『新文学』…文学賞の候補になって騒がれても、舞い上がったりせず澄ました顔、の土壌。
『新文学』
●刊行期間:昭和38年/1963年8月~昭和54年/1979年7月(16年)
●直木賞との主な関わり:
- 田中ひな子(候補1回 第55回:昭和41年/1966年上半期)
●参考リンク:『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『新文学』掲載作一覧
創作なんてものはな、学校で学べるようなものじゃないぞ……といった感覚は、いまではもう時代遅れな、口にするだけで変人扱いされる類いのものだと思いますが、おそらくカルチャーセンターというものが世間的に認知されだす1970年代後半から80年代まで、昭和29年/1954年創設の大阪文学学校は、「わざわざカネ払って小説の書き方を学んだって、書けねえやつは書けねえよ」などと、さんざん言われ倒してきたことでしょう。
創設から9年後の昭和38年/1963年、松田伊三郎さんいわく「一つの大きな転換点にさしかかっていた」(『新日本文学』昭和53年/1978年10月号「大阪文学学校の現在」)年に当たるそうで、学校事務局が独立した事務所を借りて移転、本科を半年制から一年制に変え、昼間部、通信教育部を新設するなど、なかなか大きなチャレンジに足を踏み出しますが、機関誌として出されていた『大阪文学学校』とは別に、活版の『新文学』を創刊したのも、そのひとつです。
この雑誌はやがて、昭和40年/1965年4月号から月刊となり、昭和54年/1979年に『文学学校』、昭和59年/1984年に『樹林』と、誌名を変えながら号数を継承して生き残り、いまもなお600号を超えて、学校の「顔」として刊行されつづけている、というモンスター級の「同人雑誌」なわけですが、ここに載った在学生やら卒業生やらの創作が、芥川賞の候補に選ばれたケースは、3回あります。
第63回(昭和45年/1970年・上半期)奥野忠昭さんの「空騒」(『新文学』63号)、第85回(昭和56年/1981年・上半期)上田真澄さんの「真澄のツー」(『文学学校』増刊〈アロトリオス〉)、第121回(平成11年/1999年・上半期)玄月さんの「おっぱい」(『樹林』406号)です。
しかし、『樹林』からさかのぼる『文学学校』『新文学』の長い歴史のなかで、おそらくここに載せたからと言って瞬時に何かが起こるとか、書き手からして期待していないかのようなこの舞台から、芥川賞よりも先に、まず候補作をつかみ取ってしまったのが、そう、われらが直木賞。第54回(昭和40年/1965年・下半期)に、よりによって同人雑誌作家2人に受賞させて直木賞界隈をドッチラケさせてから日も浅い第55回のことでした。
このとき候補になった田中ひな子さんは、一回候補になって一回落ちたぐらいで、とやかく騒ぐような人ではなかったらしく、……というか、身近に直木賞候補のベテラン、北川荘平さんもいたという、候補者として恵まれた(?)環境にあったからでしょうか、直木賞候補のことをクドクドと語ったりはしません。
あるいは、田中さんは「文学学校と私」のエッセイで、こう書いています。
「話しても話しても話しても、なお話したりぬ対話の場を、文学々校は提供してくれたように思う。(引用者中略)対話の中から、いくら議論してみても作品で示さねば、という考え方――というよりは実感――がひきおこされていった。私はいま、自分の作品評にムキになることが少なくなったように思う。いくらか客観的に受けとめられるゆとりができたのかもしれない。どう注釈づけても書いたものは変らないという認識、何といわれようと書かずにはいられないという一種の図太さみたいなものを、私なりに体得してきたのであろうか。」(『新文学』昭和44年/1969年7月号 田中ひな子「繊細さと図太さと」より)
候補になった「善意通訳」(『新文学』16号)にも垣間見えていた、何ゴトが起きても暗く落ち込んだりしない、むしろ前向きに立ち向かう図太さは、田中さんの生来のものでもあるでしょうが、文学学校に通って体験した数おおくの議論が、さらに田中さんの強みとなって文章の端々に現われている、のかもしれませんね。
この第55回の直木賞というのは、大阪文学学校の雑誌からはじめて候補を取り上げただけに終わらず、この学校でチューター(指導支援役)を務める北川荘平さんの作品もいっしょに候補に選び、北川さんと田中さんは、『VIKING』の先輩後輩、あるいは編集長と同人、でもありますから、結果次第では「後輩に一気に先を越された先輩作家の悲哀」とか、「講師役が卒業生に文学賞で負けた! 文学学校の悲惨!」などと、ゴシップ好き野次馬たちの心に火をつける可能性もあって、文藝春秋もなかなか鬼畜な企みを仕掛けてくるよな、という回だったんですが、二人とも、選考日までさんざんマスコミの取材攻撃を受けて辟易したぐらいで終わり、直木賞は、いわゆる商業誌にいるプロ作家へと流れていきました。
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