 素顔の作家』平成1年/1989年11月・文藝春秋/文春文庫に所収)に、けっこうくわしく書かれていることを知りました。
京都大学在学中に、文学を介して親しくなった高橋和巳さんが、みんな卒業して社会人になった昭和31年/1956年、同人誌『対話』の創刊を画策したそうです。参加者たちが集まって議論は白熱する、しかし雑誌がなかなか出ない。ようやく1号、2号と出るなかで、高橋さんと喧嘩したり仲直りしたり、北川さんは作品を書くこともできないまま、どうも思い描く同人誌の姿ではない気がして見切りをつけたところ、たまたま旧制大阪高校の同級生、天野政治さんから新たな同人誌の結成に誘われます。
津田考、村山兼夫、亀山英夫、開高健……と昔の同級生に声をかけて創刊準備にとりかかっていた昭和32年/1957年、ちょっとした事件が起こりました。参加予定者に名を連ねていた開高健さんが、文芸誌に作品を発表、燦然とデビューしてしまったのです。さらに年が明けて1月には、その開高さんが芥川賞を受賞。と幸先がいいというか、出鼻をくじかれたというか、なかなか衝撃を受けるような出来事に見舞われたなかで、北川さんは昼間サラリーマンとして勤めながら、はじめて本格的に小説の執筆にのめり込み、どうにか他の人の原稿も集まって、昭和33年/1958年6月、『状況』創刊号の完成までこぎつけます。
無名な仲間たちが集まって、どうにか手づくりで出した同人誌。いったいこれを誰が興味をもって読んでくれるのか、と不安は高まるばかりです。しかし、まもなく北川さんの身に、当初考えていた以上の反響と騒動と困惑が、次々と襲いかかってきます。
新潮社からは新作執筆の打診が届き、文藝春秋からは『文學界』同人雑誌優秀作への転載(7月8日発売・8月号)の連絡、7月5日の朝には『文學界』編集部から芥川賞候補内定の報せが入ったと思ったら、午後には日本文学振興会から直木賞候補への推薦のハガキが届く。『文學界』が発売され、新聞各紙で直木賞・芥川賞候補が発表されると、あちこちの文芸誌から注文がくるわ、週刊誌から取材依頼が押し寄せるわ、という状況に、
「文學界に掲載されることだけでも、処女作をやっと書いたばかりのわたしには大事件だった。そこへこの幸運のダブルパンチである。くらくらして、事態の意味がしばらくはよくわからなかった。」(北川荘平「長篇小説の鬼――小説高橋和巳」より)
との回想を残しています。
しかも「水の壁」一作が特異なのは、候補になっただけじゃなく、直木賞では最終の本選で何人もの選考委員がこれを推し、芥川賞側でもほんのちょっぴり褒められたこと。要するにほんとに惜しかった、ってところです。おそらく可能性は直木賞受賞のほうが高かったんですが、芥川賞発表号の『文藝春秋』本誌のほうに、落選したけど惜しかった候補作として、またも転載され、さらに大勢の人の手に行き渡ることに。
作品は、掛け値なしに面白いです。スポットライトが当たって、ワーキャー騒がれるのも当然でしょう。しかしここからが、また北川さんのイイところなんです。直木賞・芥川賞同時候補だ、脚光が当たって注文も殺到だ、という局面を受けて、浮かれた考えへと傾かず、ずっとサラリーマン生活を続けたことです。
○
小説を書いて売れるとなったら、職業作家になる。じゃんじゃん書いて、顔を売り、そうやって自分の求める執筆環境を獲得していく。北川さんはそういう道を選びませんでした。明らかに拒否しました。
『樹林』511号[平成19年/2007年8月]に載った、さまざまな人の追悼文を読んでもやはり、会社勤めをやめなかったことで、苦しい道のりがあったことがうかがえます。なかで福田紀一さんの紹介するエピソードをひとつだけ、引用させてもらいます。
「一九六一年出版した作品集『企業の伝説』に収められた『マンモス・タンク』は一九五九年雑誌『新潮』に発表されたもので、これが作家でありながらサラリーマン生活をしている在り方を大きく狂わせた。内容が彼の勤めている会社の内部を扱っているとして会社の上層部から忌避されたのだ。旧制高校、大学の学部といい、この大企業ではエリート中のエリートでとんとん拍子の出世が約束されているとまわりから思われていたのに、干されてしまったのだ。それがどんなにつらいことか、勤めを持ちながら小説を書くという作業をしている人間なら誰にでもわかるだろう。後から入社した社員が自分を追い越して上司になっていく。たらい回しにされる屈辱に耐えねばならなかった。(引用者中略)北川は会社を辞めなかったし、彼の小説のモチーヴともいうべき組織と人間の在り方を追求する姿勢は微動もしなかった。」(『樹林』511号[平成19年/2007年8月] 福田紀一「北川荘平・小説の鬼」より)
意地、といえば意地かもしれません。注目に応じてたくさん原稿を生み出せる、そういう能力に欠けていた、という事情もなかったわけじゃないでしょう。
だけど、そうやって会社に疎まれるまえから、北川さんには、集団や組織のなかで苦しい立場に置かれたときに、そこからすぐに抜け出したりしない(できない)事情を抱えた個人の、やるせない、悲しい、でも共感できる矜持の心理を突き詰めたところに、自分の追い求める文学がある、と考えていたフシがあります。処女作の「水の壁」からして、もう明らかに、そういう世界です。
そもそもが、いきなりの処女作で直木賞と芥川賞の同時候補、作家デビューを目指す人たちから羨望されるほどに、ジャーナリズムの注目を浴びたところから、自らの信念に照らして、売文業には転じない生き方を選び、何十年も苦しい立場で仕事をつづけ、単行本にまとまった作品はほんの数冊、だけどそれが何だっていうんだ……という状況そのものが、どうにも北川作品に重なって見えてしまいます。たまりませんね。
ちなみに「水の壁」の載った『状況』創刊号を、各所に送った直後のある日、北川さんはこんな文章を日記に書きつけたと言います。
「……何処からも反応はない。毎日、誰からか手紙来ぬかと待っているが来ない。ある作品の最も熱烈な愛読者は、やはり作者その人らしい」(前掲「長篇小説の鬼――小説高橋和巳」より)
それから60年弱たって、いまだに、この作品面白いですよね、面白いですよ、と秋葉原の喫茶店でイイ年したおじさん二人が語り合えてしまうんですから、やっぱり北川荘平(との作品)、ただもんじゃありません。間違いありません。
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コメント
山陰文藝は46号(年2回)まで発行。その会長が池野誠さんですが、「池野会長を囲む会」の案内を昨日受け、松江に居た当時お世話になりましたが、今は京都宇治の住まい。行けないけれども思い出を書かせていただこうと、文芸に関わってきた過去を振り返り、大阪文校時代にチューターの北川荘平さんにいろいろ小説作法を教えていただいたことがあり、その資料をあさっていましたらこのブログに出会いました。北川さんを取り上げられた内容は最近はありませんでしたから驚きです。そして内容を読ませていただきお酒の席の北川さんを偲びました。二〇〇六年に高橋一清さんの働きかけで松江に車谷長吉さんと伴侶の順子さんが見え、お話を聞く機会がありました。「虚実皮膜の間」について長吉さんがいろいろなことを言いましたから、その時のことと合わせて私が考えることとなった文章表現の上での感化された人々が間近に取り上げられているこの状態は、新聞や他のSNSには及ばない大事と感じ入り書かせていただきました。
しばらく読まさせていただきます。
投稿: アダチマナブ | 2017年11月21日 (火) 05時45分
アダチマナブ様
ご丁寧なコメント、ありがとうございます。
直接その作家に会ったわけでもない一介の素人が、
だらだら駄文を書き連ねているだけのブログなもので、
ほんと恐縮です。
投稿: P.L.B. | 2017年11月22日 (水) 00時27分