『外語文学』…直木賞なんてものは、酒のサカナにしかならない、とわかっている同人たち。
『外語文学』
●刊行期間:昭和40年/1965年6月~平成1年/1989年11月(34年)
●直木賞との主な関わり:
昭和40年代、全国に同人誌は何百とありました。そこの掲載作が直木賞の候補に選ばれるのは、よほどのことと言っていいでしょうけど、さらに一つの同人誌から違う二人の作品が、予選を通過するのは、これは並の「よほど」を上まわるハイレベルな「よほど」のことで、しかしそれを成し遂げてなお、全貌のよくつかめない雑誌が『外語文学』です。
全貌がつかめない、などと言いながら、大して調査を進めてこなかった怠惰なおのれを呪うしかありませんが、以前、『外語文学』の三樹青生さんのことを取り上げたことがあり、もうほとんど、そのときのネタを使い回して終わりそうな気がします。なので、「直木賞史に登場する同人誌」のことを知るにはもってこいの(はずの)、『文學界』同人雑誌評を、まずは利用させてもらうことにします。
『外語文学』は昭和40年/1965年に創刊、中心的な同人のひとり、評論家の原田統吉さんが亡くなって、その追悼的な文章をおさめた第21号(平成1年/1989年11月)まで確認できています。21冊、というのはけっして多い号数じゃありませんが、同人雑誌評、各月のベストファイブに掲載作が選ばれること6度。うち1度は、同人雑誌推薦作として『文學界』への転載を果たすという、かなりの好成績です。
とくに、「首」(創刊号)と「股嚢(ルビ:またぶくろ)」(6号)の2度、ベストファイブに挙げられたほか、いくつかの機会に雑誌評で触れられたのが森葉児さん。ん? 何となくこの名前、見たことがあるな、と思ったら、始まったころのオール讀物新人賞(当時はオール新人杯)に何度か最終候補にのぼり、第4回(昭和29年/1954年)で佳作、第8回(昭和31年/1956年)で寺内大吉さんといっしょに受賞をした方だそうです。
『経済往来』昭和45年/1970年6月号に載っている略歴によれば、大正7年/1918年生まれ、本籍は福島県いわき市、大阪外語大学フランス語部卒業、本名、高木敏夫。……ということで、大阪外語大出身であるところから、『外語文学』に参加した模様なんですが、それこそ寺内大吉さんといえば、オール新人杯をとったあとに、同人誌をつくり、商業誌じゃなくそっちに書いた小説で直木賞を受賞してしまった人でもあります。そういうかたちでの、直木賞との関わり方も、そこまで珍しい路線ではなかったんでしょう。
じっさい、森さんの小説が直木賞の候補になる可能性だって、なくはなかったと思います。なかでも「股嚢」は、評者の小松伸六さんから、
「大型新人の作品といえそうである。その博識と反語精神は花田清輝、大才ぶりは初期の司馬遼太郎をおもわすが、この作品は、コロンブスの巨根伝説にからめて、イスパニア王室のアメリカ探検を風刺しているような異色作なので、私にはちょっと鑑定しかねるところがある。コロンブス=ユダヤ人説、ドン・キホーテのモデルはコロンブス、股嚢の風俗史考と巨根伝説など、エッセイとしておもしろい。」(『文學界』昭和45年/1970年2月号 小松伸六「同人雑誌評 学園紛争のあとから」より)
と、おそらく賛辞かと思われる評がつき、たしかに面白そうな作品だな、と思われるんですけど、なかなか手軽に読める状況でもないので、残念ながらワタクシは未読です。直木賞の候補になっていればなあ、どうであっても優先して読んだだろうに、と考えるとこのまま見過ごすのも癪なので、どうにかして読んでみたいと思います。
それで現実に、『外語文学』から出た最初の直木賞候補作は、森葉児さんをさしおいて、次の第7号に載った三樹青生さん「終曲」でした。
こちらもやはり、その月のベストファイブにすんなり入るほどの大好評作。たいていの作品に厳しい評を連ねる駒田信二さんが、これは相当に褒めちぎります。
「今月、私が最も感銘を受けた作品は、『外語文学』(七号・東京)の三樹青生の「終曲」であった。(引用者中略)四〇〇枚になんなんとする長い話を一気に読ませるこの作者の、ストーリー・テラーとしての力量には瞠目すべきものがある。傲慢で奔放な天才的なピアニストの、これはなれの果ての物語ともいえなくはないが、そこに作者が一種の共鳴音を響かせていることが、この作品の最もすぐれている点であろう。その共鳴音を読者が聞くことのできることが。」(『文學界』昭和45年/1970年11月号 駒田信二「同人雑誌評 現代の憂欝と孤独」より)
これはその後に直木賞の候補にまで残り、単行本が古本屋で容易に入手できたので、ワタクシも読みました。おっしゃるとおりのサスペンスフル、あるいは読みやすさが光り、音楽家を志望しながら、でもなり切れなかった語り手の、天才ピアニストに対する複雑な心理が揺れ動くさまに、ゾワゾワさせられます。
候補になるぐらいなので、べつにこれが直木賞をとってもよかったと思いますが、この回は、武田八洲満「紀伊国屋文左衛門」もあれば、豊田穣『長良川』、梅本育子『時雨のあと』、あるいは広瀬正『マイナス・ゼロ』と、同人誌に載ったものが注目されて本になったという、同人誌上がりの作品が、バラエティ豊かに並んでいて、そのうち最も重厚で、古風なナリをした『長良川』に、いちばん票が集まったというのは、「昔ながら」のものに共感を示す直木賞っぽい展開で、それはそれで、べつに文句を言う気はありません。
○
三樹さんが直木賞候補になったときの、『外語文学』同人たちの反応は、以前も取り上げたおぼえがあります。
候補になったのは喜ばしいが、そんなことで目の色を変えたり有頂天になったりするような、尻の青い連中は同人のなかにはいない、どっちにしたってとれっこないんだから、それをダシにして三樹に奢ってもらって、みんなで飲もう、と集まったうんぬんと、およそ50歳を超えた男所帯の同人仲間ですから、それで一杯やってさあまた明日から生きていこうぜ、という、なかなか共感できる状況だったようです。
『外語文学』というのは、そもそもが、戦前に大阪外語大の文芸部で同人誌をつくっていた仲間たちを中心に、みながオッサンになっていろいろゆとりと余裕もできてきたなかで、もう一回、みんなでやってみようぜ、というところから発足したそうです。いまでは、文芸の同人誌というと、高齢者が余生にやるもの、と相場が決まっていますが(……ってことはないか)、風合いとしてはそれに近い雑誌だったかもしれません。
『諸君!』昭和52年/1977年5月号に、原田統吉さんがグラビアで紹介されているページがあり、そこに『外語文学』同人たち7人が集まってお話ししている写真が出ているんですが、禿げ上がった姿もちらほらあり、およそネクタイ・スーツ姿のおじさんたちが、オフィスの会議室(原田さんが役員となっている東和通商の一室だそうです)で本を広げて談笑する姿は、「直木賞? 騒ぎたがる連中の気持ちもわからんでもないが、我々には関係ないね、フハハハハ」とでも言っていそうです。一種、余裕の空気を感じます。
同人誌が「文壇第二軍」などと揶揄されたり、やっている人たちもそういう意識を持たされたりした時代があった、と聞きますが、おそらくその状況は、昭和20年代から昭和30年代あたりがピークだったかもしれません。その同人たちが年をとるうち、世の中で認められるとか、出版社から声がかかってプロ作家になるといったことへの興味は薄れ、書くことと考えることの興味を失わなかった人たちが、同人誌という仕組みのなかで引き続き営為を積み重ねていく……というのが、昭和40年代から徐々に文芸同人誌の主流になっていったものでしょう。
『外語文学』は、ちょうどその時期に出てきた、ひとつの代表的な雑誌かと思います。
あるいは、先に挙げた森葉児さんなどは、同人のなかでも「作家」の肩書きをもつ稀有な存在だったので、この雑誌を機にもっと書く場所を広げたい、と思っていたかもしれませんが、それは何ともわかりません。いずれにせよ、『外語文学』はそういう性格の雑誌にはなりませんでした。
ということで、評論家、翻訳家などはいても、のちに文学の方面で有名になった同人がいるわけじゃなし、いまさら外から見ていても全貌のつかめない雑誌、となってしまったわけで、もうひとりの直木賞候補者、小山史夫さん、本名・吉田利八さんの詳細も現状よくわかりません。ご存じのかたがいましたら、ぜひご一報を。
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