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2017年8月 6日 (日)

『新誌』…仲間が受賞すれば狂喜もするけど、同人みんなマイペース。

『新誌』

●刊行期間:昭和38年/1963年8月~昭和58年/1983年5月(20年)

●直木賞との主な関わり

  • 安西篤子(受賞 第52回:昭和39年/1964年下半期)

●参考リンク『文學界』同人雑誌評で取り上げられた『新誌』掲載作一覧

 神奈川県の鎌倉で、昭和28年/1953年から年2~3回程度刊行されていた同人誌『南北』が、とくに休刊のことばもなく第15号[昭和34年/1959年12月]でお休みに入り、心機一転、新しい仲間も加わって、昭和38年/1963年に再スタートを切ったのが、「新しい雑誌」と書いたこの『新誌』です。

 ……と言いながら、誌名の由来は全然知らないんですけど、これまでブログで取り上げた同人誌と変わらず、これもほとんど、いわゆる大衆文芸とは関係のないところで活動していた雑誌です。

 直木賞というのは、外部にいるワタクシのような人間から見ると、「えっ? どうしてこういう候補作を入れてくるんだ!」と、思わず叫びたくなることが結構あります。たとえば、佐藤正午『月の満ち欠け』なんか、こんなベテランの作品を候補に入れてくることがもう、相当オカしいです。まあ、こういうことを好んで仕掛けてくるのが、直木賞の候補選びの、昔からの伝統かもしれません。

 それで第52回(昭和39年/1964年・下半期)、『新誌』に載った安西篤子さんの作品が、いきなりナ・オ・キ・ショ・ウの候補に挙がったのを見て、「えっ? どうして……」と反応した人がいたのも、よくわかります。この雑誌に同人として参加していた石塚友二さんが書いています。

(引用者注:安西篤子が)若し候補者となり、受賞するとなれば、芥川賞の方こそ相応しい、さういふ作家と考へてゐたのであつた。その安西さんが「新誌」四号に発表した、歴史小説といふよりは、幾らかメルヘン風な作品で以て直木賞の受賞者となつたのだから、その意外さに驚かざるを得なかつたのである。

(引用者中略)

安西さんは直木賞の受賞前に出た「新誌」五号に『うそつき張』といふ題で、やはり中国と中国人を題材とする作品を発表してをり、この作品もなかなかの好短篇であるが、『張少子の話』同様、娯楽的読物の要素といふものはないので、直木賞の概念が、孰れかといへば、中間小説風な作品に対する授賞といふに近い点で、幾らか読者を戸惑はせるものがあらうかと思はれる。範疇を云ふならば純文学に属する性質のものだからである。」(昭和48年/1973年12月・学文社刊 石塚友二・著『日遣番匠』所収「直木賞安西篤子氏のことなど」より)

 つかみどころのない直木賞のふるまいに、驚かされた、ということです。

 だいたい、「この作家は(あるいはこの作品は)純文学だから、芥川賞で評価されるほうがふさわしい!」という発言を、まわりから誘発するのも、立派な「直木賞あるある」のひとつです。とくに珍しい反応じゃないかもしれません。

 このあたり完全に、直木賞の術中にハマっている感はありますが、選評を読んでも選考委員からして、安西さんや「張少子の話」を、大衆文芸の新人とその佳作、と見ることに、数多く疑問符が付けられています。なのに、これを受賞作のひとつに選んでしまったのは、安西さんの師匠・中山義秀さんが選考会にいたことが、他の委員に何らか精神的な影響を与えたんだろうか……と、そういう「場の雰囲気」ってものは、もはや論証の不可能な、単なる臆測でしか語れない事柄ですから、とうてい採用できる説じゃありませんけど、この回前後の選評を読むかぎり、『オール讀物』をはじめとする読み物誌に、すいすいと掲載されるような手アカのついた作風は、あまり直木賞では評価したくない、という考えが、何人かの委員たちに共有されていたことは、たしかなようです。

 でも、そういう直木賞側の事情で、本来、芥川賞が手を出す筋合いのものを直木賞にねじ曲げられた文芸同人誌って、けっこう迷惑だったんじゃないかなあ、と思うと、ちょっと背筋がゾワッとします。どうだったんでしょう。

 この辺、こと『新誌』に関しては、あまりそういうことに右往左往するような雑誌ではなかったみたいです。

 受賞後、安西さんは長く『新誌』に参加しつづけ、大衆読み物誌でバンバン活躍するという路線には進みませんでしたし、同誌の中心的な存在、清水基吉さんも、こう指摘しています。

(引用者注:『新誌』の同人たちは)流行に色目がなく、作風に色気のとぼしいことが長所であり欠点だが、同人は自己の個性に忠実に、マイペースでやっている。そこにおのずから「新誌」の大人(オトナ)的な性格があるといえよう。」(『読売新聞』昭和43年/1968年10月27日「われらのグループ 「新誌」」より ―署名:清水基吉)

 ううむ。こういう雑誌から、何の前触れもなくポロッと無名の人を候補に挙げて、最終的に受賞までさせちゃうのですから、ほんと直木賞というのは、つかみどころがありません。

           ○

 それで『新誌』の清水基吉さんです。マイペースで大人(オトナ)ということであれば、おそらく安西さんの受賞についても、泰然自若と受け止めたんだろう。……そう思っていたんですが、どうやら、そうでもなかったみたいです。

 清水さんは戦中最後の芥川賞受賞者となり、その後は、小説ではなく俳句のほうで名を馳せましたが、両賞とまったく無縁だったわけではなく、本人いわく、何度もこれらの賞の候補になりながら、そのたびに落ちて空しい思いをした連中をかなり知っていた、といいます。

 「張少子の話」が直木賞候補になったと知っても、まあ直木賞は無理だろ、と清水さんもタカをくくり、当日、万が一安西さんが受賞したときには安西さんのことを紹介する記事を書く、という某新聞からの注文も、軽い気持ちで引き受けます。

 当時の直木賞は、いまよりも候補作が多く(ちなみに第52回は9作品)、しかも長篇、連作、短篇集といった単行本から、あるいは読み物誌、純文芸誌、同人誌に載った短篇までが入り乱れ、何がとっても不思議じゃない度合いも、現在よりは高かったものですから、おそらく下馬評というか事前予想も、かなり難しかったでしょう。

 まず受賞の芽は薄い、と思われていた「張少子の話」だったんですが、ふたを開けてみると、何とこれが永井路子さんの『炎環』とともに、受賞作に決定。

 外出先から自宅に帰ってきて、それまで悠然としていたはずの清水さん、新聞社からの一報を受けると、一気に興奮のボルテージが上がります。「狂喜」との言葉も飛び出します。

「私は安西篤子が直木賞候補になったのを、当人に向かって「七分三分でダメですよ」といったが、実は彼女のおなじ作品を芥川賞に推せんする回答を出していたのである。そうして彼女が直木賞になると、私自身が賞を受けたように興奮し、妻子ぐるみ、狂喜して眠れなくなってしまった。

私が別室で、安西のことを書きはじめると、またどこかのテレビが彼女の受賞を知らせるらしく子供が

「お父さん、また出た! 出てるよ!」

と叫び出すしまつである。」(『俳句研究』昭和40年/1965年3月号 清水基吉「風雅彷徨(6)―ふうがわりな俳句論―」より)

 何だよおれがせっかく芥川賞に推薦したのに、けっきょく直木賞かよ。とグダグダ文句を言わないところが、清水さん、大人ですよね。

 ……とまあ、無理やり「大人」に結びつけようとしているのがバレバレですが、だけど、「文学賞で狂喜するなんて、俗人のすることだ」などと、青クサく高踏ぶったり反骨ぶったりしないところは、確実に大人の姿と言っていいでしょう。「文学賞=俗」だと短絡的に結びつけるのは、基本、お子さまの論理です。

 あるいは、芥川賞なら喜べるけど直木賞ではちょっと筋違い、なんて考え方も、かなりキツい文学臭がする、幼稚といえば幼稚な文学賞観ですもんね。安西さんが直木賞を受賞したことで、『新誌』の人たちが迷惑がったりしなかったのも、何かうなずけます。

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