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2017年9月の4件の記事

2017年9月24日 (日)

『新文学』…文学賞の候補になって騒がれても、舞い上がったりせず澄ました顔、の土壌。

『新文学』

●刊行期間:昭和38年/1963年8月~昭和54年/1979年7月(16年)

●直木賞との主な関わり

  • 田中ひな子(候補1回 第55回:昭和41年/1966年上半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『新文学』掲載作一覧

 創作なんてものはな、学校で学べるようなものじゃないぞ……といった感覚は、いまではもう時代遅れな、口にするだけで変人扱いされる類いのものだと思いますが、おそらくカルチャーセンターというものが世間的に認知されだす1970年代後半から80年代まで、昭和29年/1954年創設の大阪文学学校は、「わざわざカネ払って小説の書き方を学んだって、書けねえやつは書けねえよ」などと、さんざん言われ倒してきたことでしょう。

 創設から9年後の昭和38年/1963年、松田伊三郎さんいわく「一つの大きな転換点にさしかかっていた」(『新日本文学』昭和53年/1978年10月号「大阪文学学校の現在」)年に当たるそうで、学校事務局が独立した事務所を借りて移転、本科を半年制から一年制に変え、昼間部、通信教育部を新設するなど、なかなか大きなチャレンジに足を踏み出しますが、機関誌として出されていた『大阪文学学校』とは別に、活版の『新文学』を創刊したのも、そのひとつです。

 この雑誌はやがて、昭和40年/1965年4月号から月刊となり、昭和54年/1979年に『文学学校』、昭和59年/1984年に『樹林』と、誌名を変えながら号数を継承して生き残り、いまもなお600号を超えて、学校の「顔」として刊行されつづけている、というモンスター級の「同人雑誌」なわけですが、ここに載った在学生やら卒業生やらの創作が、芥川賞の候補に選ばれたケースは、3回あります。

 第63回(昭和45年/1970年・上半期)奥野忠昭さんの「空騒」(『新文学』63号)、第85回(昭和56年/1981年・上半期)上田真澄さんの「真澄のツー」(『文学学校』増刊〈アロトリオス〉)、第121回(平成11年/1999年・上半期)玄月さんの「おっぱい」(『樹林』406号)です。

 しかし、『樹林』からさかのぼる『文学学校』『新文学』の長い歴史のなかで、おそらくここに載せたからと言って瞬時に何かが起こるとか、書き手からして期待していないかのようなこの舞台から、芥川賞よりも先に、まず候補作をつかみ取ってしまったのが、そう、われらが直木賞。第54回(昭和40年/1965年・下半期)に、よりによって同人雑誌作家2人に受賞させて直木賞界隈をドッチラケさせてから日も浅い第55回のことでした。

 このとき候補になった田中ひな子さんは、一回候補になって一回落ちたぐらいで、とやかく騒ぐような人ではなかったらしく、……というか、身近に直木賞候補のベテラン、北川荘平さんもいたという、候補者として恵まれた(?)環境にあったからでしょうか、直木賞候補のことをクドクドと語ったりはしません。

 あるいは、田中さんは「文学学校と私」のエッセイで、こう書いています。

「話しても話しても話しても、なお話したりぬ対話の場を、文学々校は提供してくれたように思う。(引用者中略)対話の中から、いくら議論してみても作品で示さねば、という考え方――というよりは実感――がひきおこされていった。私はいま、自分の作品評にムキになることが少なくなったように思う。いくらか客観的に受けとめられるゆとりができたのかもしれない。どう注釈づけても書いたものは変らないという認識、何といわれようと書かずにはいられないという一種の図太さみたいなものを、私なりに体得してきたのであろうか。」(『新文学』昭和44年/1969年7月号 田中ひな子「繊細さと図太さと」より)

 候補になった「善意通訳」(『新文学』16号)にも垣間見えていた、何ゴトが起きても暗く落ち込んだりしない、むしろ前向きに立ち向かう図太さは、田中さんの生来のものでもあるでしょうが、文学学校に通って体験した数おおくの議論が、さらに田中さんの強みとなって文章の端々に現われている、のかもしれませんね。

 この第55回の直木賞というのは、大阪文学学校の雑誌からはじめて候補を取り上げただけに終わらず、この学校でチューター(指導支援役)を務める北川荘平さんの作品もいっしょに候補に選び、北川さんと田中さんは、『VIKING』の先輩後輩、あるいは編集長と同人、でもありますから、結果次第では「後輩に一気に先を越された先輩作家の悲哀」とか、「講師役が卒業生に文学賞で負けた! 文学学校の悲惨!」などと、ゴシップ好き野次馬たちの心に火をつける可能性もあって、文藝春秋もなかなか鬼畜な企みを仕掛けてくるよな、という回だったんですが、二人とも、選考日までさんざんマスコミの取材攻撃を受けて辟易したぐらいで終わり、直木賞は、いわゆる商業誌にいるプロ作家へと流れていきました。

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2017年9月17日 (日)

『層』…刊行中は直木賞も芥川賞も受賞しなかったけど、あとからじわじわ効いてくる。

『層』

●刊行期間:昭和40年/1965年11月~昭和45年/1970年9月(5年)

●直木賞との主な関わり

  • 井出孫六(候補1回→受賞 第55回~第72回:昭和41年/1966年上半期~昭和49年/1974年下半期)
    ※ただし第72回は単行本

※直木賞を受賞した同人:

  • 色川武大(候補1回→受賞 第77回~第79回:昭和52年/1977年上半期~昭和53年/1978年上半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『層』掲載作一覧

 同人誌と直木賞の関連史を見通したとき、やはり第54回(昭和40年/1965年下半期)を境として、前半と後半に分けられると思います。

 その後半部分、要するに同人誌と直木賞の両者が、徐々に離れていって疎遠になっていく時間のなかで、ひょっこり登場するやいなや一躍(?)有力同人誌の座にのぼりつめ、にもかかわらず、たった10号で潔く幕を下ろしてしまったのが、『層』です。

 『層』というのは刊行中、直木賞にも芥川賞にも候補者を出し、しかし受賞者はひとりも送り出せず、あるいは小田三月さんやら武田文章さんやら室生朝子さんやら、作家の二世たちが何人か参加していたことで知られ……ているのかどうなのか、微妙なところではありますけど、少なくとも中心にいたのが夏堀正元さんであることは、間違いありません。

 昭和27年/1952年ごろ、夏堀さんは親しい付き合いのあった藤原審爾さんから、ひとりの男を紹介されます。これが当時20代前半だった色川武大さん。ウマが合ったか、夏堀・色川の二人の仲はどんどん接近し、いっときは色川さんが夏堀夫妻の家に転がり込んで、ほとんど同居の態で暮らしていたそうですが、色川さんの文学的才能を買った夏堀さんは、知り合いだった中央公論社の笹原金次郎さんに色川さんを引き合わせ、締め切りは守れないかもしれないがきっと傑作を書く男だからと、公募のはずの中央公論新人賞で、下読みの一次選考をすっ飛ばし、編集部での最終選考に入れ込んでくれと、コンプライアンス的に大いに問題のあるルートを依頼。これが、色川さんの作家デビューにつながるんですから、まあ炎上しなくてよかったですね、という感じです。

 しかし二作目以降、目に見えてスランプ状態に陥った色川さんは、夏堀さんに二人だけで同人誌をやろうと言い出します。夏堀さんも、その気になって準備に動きますが、やはり締め切りの守れない色川さんは、いつまで待っても原稿ができず。うかうかしているうちに、夏堀さんの中央公論の担当編集者だった井出孫六さんが、おれも仲間に入れてくれと割り込んできて、じゃあみんなでやるかと夏堀さん、方向転換をはかり、昭和40年/1965年に『層』創刊号ができあがりました。

 柱はどう見ても、色川さんだったはずですが、ここでいきなり注目を浴びてしまったのが、小説なんか初めて書いたんだよ、という井出さんです。創刊号に載った「非英雄伝」が、『文學界』の同人雑誌評でも取り上げられるわ、直木賞の候補に選ばれるわ、とちょっとした井出バブルが起こります(……起きてないか)。

 候補になったけど、このときはさらりと落選しまして、井出さん打ちひしがれたのか。といえば、そんなことはなく、花田清輝さんとの交友記のなかで、

「花田さんは、その後私が同人雑誌に書いた小説を送るたび、読後感をハガキにしたためて寄せてくれた。いつかそのひとつが直木賞候補にあげられ、みごと選にもれたとき、「君の文章は、絶対に賞の対象にはならぬものだ。それを名誉のことと思え」との趣旨をハガキをくださった。私はなんとなく嬉しくなり、以来その趣旨を拳々服膺してきたのだが、今回私は、はからずも直木賞を授かることとなった。」(『群像』昭和50年/1975年4月号 井出孫六「花田清輝流の取材」より)

 と回想。あははは花田清輝といえども、さすがにおれが賞に選ばれることまでは見通せなかったか……なんて勝ち誇ったりはせず、受賞したということは、おれの文章が変わってしまった証しなのか、花田さんにスマない気がする、と良識のあるところを見せています。

 それはそれとして、井出さんは『層』の参加者のなかでも、あまり同人雑誌の経験のなかった人、と言っていいようです。それだけに、同人誌の群衆に置かれると、どこか新鮮な作風であり文章であると見なされ、だからこそ直木賞候補に選ばれる道に通じていたのかも、と思いますけど、その井出さんが、『層』について綴ったエッセイがあります。『小説CLUB』昭和51年/1976年7月号の「同人雑誌という道場」です。

 同人誌に集う人たちの、その真剣な批評のやり合いに、ドギモを抜かれた、と語っています。

「同人雑誌の鬼ともいうべきヴェテラン大森光章さんの参加は、たぶん三号の頃だったろうか。ぼくは三号に「太陽の葬送」という作品を載せてもらったのだが、合評の席上、大森さんから痛烈な批評をたまわったのをおぼえている。大上段からふりおろされた大森さんの剣が、いきなりぼくのメンをとらえたのであった。うまれて二度目に書いた作品であるから、まるでぼくの腰は定まらず、ヴェテランの剣をどう避けるかもわからず、丸腰で名人に立ち向かったようなものであったから、大森さんの一戟でぼくはたちまち脳震とうを起こしてひっくり返ってしまったようなていたらくであった。」(『小説CLUB』昭和51年/1976年7月号 井出孫六「同人雑誌という道場」より)

 『たそがれの挽歌』(平成18年/2006年5月・菁柿堂刊)とかで垣間見せる大森さんの、太刀筋のするどさが、いかにも想像できるような回想で、たしかに、そそくさと逃げ出しくなる雰囲気ですね、これは。

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2017年9月10日 (日)

『下界』…商業誌じゃなく、あえて、あえて同人誌をつくったつもりが、直木賞の餌食に。

『下界』

●刊行期間:昭和29年/1954年5月~昭和45年/1970年5月(16年)

●直木賞との主な関わり

  • 草川俊(候補3回 第39回~第51回:昭和33年/1958年上半期~昭和39年/1964年上半期)
    ※ただし第39回以外は別のところで発表した作品

※直木賞を受賞した同人:

  • 榛葉英治(受賞 第39回:昭和33年/1958年上半期)
  • 渡辺喜恵子(受賞 第41回:昭和34年/1959年上半期)
  • 杉森久英(候補1回→受賞 第42回~第47回:昭和35年/1960年下半期~昭和37年/1962年上半期)
  • 和田芳恵(候補2回→受賞 第27回~第50回:昭和27年/1952年上半期~昭和38年/1963年下半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『下界』掲載作一覧

 文壇の人たちから愛され、また文壇を愛した文芸編集者、和田芳恵さんは、どうにも儲からない雑誌をつくったり、とても儲かるわけもない小説を書いたりしました。それでもめげず、ひたむきに打ち込むけなげな姿勢が、さらに周囲の人に好感を抱かせる一因となったものと思います。

 大地書房で『日本小説』を編集、しかし小出版社の悲しさか、はてまた読者の好みを誌面に反映する才に欠けていたのか、よくわかりませんが、けっきょく志半ばで廃刊に。借金を抱えて、かなり精神的に傷を負ったはずのところ、そんなことで沈み込まないタフな和田さんは、またいっちょ、雑誌をつくってやろうかと意欲を燃やしていたそうです。

 その雑誌の名前が『下界』。武田麟太郎さんの小説『下界の眺め』の題名を気に入っていた和田さんが、そこから拝借したものだということです。

 発刊に関わった竹内良夫さんが回想しています。

「この雑誌(引用者注:『日本小説』)がつぶれると、(引用者注:和田芳恵は)小説上手なのに未だ書こうとせず、さらに雑誌発刊をたくらんでいた。「下界」という名前が気に入って、資金調達に奔走していた頃、私はかなり和田と親しくなり、

「和田さん、その下界という雑誌を同人誌にして、和田さんも書きなさい。それが一番よろしい」

ともちかけた。(引用者中略)

「うん、しかしこれは営業雑誌にして出したいからな」

「和田さんは小説の名人と皆さん言ってる。雑誌を出すよりも小説を書きなさい、それが一番いいんだ」

私は若くて気が早くて、和田が迷っているうちに、ついに同人誌「下界」発刊を急ピッチに他の連中とも相談して、出す運びにしてしまった。」(昭和54年/1979年4月・講談社刊 竹内良夫・著『文壇資料 春の日の會』より)

 いっぽう和田さんが回想しているところでは、『日本小説』がつぶれたあとに、同人誌を出そうと話し合っていた「下界の会」という集まりがあり、海音寺潮五郎さんの家に行ったり、「文学論争」と呼ばれる殴り合いをしたり、いいオジさんたちが、たぎる情熱を発散していたような会があって、その「下界の会」は「波の会」へと変わりながら、野村尚吾、杉森久英、榛葉英治、八木義徳野口冨士男、進藤純孝などの面々との、親睦がつづいてきた、と言っています。

 ともかくも、発足からしてセミプロ文学者たちがウジャウジャと蠢くなかで出てきた同人誌『下界』。昭和20年代から30年代は、こういう同人誌も続々と生まれました。

 すると、中年にさしかかった売文ライターたちの、文学に賭けたいという強い思いを受け止めようとした直木賞が、プロの読み物作家、あるいは無名の素人作家などに紛れ込ませるかたちで、彼らの作品も候補のなかにぶち込むことになりまして、鮮やかというか渾沌としたというか、どうにも整理のつかないムチャクチャな状況が、直木賞のなかに展開することになります。

 そのなかで、とくに『下界』のメンバーが直木賞の場に召喚されたのは、やはり選考委員の海音寺潮五郎さんの存在が、大きかったことでしょう。『下界』がつくられるに当たっても、それはいいことだと、ポンと援助資金を提供。普段から、いっしょに同人たちと語らったりしていたことが、彼らを光の当たるところに押し上げたい、という気持ちに直結するだろうことは、容易に想像ができます。

 まあ、現に榛葉英治さんの書下ろし小説『赤い雪』の版元を、海音寺さんが紹介してあげたりしていたそうですし。……ってことは、前にもうちのブログで触れましたね。

 文筆歴は古いけど、いまいちパッとしない書き手が、同人雑誌で改めて修業に励むうちに、直木賞の威光の恩恵を受けて、ひとり、またひとりと表舞台へと上げられていく。苦労が実ってよかったですね。と、つい言いたいところではあります。だけど、単純に「よかった」と言って終わってしまっていいのか。ここが、同人誌という多面的な性質をもった存在をとらえるときの、難しいところに違いありません。

 『下界』にしてもそうです。結果的に、同人から直木賞の受賞者が次々と生まれましたけど、いや、そもそもそういうために発刊した雑誌じゃなかったでしょ? と疑義を投げかける人もいました。池田岬さんです。

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2017年9月 3日 (日)

『文学61』…流行作家になりたい? 同人雑誌ってそういうもんじゃないでしょ。と金子明彦は言う。

『文学61』

●刊行期間:昭和37年/1962年~昭和39年/1964年(2年)?

●直木賞との主な関わり

  • 金子明彦(候補1回 第47回:昭和37年/1962年上半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『文学61』掲載作一覧

 金子明彦さんという人がいました。

 もちろんワタクシは会ったこともなく、直木賞候補作一覧のなかに出てくる、「格子の外」の作者、という程度の知識しかないんですが、残されたエッセイや文章のいくつかを拾い読みするうち、浮き世の栄華に背を向けた反骨の人、という側面がかなりあった俄然興味のわく人物だと知りました。その金子さんが、(おそらく)中心となって大阪で創刊された同人誌が、『文学61』です。

 創刊号は昭和37年/1962年4月10日発行。巻末に28人の同人氏名が掲載され、そのうち小川悟、重本利一、芝弘、加藤あき、脇田澄子、金子明彦の6人が「編集委員」となっています。発行所は、大阪市住吉区長居町東六丁目Cノ三八六号金子明彦方 文学61の会、です。

 この号には、創作として金子さんの「格子の外」のほか、加藤あき「悪意」、詩は竹信恵「海鳴」、評論・批評に重本利一「海外文学の展望 《形而上学派》の再認識」、中川喜久雄「小林秀雄私語」、小川悟「批評を歪曲するもの」、随筆に芝弘「国語問題考」、脇田澄子「団地の学校」、大島加代子「うららかな日に」が寄せられていて、執筆者紹介によれば、金子・重本・竹信・小川・芝・加藤の諸氏はみな関西大学の出身(中退も含む)ということになっています。どういうことでつながった仲間でしょうか。よくわかりません。

 金子さんはそれ以前から文筆歴があったらしく、戦中の15歳ごろには句作をはじめ、戦後、日野草城の『太陽系』、あるいは下村槐太の『金剛』に拠り、自身では林田紀音夫さんと同人誌『嶺』を発行したりしています。いっぽうでは、

「私が小説を書いたのは学生時代からのことで、小説や評論や詩を書く友人ばかりの中で、やむなく書きはじめていただけのこと(引用者後略)(『十七音詩』66号[昭和57年/1982年1月] 金子明彦「誤伝」より)

 との回想もあるように、句作と並行するかたちで小説もぼちぼち書いていたそうです。金子さんの『十七音詩』に参加していた北条沖也さんはこう書きます。

「金子明彦は切支丹弾圧を主題とする小説をはじめから書いたのではなく、はじめは日本の植民地時代の朝鮮の民族解放闘争を主題とする小説を書いていた。私はそのころの金子明彦とは会うこともなく、文通もなく没交渉であったが、金子明彦が小説を書く一作ごとに評判になったので、よくわかった。そうだ。彼の小説が発表されるごとにその同人雑誌は、新聞・雑誌の批評欄で激賞されるのが常であった。(引用者中略)

昭和三十六年の暮だったか、明彦の小説が直木賞候補にあげられているのを新聞で見て、私は驚いた。しかし驚くことではなかったのである。彼の小説はそのたびごとに朝日新聞や毎日新聞の批評欄で激賞されていたのである。」(『十七音詩』48号[昭和53年/1978年1月] 北条沖也「金子明彦覚え書ノオト(一)」より)

 その激賞された数々の小説が、いったい何というどこに載った作品なのか、いまではもはや、パッと調べることのできないのが、もう悲しさ満点なところで、なかに金達寿さんが褒めた「北漢山の雪」という小説もあるみたいなんですけど、人が褒めたことはわかっても、どこで読めばいいのかわかりません。つらいです。

 「激賞」と言えるかどうかは、賛否があるでしょうが、同人誌に書かれた金子さんの小説が、たとえば『文學界』の同人雑誌評でいくつか取り上げられたことはほんとうで、「長袴抄」(『黄土』創刊号[昭和29年/1954年12月])、それから、のちに直木賞候補に選ばれる「格子の外」はベスト5のひとつに選ばれていたりしますし、「天涯」(『文学61』3号[昭和38年/1963年11月])も、やはりベスト5の一作に選出。

 その1960年代の前半、金子さんが林田紀音夫、堀葦男の両氏とはじめた『十七音詩』もまだ続いていたそうですけど、小説でもチラリと光が当てられた時期にあたります。金子さん自身も、小説執筆の意欲は十分にあったらしいです。

 しかし昭和43年/1968年、この状況が突如、変わります。金子さん、イヤになっちゃって、小説の筆を折ってしまいました。

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